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出なかった旅のつづき── 90年代女子的な深夜特急答え合わせ⑧マレー半島・シンガポール編2026年

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マレー半島II・シンガポール編

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第五章 娼婦たちと野郎ども
第六章 海の向こうに

1974年の深夜特急旅は、バンコクからシンガポールまで。
51歳の私が、2026年に再読します。

タイ、マレーシア、シンガポールの三国を走る国際列車ではなく、鈍行で。690円でたどり着ける、なんの変哲もない田舎町へ向かう。

私は私で、バンコクにおける最後の日に、子供とはいえこんな気持のいいバンコクっ子に会えたことで、大いに気をよくしていた。これからマレー半島を縦断するが、この旅は存外ついているかもしれないな、と思った。もっとも、そう思うことで、マレー半島という皆目見当もつかない土地を縦断しようとしている自分を、どうにか励まそうとしていたのかもしれないのだが。

深夜特急 第五章

旅のこういう気分、よくわかるなと思う。
2026年、51歳の私も、1994年、19歳の私も、とても共感した部分です。小さなプロフェッショナルが毅然と誇りを持って働く姿は、バンコクで最も印象に残ったシーンだったと記憶しています。私は二十カ国弱を旅したけれど、この手の感動には出会えなかった。若い頃に遭遇してみたかったなと思います。

満員列車とバックパッカーの現実

満員電車の中での席取り合戦はいかにもバックパッカー旅らしい。読む分には楽しいけれど、日本の時間に正確な新幹線でさえ、座れないだけで相当疲労する私は、きっと耐えられないだろうなと、19歳ですでにそう思っていた。
51歳の私は、新幹線は指定席しか乗らない。自由席で立って移動する選択肢はない。でも、隣ガチャに失敗するとストレスマックス。今の私には沢木耕太郎的な旅は無理だな。

そんな過酷な鉄道の環境の道中、ふとしことから始まった歌合戦。タイの歌に負けじと演歌を三曲歌った沢木耕太郎。ストイックな旅人なだけでなく、意外と茶目っ気もあるのね。

そういえば、大学生でエジプトを旅していたとき、ナイル川クルーズの三泊の旅に出て、途中のパーティーで芸を求められ、女子三人で苦し紛れに盆踊りを披露したことがあります。意外にも拍手喝采だったな。あれは1997年だったか。たしか、東京音頭。

娼婦の話と19歳の解釈

タイの田舎で子連れの娼婦に遭遇する話。
娼婦に声をかけられたという似たような体験をバックパッカー被れ男子たちから何度か聞いたことがある。いずれも未遂で、ことには及ばす。私の見立てでは、深夜特急インスピレーションの遭遇未満の作り話に違いありません。みんなイキがりたいんだよね、二十歳前後って。

漢詩とヒッピー、時代の手触り

沢木耕太郎が持っていた李賀の漢詩と、旅で見た蛍の光。19歳の私は沢木耕太郎に憧れて、父の書斎から誰かの漢詩集を借りました。まったく読み進められず、挫折した。どの偉人の漢詩だったのでしょう。今でもきっと読めないな。

タイとマレーシアの国境の街に着いたとき、沢木耕太郎たちツーリストを迎えるメッセージ。

《われわれはツーリストを大いに歓迎する──ただしヒッピーは除く》

深夜特急 第五章

しかし、そこに居合わせたツーリストとおぼしき旅人は、みなヒッピー。

1974年という時代には、ヒッピーが当たり前に存在していて、60年代と地続きの空気があります。
94年の時点でもヒッピーという概念はあったけれど、私の周囲にはもういなかった。元ヒッピーだったおじさんのアジアン雑貨屋が、ヒッピーを感じられる場所だった。それに近い存在がバックパッカーだったのかもしれない。

今ではヒッピーは歴史的な現象となり、BOHOなどファッションのアイコンのような存在になっている。エシカルな価値観の源流のようにも感じる。ひとつの言葉で、時代の距離が一気に立ち上がり、この旅が50年以上前の出来事だったことを鮮やかに実感するのです。

