最古のサードプレイスである「公園」は、なぜこんなに居場所になりにくいのか?
「サードプレイス」という言葉を最初に提唱したのは、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグである。
彼は1989年の著書『The Great Good Place』の中で、「家庭(ファーストプレイス)」「職場(セカンドプレイス)」に続く、第三の居場所として「サードプレイス」という概念を提唱した。
オルデンバーグが代表例として挙げたのは、地域の人々が気軽に集まる場所だった。イギリスのパブ、フランスのカフェ、ドイツのビアガーデンなどである。
さらに歴史をさかのぼれば、公園や広場のような公共空間こそ、人類にとって最も古いサードプレイスの一つと言えるだろう。
古代ギリシャには市民が集う「アゴラ」があり、現代でも世界中の都市に公園や広場が存在し、人々が集う公共空間としての役割を果たしている。
しかし、私は公園には条件付きでしか滞在しない。
なぜだろうか。
サードプレイスとしての公園の欠点
・日本では「子どもの遊び場」という性格が強い
もちろん、大規模な都市公園や景観を楽しむ公園は別である。
しかし住宅地に点在する小さな公園は、多くの場合、子どもの遊び場として整備されている。遊具も子ども向けであり、大人が一人で長時間過ごすことはあまり想定されていない。
そのため、大人が一人でベンチに座っているだけでも、どこか居心地の悪さを感じてしまう。
特に中年男性であれば、不審者と誤解されるリスクすらあり、公園へ行くこと自体の心理的ハードルが高くなっている。
・気候に左右されるサードプレイスである
春や秋の穏やかな季節であれば、公園は食事をしたり、本を読んだりするには最高の場所である。
しかし、真夏や真冬では事情が変わる。
猛暑や厳寒の中では長時間滞在することは難しく、日本のような高温多湿の気候では、公園は年間を通して安定したサードプレイスにはなりにくい。
私が住む地方都市でも、公園はある一方で地下街が非常に発達している。
気候の影響を受けにくい屋内空間の需要が高いことを考えると、公園だけでは都市の居場所として十分に機能しないのも理解できる。
・公園が孤立していると利用しづらい
私は、公園の最大の課題は立地だと思っている。
周囲に駅や商業施設、飲食店などがない公園は、景観や遊具など公園そのものに強い魅力がなければ、わざわざ足を運ぼうという気持ちになりにくい。
人は、何もない屋外で何時間も時間をつぶせるほど想像力豊かな生き物ではない。
一方で、駅と商業施設の間にある公園は話が違う。
買い物の途中で休憩したり、テイクアウトした昼食を食べたり、人を待ったりと、自然に立ち寄る理由が生まれる。
このような公園は、非常に優秀なサードプレイスになり得る。
例えば、
東京では六本木のミッドタウン・ガーデンや日比谷公園、
名古屋では久屋大通公園やオアシス21
などがそうだ。
私自身も、これらの場所では実際によく時間を過ごしている。
以上のように、公園は本来とても優れたサードプレイスになり得る。
しかし日本では、
「子どもの遊び場」という位置づけが強いこと、
気候の問題、
そして立地の問題から、
その機能が十分に発揮されているとは言い難い。
そのため、日本では地下街や図書館、公民館などの屋内空間のほうが、
サードプレイスとして機能しやすい場面も多いのではないかと思う。
興味深いのは、中国で建設が進められているスマートシティ「雄安新区」である。
雄安新区では、公園は単なる憩いの場ではなく、都市そのものを形づくる基盤として位置づけられている。
街を造る前に緑地や水辺を計画し、その上に住宅や商業施設、道路を配置するという発想が採られている。
住民は徒歩数分で公園へアクセスでき、通勤や買い物、散歩といった日常生活の中で自然と緑に触れられる。
公園は「余った土地」ではなく、人と自然、人と人をゆるやかにつなぐ公共空間として、都市設計の中心に据えられているのである。
私は、この発想はサードプレイスとしての公園を考える上で非常に参考になると思っている。
もちろん、雄安新区はゼロから造られたスマートシティであり、
日本の既存都市でそのまま再現することは現実的ではない。
しかし、公園を都市の余白として扱うのではなく、
人が自然と集まり、立ち寄れる場所として街づくりの中心に据えるという考え方は、日本でも取り入れる価値があるのではないだろうか。
私自身、居心地の良い公園はとても好きだ。
いつか生活にもう少し余裕ができたら、緑が多く、心地よい風が吹く公園で、カフェラテを片手に何も考えず、のんびりと過ごしてみたい。
