人はわりと 「自己中」 な生き物
最近、人間関係の相談に触れ、街を歩いて人の表情や行動を見たりしていて、ふと感じることがあります
「みんな、実は自分のことで精一杯なんだ」 ということ
それは冷たいわけでも、優しさがないわけでもなくて
ただ 自分の世界に心と時間が取られているだけ
でもこの視点に気づいてから
私は他人の行動にハラハラせず、少し余裕をもって見えるようになりました
今日はそんな 「人の見え方」 が変わった話を
すこし書いてみようと思います。
子どもの頃に教わった「思いやり」
子どものころから、私たちは周囲の大人から
「人に優しくしなさい」「思いやりを持ちなさい」
と言われ続けてきました
ケンカをすれば 「相手の気持ちを考えて」 と諭され
友人関係では 「相手を思いやることが大事」 と教えられる
でも大人になってふと感じるのです
人って案外、自分の世界を基準にしか物事を見られないんだなと・・・
自分が経験した瞬間、世界の見え方が変わる
本当に、驚くほど 自分に関係があるもの しか目に入らないもので
自分がケガをすれば、町中の段差や不便さが目につく
妊娠をすれば、産婦人科や妊婦が目につき
子連れで外出すれば、人込みに恐怖を覚える
泣き止まない赤ちゃんを抱えた若いお母さんに出会うと
昔の自分がよみがえり
「あの時の自分だ」と胸がぎゅっとなる
ペットを飼えば、動物病院やペットフードの情報を目が拾いにいく
人の価値観は、経験とともに驚くほど簡単に塗り替えられていく
気づく対象も、気遣えるポイントも
全部 「自分を中心」 に動いている
良くも悪くも、それが人間のリアルなんだと。
人は社会貢献を語りながら、やっぱり自分目線で生きている
人のために、社会貢献と言っているわりに
自分目線でしかものを見ていないものだ
これは誰かを批判するための言葉ではなく
むしろ 人の脳の自然な働き を表している言葉だと思うのです
たとえば
自分が保育園探しで涙するほど困った経験をした人でさえ
子どもが大きくなり保育園を必要としなくなったとき
近所の保育園建設に反対することがあります。
「自分も困ったじゃない?」とツッコミたくなるけれど
それほどに人は、今の自分の生活を守ることに敏感になる
毎日他人の子どもの遊ぶ声が聞こえ、それを騒音と捉える人からは
そういった行動がとられるのだろう
これはある意味で人間の 自然な反応 なのかもしれない
人間は
自分のテリトリー、自分の安心、自分の心地よさ を
最優先に感じるようにできているから
だから人の言動が少し自己中心的に見えても
それは悪意ではなく
人の認知の仕組みそのものだったりする
人は自己中心的。それを知ると優しくなれる
ここからが一番大事なところ
私たちは自己中心的な部分を持っている
でもこれは悪ではなく、ただの人間の仕様
そして不思議なことにーー
自己中心的であることを自覚した瞬間、人は優しくなれる
自分が経験していない痛みに気づけないのはある意味当然といえる
けれど
自分が痛みを経験した物や事に関しては
他人の痛みに寄り添えるようになれるもの
ケガをしたことがある人は、段差に困る人の気持ちが分かるから
荷物をもってあげたり、エレベーターのボタンを押して待ったり、ドアを開けあげたり
子育てに苦労した人は、子連れの大変さを肌で理解できるから
泣き止まない赤ちゃんをみては「元気でいいね」「お母さんがんばれ」と声をかけたくなったり
孤独を知った人は、人の孤独に静かに気づけるから、寄り添ってみたりと
経験から行動に起こせる。
つまり私たちの優しさは
自分中心の世界を知ったうえで成長してきたと言える
だからこそ
「人間は自己中心的で当たり前」という前提を持っていると
他人の行動を責めすぎず
自分の小さな変化にも気づけるようになる
そしてその余白が
結局は人の優しさの源になるのだと感じるのです。
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