ペナンの宿と日本批判

ペナンで泊まったのは、不思議に陽気な娼婦の館。香港、バンコク、タイの田舎町、そしてペナンと、いかがわしい宿ばかり。深夜特急にもあるように、現地の人が泊まる安宿となると、そういう場所になるのでしょう。

私も激安ソウルツアーで、オンドル旅館という名のラブホテルに泊まったことがあります。
ということは、2026年に日本を訪れるツーリストもラブホテルに泊まっているのだろう。いや、インバウンド向けに業態変更した、元ラブホテルに泊まっているのかもしれないですね。枕元に有線放送チャンネル(USEN)があったりして。笑←古すぎるか。今は音楽は自分で持ち込む時代だもんね。

ペナンでヒモが展開する日本批判は、1994年、経済学部の私にとって、1974年から届いた20年越しの手紙のようでした。
高度経済成長からバブル期にかけて、24時間戦うビジネスマンたちが東南アジアを工場として開拓していった結果、90年代の日本では産業空洞化が社会問題に。
2026年現在は、日本国内に生産拠点が戻っている分野もあります。ここでも、この旅が半世紀前の出来事であることを実感しました。

海の向こうに見えたシンガポール

ジョホール・バルから水路を隔てた向こうに、南国の陽光をいっぱいに受けたシンガポールの高層ビル群が見える。

沢木耕太郎は、その光景に九龍から香港島を眺めた時のような感動を覚えました。
深夜特急の旅は、ついにシンガポールへ。

アラブ・ストリートと2014年の記憶

アラブ・ストリートの描写は、2014年に私がシンガポールを訪れたときとほとんど変わらなかったです。布地の店が果てしなく並び、シンガポールの秋葉原であり、アメ横であり、浅草橋のような場所。40年前と変わらないことが、なんだか楽しい。

シンガポールに来て、一番「旅している」と感じた場所でした。

2014年の私は、シーシャを楽しみに行こうとしたとき、同行の女子に突然来た生理。不機嫌で激おこぷんぷん丸になった女子を連れてのシーシャは現実的ではなく、私はまたもや旅から引き剥がされました。

旅に出る理由と挫折

沢木耕太郎は、シンガポールで旅に出た経緯を思い出します。26歳になるまでに、旅に出る。仕事を放棄して旅に出る、と。

確かに、粋狂なことをしたかった。デリーからロンドンまで、乗合いバスを乗り継いで行くという、およそ何の意味もなく、誰にでも可能で、それでいて誰もしそうにないことをやりたかった。しかし、それは自分や他人を納得させるための仮りの理由に過ぎなかったのかもしれない。

深夜特急 第六章

沢木耕太郎は酔狂に振り切って旅に出た。25歳の私はできなかった。旅に出るつもりはあったけれど、会社を簡単には辞められないという理由で、その一歩を踏み出せなかったのです。

当時の私にとって酔狂とは、「どこにも属さない状態」。けれど私は、新卒で入社した会社に属する自分を変えられなかった。守るものがあったというより、「会社を辞めて旅に出る女性はドロップアウト」という当時の常識に縛られていたから。

2000年、25歳の旅は、執行猶予ではなく、レールから外れることだったと記憶しています。

記憶の混線と気づき

第二巻の終わりまで読み進めても、私が鮮やかに記憶しているオーチャードロードで母国語を話すフィリピン人メイドの話は出てこなかった。

ん?
何を勘違いして覚えていたのだろう。

おそらく他の旅の本と混同してた。そして、自分の中でイラン人男性への記憶と結びつけて、勝手に考察していたのだと思います。再読して、30年ぶりに誤解が解けました。

香港は、香港にしかない

シンガポールで沢木耕太郎は気づく。

タイやマレーシアのどんな街にいても、無意識のうちに香港を探し求めていた。そして、違う、違うと思っていたのだ。これらの国が中国の文化に深く影響されていたということも、街には華僑が多かったということも、私にそのような錯誤をもたらす大きな原因ではあったろう。

深夜特急 第六章

香港は、香港にしかない。

この気づきを携えて、旅は次の目的地へ向かいます。カルカッタへ。

私のnoteも、インドへ向かいます。

続く

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