本日の本質 #91 認知・判断・実行

ただ頑張ることが絶対に報われない理由

人間が現実に働きかける過程は、大きく「認知」「判断」「実行」の三段階に整理できる。認知とは世界をどのように認識するかであり、判断とは認識した情報をもとに何を選択するかであり、実行とは選択した内容を現実の行動へ変換することである。私たちはしばしば成功の要因を実行力に求める。「まず動け」「とにかく行動しろ」という助言は、その典型であろう。もちろん実行は重要である。しかし、資本主義社会において本当に大きな成果を分けるのは実行だけなのだろうか。本稿では、なぜ実行以上に認知が成果を規定するのか、そして個人がどのように認知を更新し、より高いレイヤーへ移行していけるのかについて考察する。

学校教育は本質的に実行能力を鍛える仕組みとして設計されている。与えられた課題を期限内に提出すること。決められた範囲を暗記すること。試験本番で正確に再現すること。これらはすべて実行能力の訓練である。もちろん実行力は重要であり、社会人として最低限の前提条件でもある。しかし学校教育は、何を学ぶべきかを認知する力や、何を選択すべきかを判断する力については、実行能力ほど重点的に扱わない。その結果、多くの優秀な人材が、実行能力に比して認知力や判断力を十分に鍛えられないまま社会へ送り出される。彼らは「与えられた問いに正しく答える能力」には長けている。しかし、「そもそも何を問いとすべきか」を見抜く訓練は十分に受けていない。

実際のビジネスの現場では、実行力だけで大きな差が生まれることは少ない。優秀な企業に所属する人々は総じて勤勉であり、一定以上の知能と責任感を備えている。彼ら同士を比較した場合、実行能力の差は思われているほど大きくない。むしろ成果の差は、どの市場で戦うか、どの会社に所属するか、誰の下で働くかといった環境選択によって大きく左右される。そして認知力を鍛えてこなかった人間は、これらを選択可能な変数として認識できない。仕事は与えられるもの、上司は割り当てられるもの、会社は所属するものとして受け入れてしまうのである。しかし高い認知力を持つ者は、それらを自ら設計し得る変数として捉える。同じ努力量であっても、認知が異なれば結果はまったく異なる。

さらに言えば、判断とは認知の従属変数である。正しい認知ができていれば、判断の難易度は大きく下がる。例えば巨大な氷山が進行方向にあることを認識していれば、進路を変えるという判断は自然に導かれる。一方で氷山の存在そのものを認知できていなければ、どれほど優秀な船長であっても衝突を避けることはできない。判断力とは独立した才能ではなく、多くの場合、認知の質によって決定されるのである。もっとも、正しい認知がそのまま正しい判断へ結び付くとは限らない。鋭い洞察によって見えてくる景色は、多くの場合、周囲の常識や多数派の選択とは異なるからである。成長市場へ移ること、環境を変えること、人間関係を見直すこと。頭では合理的だと理解できても、実際にその選択を実行するには勇気がいる。本当に優れた判断とは、新規性と合理性を兼ね備えた認知に基づき、周囲と異なる選択を取る勇気を持つことである。そして、この判断の差が同等の実行力を持つ人々の成果を大きく分ける。

ではそもそも、認知力とは何だろうか。それは単なる知識量ではない。世界の構造を理解する能力である。世界情勢、技術革新、資本市場、産業構造、人口動態、制度変更といった巨大な流れを把握し、それを自分の仕事や人生に接続する能力である。言い換えれば、社会を動かしている力学や法則を理解する能力とも言える。業務の細部を知っているだけでは足りない。その業務が社会全体の中でどのような意味を持つのかを理解できて初めて、高い認知力を持つと言える。ある領域についてどれほど詳しく知っていたとしても、それを正しい認知に基づいて位置付けることができなければ、判断を大きく誤る。知識そのものよりも、その知識をどのスケールの座標軸に配置するかの方が重要なのである。天動説を前提にどれだけ精密な観測を重ねても、宇宙の真の姿には到達できない。努力はしている。知識も増えている。しかし根本の前提となる認知が誤っていれば、その努力は本質へ近づかない。認知とは座標軸そのものであり、実行とはその座標軸の上を移動する行為に過ぎない。地図が間違っていれば、どれだけ速く走っても目的地には辿り着けないのである。

