【短編】人間楽器
「わたし、やっぱり東京に行く。それで立派なトランペットになる」
すこし肌寒さを感じるようになった、そんな夕暮れの帰り道。
美沙ちゃんがそういった。
気がつくともう10月。
皆、進路のことを具体的に考え始める季節だ。
僕は胸を締めつけられるような憂いを感じながらも、いよいよきた、という別の高揚感もあった。
「そっか。トランペットを選んだんだね」
僕が立ち止まると、美沙ちゃんも足を止め、こちらを見つめている。
「地元の大学じゃ、ダメなの?」
「ダメ。中途半端なことして混ざっちゃったらどうするの」
その真剣な眼差しに、僕は口を閉ざすしかない。
自分の母親のことをイメージしているのだろう。
彼女の母は、当初は電子ピアノの方向に進んでいたけれど、その後シンバルに寄り道してしまい、今ではシンバル電子ピアノだ。
せっかくの旋律に鈍い雑音が混ざっている。
残念ながら、そうなった人間楽器が演奏されることは稀だ。
「わかった。そこまでの決意があるなら」
僕がそういっても、眉間にしわを寄せたまま、美沙ちゃんは黙ってこちらを見ている。
わかっている。
次は、僕が決める番だ。
ふと、父がまだドラムセットになる途上の楽器人間だった頃、よくいっていた言葉を思い出した。
生きてると、何かを犠牲にしてでも決断しなけりゃならない時が、きっと来る──
腹部はバスドラになっていたし、左手はハイハットになっていたから、もう自律歩行は困難だったけれど、口はまだ人間のままだった。
そんな父も、今ではプロにも演奏される立派なドラムセットになった。
僕が理想とする人間楽器だ。
母も、今はまだ楽器人間だけれど、きっと立派なベースギターになるだろう。
「美沙ちゃん。僕も決めたよ」
行き交う同級生たちはチラチラと視線を向けてくる。でも、そんなことはどうだっていい。
「僕も、東京に行くよ。ちゃんとしたエレキギターを目指す」
美沙ちゃんは、そう、とだけいつもよりトーンの低い声で応じた。
それでもゆるく笑みを形作った口元は、安堵を表しているように感じられた。
「大学を出たら」
と、高まる気持ちを抑えきれなくなった僕は、
「結婚しよう」と、美沙ちゃんの両肩を掴んだ。
これには美沙ちゃんも「え」の形に口を開いたまま、一歩下がって、
「まだ大学入ってもないのに、早い早い! まずは受験だよ!」
早口でいいながら、首を振る。
それでも肩の上の僕の手に、そっとその手を重ねてきた。
柔らかく、そして温かい手だ。
そうだ。間違っていないはずだ。
美沙ちゃんと一緒に東京の大学を卒業する。
すぐに結婚して、子供をもうける。
そして……ああ、そうだ。
「美沙ちゃん。大丈夫だよ。僕らの子供も立派な人間楽器になれるよ。そしたら、3世代でバンドになろう」
これには、美沙ちゃんも、え、え、と言葉に詰まる様子を見せながらも、
「そう……なれると、いいね」
と、身を寄せてきた。
父はドラムセット、母はベース、僕はギター、そして美沙ちゃんはトランペット。
つまり、あとはマイクスタンドだけだ。
なんだ。
簡単なことじゃないか。
