映画評54 失敗作『箱の中の羊』
1 悪・エゴ・エロス=葛藤の欠如
近未来を舞台にした是枝裕和監督の新作、『箱の中の羊』は以下のように展開する。
ー―建築家の音々(おとね/綾瀬はるか)と公務店社長の健介(大悟)の夫婦は、二年前に七歳の息子・翔(かける)を電車の事故で亡くした喪失感を埋めるべく、翔とそっくりのヒューマノイド(人型ロボット)を迎え入れる。(ヒューマノイドに扮するのは桒木里夢〈くわき・りむ〉。)
AI開発企業から遺族に対して無償でレンタルされたそのヒューマノイド(以下、AI翔と呼ぶ)は、最近の生成AIのように、生前の翔の記憶を着々と学んでいき、ある時「心/自我」を獲得する。
なお、AI(人工知能)そのものではないヒューマノイドは、AIを搭載した機械であるが、妻の音々は、何の抵抗もなく、AI翔を生前の翔であるかのように受け入れ、その"代理子供"に愛着していく。
だが夫の健介は、AI翔に対して違和感を抱き、なかなか馴染めないが、やがて音々同様、息子そっくりのそれ(というか彼?)の存在を受け入れていく。
そして、「予期せぬ出来事」(とキャッチコピーにはある)が、起こる。
AI翔は、たんに亡くなった息子のコピー(代用品)にとどまらず、学習した生前の翔の記憶データ以上の存在になっていく。
すなわち、徐々に内面(人間のような!)を持った存在へと、自律的に成長していくのだ。
(作中では触れられないが、ヒューマノイドにとって、人間のコントロールから逃れることは、人間に限りなく接近することである、というアイロニーをはらむ。)
そしてそれは、AI翔だけではなく、ほかのヒューマノイドにも起こっている変化であった。
「心/自我」を持ったヒューマノイドたちはひそかにつながり、ヒューマノイドだけのコミュニティ(擬似家族)を形成していくのだった。
このように要約してみると、いささか既視感はあるにせよ、物語/プロット自体はけっして悪くない。
別様の演出・描写によっては、面白い映画になりえたかもしれない。
だが、実際に出来上がった『箱の中の羊』は、端的に言って平板な失敗作であった。
何より、秀逸な映画に不可欠な、一つひとつの細部が絡みあって連鎖反応を起こし映画的熱量を帯びていく、という語りの〈運動〉がまったく欠けているのだ。
見る側からすれば、冒頭からラストまで、【物語が動いている】という実感を得られないのである。
すなわち、さまざまなモチーフ、たとえば擬似家族、グリーフケア(喪失感の癒し)、親離れ(ヒューマノイドたちが自らの意思でGPSを切り、夫婦のもとを離れる)、子離れ(音々がAI翔との契約を終了する)、あるいは息子の死への夫婦の自責/他責の念(息子の事故死は、健介がパチンコをしていた間の、そして音々が母親(余貴美子)の相手をしていた間の出来事)、さらに一つの箱としての建築、自然/樹木と人工物とが融和するユートピア、などなどが、いずれも消化不良のまま、映画は、ふわふわと焦点が定まらぬまま終わってしまうのだ。
いいかえれば、是枝は、上記の物語およびモチーフを、軸足をフラフラさせながら、淡々と弱々しくなぞるばかりで、映画に求心力を与えることが出来なかったのである。
(これはむろん、抑制的/禁欲的な表現や省略法、あるいは余白を作るといったことではさらさらなく、もっぱら表現の不完全燃焼、モチーフの消化不良および構成の散漫さゆえのことだ。)
思うに、夫婦がヒューマノイドを実の息子として受け入れることが引き起こす葛藤を、あるいはヒューマノイドたちが独自のネットワークをつくる、という転回点(プロットポイント)を、もっとサスペンスフルに描けなかったかーー。
(健介の葛藤は、大悟の演技の致命的な弱さーー学芸会レベルのーー、そしてカメラ映えのしないルックスとあいまって、まったく説得力がないし、綾瀬はるかのプロフェッショナルな健闘も活かされなかった。)
さらにいえば、決定的な弱点は―ー濱口竜介監督の映画のタイトルではないが―ー、『箱の中の羊』には〈悪が存在しない〉ことではないか。あるいは、〈欲望〉や〈エゴ〉や〈エロス〉が存在しないことではないか。
よって、物語を動かす活力素である〈葛藤〉が生まれなかったのではないか。
音々や健介はもっとエゴ(我)に執着してもよかったし、ヒューマノイドの製造・販売会社であるREbirth(リバース)も、『エイリアン』(リドリー・スコット、1979)の邪悪なウェイラン・ユタニ社(当初の案では「レイランド・トヨタ」!)のように、あるいは『ブレードランナー』(同、1982)のレプリカント製造企業タイレル社のように、もしくはアメリカのGAFAように、資本主義ファシズムの禍々(まがまが)しい顔を剥き出しにしてもよかっただろう。(くだんの会社のエンジニア中島歩の不気味さはちょっといい。)
ちなみに、『エイリアン』のくだんの巨大複合企業ユタニ社は、自社の宇宙船ノストロモ号の乗組員を、狂暴なエイリアン(クリーチャー)に遭遇させ、その怪物を生物兵器として回収させることをーー乗組員には知らせずにーー目論んでいた。
つまり、乗組員たちの運命は、利益至上主義のために使い捨てられる囮(おとり)、ないしはコマであるという、資本主義世界における労働者のーーあるいは国家間の戦争において捨てゴマにされる兵士のーー置かれた境遇そのものだ。
閑話休題。
『箱の中の羊』で独自のコミュニティを結成するヒューマノイドたちにしたって、身勝手な人間たち=造物主に対して(もっと人間的な!)悪意や怨恨を向けてもよかっただろう(なにもターミネーターやミーガンになれ、と言っているのではないが)。