性格の悪い話をしよう。筆者は毎週木曜日、フットサルの夜練習の後に銭湯へ行く。そこでよく二十代前半の男子学生たちの会話が耳に入る。金の話、恋愛の話、大学の話、就職活動の話。彼らは総じて優秀である。中には千葉大学のような難関大学の学生も少なくない。しかし話を聞いていると、彼らの関心はほとんど実行レイヤーに留まっている。どの会社に入るか、どの資格を取るか、どのアルバイトの時給が高いか。その先にある社会の構造や資本の流れについて語られることはほとんどない。ゲームの攻略法やプレイのコツについては熱心に議論する。しかし、そのゲームが誰によって作られ、どのようなルールで運営され、誰が利益を得ているのかという方向へ知的好奇心が向かうことは少ない。彼らはモンスターハンターを熱心にプレイするが、CAPCOMの株価には無頓着である。もちろんどちらもゲームの話である。しかし前者が消費者向けに設計された娯楽であるのに対し、後者は現実の資本が動くゲームである。どちらにより多くの時間を投下するかは自由だ。しかし、その選択が人生の経済的帰結を大きく左右することだけは間違いない。

では、なぜ認知格差は存在し続けるのか。それは、認知の更新が容易ではないからである。認知を書き換えるということは、自らの世界観を否定する作業だからである。『金持ち父さん 貧乏父さん』が示したように、多くの人は幼少期から労働者階級の価値観を刷り込まれている。勤勉であれ。時間を守れ。安定を求めよ。波風を立てるな。それ自体は悪い教えではない。しかし資本主義の現実には、競争、リスク、覚悟、リターン、再生産といった別の法則が存在する。認知が更新されるということは、これまで当然だと思っていた価値観を疑うことであり、多くの場合は所属する共同体との距離を生む。

一般大衆の常識に逆らう極端な例を挙げよう。労働者階級の価値観では、「時間を守ること」が美徳とされる。しかし資本の主人にとって重要なのは、「時間を守ること」ではなく、「どのような時間を設計するか」「誰にその時間を任せるか」である。彼らは自らの時間を切り売りするのではなく、他者の時間や組織の時間を統合し、価値創造へ変換することによって富を生み出す。より極端に言えば、資本の主人には守るべき時間など存在しない。なぜなら彼ら自身が時間の設計者であり、時間厳守とは自らが従うルールではなく、人に要求するルールだからである。多くの人にとって、この発想はグロテスクに映るだろう。生理的に受け付けないかもしれない。だから人は認知を更新したがらない。同じ価値観を持つ仲間と群れ、安心できる世界観の中に留まり続けるのである。

もし階級を移動したいのであれば、まず認知を書き換えなければならない。そのためには一人になる時間が必要である。旅をすること。挑戦すること。本を読むこと。そして考えること。群衆の中では認知は更新されない。認知が更新されると、これまで当たり前だと思っていた判断が急に気持ち悪く感じられるようになる。友人たちとの会話が退屈に感じるかもしれない。これまで尊敬していた大人の言葉に違和感を覚えるかもしれない。それで正常である。認知が変われば、見える世界も変わるからだ。もっとも、この段階でいきなり起業家や投資家になろうとする必要はない。多くの人にとって最も再現性の高い戦略は、高い認知力を持つリーダーを見つけ、自身のロールモデルやメンターとすることである。市場を正しく認識し、組織を正しい方向へ導いている人物の近くで働く。そしてまずは、その認知を理解することだ。次に、その認知を現場へ翻訳し、実行組織をまとめるマネジャーになることである。認知力を持つリーダーと、高い実行力を持つチームを繋ぐ存在になるのだ。多くの人にとって、これが実行レイヤーから脱出する最も費用対効果の高い方法である。

結局のところ、人生を変えるのは努力の量ではない。努力の方向を決める認知である。認知が変われば判断が変わる。判断が変われば行動が変わる。行動が変われば現実が変わる。多くの人は実行力を磨こうとする。しかし、本当に差が生まれるのは認知のレイヤーである。資本主義とは、認知の差が最も大きく報酬へ転換されるゲームなのである。だからこそ私たちは、何かをする前に、まず何を見るべきかを学ばなければならない。努力する前に、どのゲームをプレイするべきかを考えなければならない。そして時には、周囲が当然だと思っている世界観そのものを疑い、そこから一人で抜け出す勇気を持たなければならないのである。

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阿部 信太郎 / Shintaro Abe いつも応援ありがとうございます。