「主義」考
私は「〜主義」というものを持たない。昔なら「イデオロギー」と呼ばれただろうものを持たない。
二十代の頃、父から「今の若い人は『イデオロギー』って言葉を使わないのかね?」と聞かれて、「耳にするけど何のことか分からない」と答えると、不思議そうな顔をした。学生運動真っ盛りな時代に「〜主義」や「イデオロギー」を持たない人間は「小市民」と言われて蔑まれたらしい。父はいわゆるノンポリ(特定の政治信条を持たない)人だったけど、それでも時代の影響を受けて、イデオロギーのことはずいぶん考えたらしい。
昔のように政治のことが語られなくなった現代でも、「〜主義」を標榜する人は少なくない。意見発信する人は政治信条を強固に持ってる人が少なくないからか、ツイッターのアカウントでも政治信条を明確に打ち出してる人が少なくない。
でも私は、特定の政治信条を持つ気がない。私が望んでるのは「できるだけ悲しむ人がいない世の中、みんなが笑顔で暮らしていける世の中」。それを達成するためなら、王政だろうが右翼だろうが民主主義だろうが共産主義だろうが何でも構わない。政治信条は、大切なことを達成するための「手段」でしかない。
だけどなぜか、政治信条、「〜主義」を何より大切に考える人は少なくない。それを貫徹したら泣く人がいるのに、笑顔でいられなくなる人が増えるのに、「そんなことより」と、「〜主義」を重視する。私から見ると本末転倒。手段を目的化してしまってるように私には思える。
医者は、患者の病態に合わせて治療法を選ぶ。もし「私は風邪薬主義!」と言って、どんな病気にも風邪薬しか処方しないなら、それはヤブ医者と呼ぶしかないだろう。それは政治でも同じではないか。手段でしかない「〜主義」を金科玉条にして、生きている人間を手段化するのは、本末転倒に私には思える。
私は特定のイデオロギー、主義を持たない。その代わり、どんな政治信条からも「使えるツール」があるなら学びとり、それを随時使いこなすことが大切なのかな、と思う。
かつての「〜主義」は、自分の主義に反する政治体制からは何も学ぶところがない、という頑なさがあった。また、自分の主義に欠陥が明らかにあっても「いやそれは」と認めようとしなかった。それは、主義を絶対的に信奉して、目的である「誰も泣かせない、誰もが笑顔で暮らせるように」をないがしろにする姿勢のように思う。
ではなぜそんなにも「主義」にこだわる人がいるのだろうか?たぶん、「居場所」を失いたくない、「後ろ盾」を損ないたくない、というのが大きいように思う。
人間はどうも、一人でいるのは心細い生き物らしい。そのため、「〜主義」に忠誠を尽くすことで仲間として認められたい、という気持ちを持ちやすいらしい。「〜主義」の仲間は守らなきゃいけない、という不文律がどうしたわけかどの集団にもあって、「こいつ困りモンやな」と思っても、同じ政治信条を信奉する以上、むげにもできないという不思議な心理が働くらしい。
そのことを知ってるから、「〜主義」は捨てがたいのかもしれない。しかも、「〜主義」にすがっていれば、「正義」という強い後ろ盾を得た気分になり、自分は正義の執行者になった気分になる。それまで、一人では頼りない気分だった弱者が、一気に強気に変わる。
見方を変えれば「虎の威を借りるキツネ」に近い心理のように思う。「〜主義」を信じるフリをすれば、トラの威を借りて威張ることができる。なぜかそんな気分になってしまう人が少なくないらしい。
でも、そうして「〜主義」を信じることで仲間を得たとしても、本来、その「〜主義」が目指していたはずの「泣く人をなくす、誰もが笑顔で暮らせる世の中に」という目標がないがしろにされることになってしまう。実に皮肉な話。
どんな「〜主義」も、「泣く人をなくす、誰もが笑顔で暮らせる世の中に」というのが目的のはず(あ、新自由主義だけは違うわ)なのに、仲間を失わないことが優先され、目的を見失う皮肉。これが「〜主義」の皮肉な面だと思う。
わたしが考えるに、「〜主義」は全て「〜手段」と呼び変えてはどうだろう。「絶対王政手段」「民主手段」「共産手段」。主義、イデオロギーは所詮、手段でしかない。手段に何を選ぶかは、そのつど変えていい。悲しむ人を減らし、笑顔でいられる人を増やせるなら、どんな「手段」でも柔軟に取れるようにする。そうしたら私たちは、もっと柔軟に物事を考えられるのかもしれない。