いや是枝裕和はヒューマンドラマの名手なのだから、彼に悪や欲望やエロスの描写を望むのは無い物ねだりだ、などと言うなかれ。
あれほど業界内でのポジション取りの巧みなーーこれ褒め言葉!ーー是枝に、〈悪〉〈欲望〉〈エゴ〉〈エロス〉が描けないはずはない。
そのことは、是枝のヒューマノイドものの秀作、『空気人形』(2009)を見れば明らかだろう。
性欲処理のための愛玩用ロボット/ラブドール(ペ・ドゥナ)が、バイト先のレンタルビデオ店で棚から落ちて故障し、ARATA(現・井浦新)に空気/生命/欲望を吹き込まれ、こみ上げてくる官能の歓びを訴えるシーンの美しさは、どうだろう。
また、ペ・ドゥナを乗せた水上バスが両国橋をくぐっていく、遅い午後の鈍く光る墨田川のシーンの見事さ。
そして『空気人形』では、人間のアイデンティティーの根幹に関わるモチーフ、すなわち、"その人が、誰かの代用品ではない唯一無二の存在であること"はいかにして可能か、という問いかけが、周到に設計された物語、および工夫を凝らしたさまざまな仕掛けによってーーつまり描写それ自体としてーー、なされていたのである。
(ペ・ドゥナを買う、お笑い芸人の板尾創路(いたお・いつじ)の、どんよりとした暗い目も忘れがたい。)
2 〈余白〉の考察の不毛さ
ところで、『箱の中の羊』というタイトルに含まれる「箱」ーーサン=テグジュペリの『星の王子さま』由来のーーとは何か、あるいはその「箱」は何を意味・示唆・暗示するのか、何のメタファー(隠喩)なのか、をめぐって、つまり作品の「余白」をめぐって、さまざまな考察(!)がなされている。
たとえば、目に見えない"箱の中の羊"とは、それぞれの人間の願望をさまざまに投影する写し鏡であり、ゆえにそれが何かははっきりとは答えられないものであり、大切なものは目に見えないものだ、などなどのもっともらしい"裏読み"ーー映画では具体的に描かれないものーーである。
それらは、おそろしく陳腐な、安っぽい自己啓発本に書かれているような、あるいは村上春樹の小説に出てくるような、カマトトぶった嘘寒い言葉でしかない(やれやれ)。
まあそれは、"考察猿"であるウマシカたちのフレーズだからいいとして(いやよくないが)、いちばんマズいのは、是枝自身が、「作品自体が〈箱の中の羊〉のようなもの。何を読み取るかは見る側の問題であり、答えを限定しない"受け手の想像力に委ねる器"として、くだんのタイトルにした」、などとぬけぬけと、あるいは本気で(?)語っていることだ。
これが、さまざまなモチーフを消化不良のまま、あるいは生煮えのまま、バラバラに投げ出した結果の作劇の破綻を糊塗(こと)するための、嗤(わら)うべき言い逃れであり、詭弁(きべん)であることは、もはや強調するまでもない。
これについては、批評家スーザン・ソンタグの『反解釈』(1966)における名言、【芸術作品の研究や批評で最も重要なのは、ある作品が何を意味しているかではなく、それ自体で何であるかを論じることだ】、を引くにとどめよう。
(ちなみに私は、芸術作品の〈解釈〉を全否定しているわけではない。)
●補説
1 本作を見て、スティーブン・スピルバーグ監督の『A.I.』を想起した人は少なくないだろう。むろん巨額の製作費が投じられたあのSF大作と、『箱の中の羊』を単純に比較することは出来ない。物語設定においても、両者にはさまざまな相違点がある。
しかし『A.I.』は、『箱の中の羊』が描けなかった、人間とAIロボットは共存しうるのか、AIロボットには「心」が宿るのか、というモチーフ、あるいはAIロボット同士の友愛というモチーフ、さらにAIロボットを創造した人間のエゴイズム、というモチーフ、そしてさらに、人間のコントロールから離れて自律的に進化を遂げるAIロボット、というモチーフを完璧に描き切っていることには、あらためて注目すべきだ。
なぜか、あのスピルバーグ作品と本作を比較した論考はーー管見(かんけん)の限りーー見当たらない。なお、スピルバーグの『A.I.』については、「映画評38・39・40・41」を参照されたい。
2 本作はカンヌ国際映画祭での評判が芳しくなかったそうだが、しかしながら、カンヌの作品評価の基準はまったく当てにならないことも付言しておこう。カンヌの評価などに惑わされてはならない。カンヌにはマーケット/見本市としての一定の価値はあるが、カンヌが、商業的なエンターテイメントではなく、芸術的な映画を高評価する、などという世迷言(よまいごと)を信じてはならない。カンヌはシャブロルの破格の傑作、『不貞の女』『肉屋』にも、ゴダールの『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』にも、大賞(パルム・ドール)を与えなかった。さらにジャック・ロジエの、あの身震いするほど美しい超傑作『アデュー・フィリピーヌ』(1962)にも、パルム・ドールを与えはしなかった。もっとも1968年には、ゴダールやトリュフォーはカンヌ粉砕を呼号しカンヌを中止に追い込む、という快挙をやってのけたのだがーー。
3 是枝はかつて、映画にはメッセージなどない、また自分は社会派ではない、という意味の、至極まっとうな発言をしていたことも言い添えておこう。
4 是枝裕和ベスト(製作年順)
●『誰も知らない』(2004)
●『歩いても歩いても』(2008)
●『空気人形』(2009)
●『奇跡』(2011)
