映画評59 『急に具合が悪くなる』への違和感(下)
3 映画が支えきれない言葉の重量
『急に具合が悪くなる』で交わされるさまざまな言葉の多くは、それ自体としては啓発的で意義深いものだ。
だがそれらは、そのおびただしさと思弁的な性格ゆえに、映画が支えきれないほどの重量を持ってしまったことも、また事実だ。 (これが「上」で述べたことの要である。)
そしてその結果、主調音であるややナイーブ(素朴)なヒューマニズム/人間讃歌とあいまって、『急に具合が悪くなる』は、過度に観念的な作風を帯びてしまった感をぬぐえない。
またそれが本作を、奇妙に咀嚼(そしゃく)しにくい、観客がその中に没入することを困難な映画にしている理由でもあろう。
とりあえず、これまでに私が魅了された3本の濱口竜介の傑作長編、『ハッピーアワー』(2015、5時間17分!)、前記『寝ても覚めても』、『偶然と想像』(2021)と比較した限りでも、そう思われるのである。
4 〈ワークショップ〉的映画
先鋭的な映画批評家や映画研究者――渡邉大輔(後出)や三浦哲哉ら――はしばしば、濱口竜介の映画を見ることは、映画が立ち上がっていくプロセスに現在進行形で立ち会うことだ、と述べている。
そしてその際、必ず言及されるのが、あの濱口のユニークな演出法、ないし演技設計の手法である。
すなわち、濱口が折に触れて語っている、"濱口メソッド"(本人はこの呼称を好まないが)と呼ばれる、演者たちが行う脚本の読み合わせなどのリハーサルだが、ニュアンス(抑揚)を抜いた棒読みでセリフを言わせ、セリフを「言葉」としてではなく「身体的」なもの(むしろ意味を抜いた「声/発声」そのものと言うべきか?)として体(からだ)に覚えさせ、本番で初めてセリフにニュアンスを入れて発語させる、という方法だ。
そして、それを映画内で擬似的に再現したのが、たとえば『ドライブ・マイ・カー』にメタ的に取り入れられた舞台稽古のシーンであるが、そうした映画内の演劇のリハーサルは、濱口作品における〈ワークショップ〉的なものとして、――いくぶん自己模倣的にマンネリ化された形で――一度ならず反復/変奏されている。
ワークショップとはむろん、参加者たちがあるコンセプト(たとえば映画制作や演劇制作)についてアイデアを出し合ってコミュニケーションを重ね、目標を目指していく、体験型の講座やディスカッションである。
そこでは当然、言葉のやりとりが中心になり、映画にそれを取り入れた場合、ともすれば物語は――『ドライブ・マイ・カー』や本作がそうであるように――失速し停滞する。
その点について渡邉大輔は、濱口竜介の映画には、「演劇(制作)」や「ワークショップ」が物語の重要なモチーフとして絡んでくる、と述べて、『急に具合が悪くなる』後半の介護施設の庭(「自由の庭」)での入所者を対象として行われるエクササイズをはじめ、入所者やスタッフの人となりをインタビューしていく「ヴァネッサの部屋」など、いくつものワークショップ的なシチュエーションが物語に登場するが、そもそもマリー=ルーの実践するユマニチュードというケアの哲学の技法自体が、どこかワークショップ的である、と的確に論じる。(渡邉大輔「『急に具合が悪くなる』は"答え合わせ"の新作か 2010年代の濱口竜介とこれから」(Real Soundウェブサイト〈2026/7/25 配信〉)
なお渡邉は、「濱口作品こそが現代映画の可能性を考える時の、ひとつの理想的なモデルであり続けてきた」と言い、従来の近代的な映画の制度に亀裂を入れる概念、【ポストシネマ(映画後の映画)】が実現されているフィルムの端的な例を、濱口映画に見ている。
しかし注意すべきは、渡邉が、『急に具合が悪くなる』を濱口映画の集大成的な傑作であるとしながらも、これまでの濱口の作品で扱われてきたモチーフ(リハーサル、ワークショップ、あるいは偶然/必然、外国語/母国語、当事者/観察者といった二項対立の超克など)が、本作ではいささか優等生的にお行儀よくリサイクルされ、リメイクされ、結果、映画は予定調和的な"答え合わせ"に陥っている、という意味の批評/批判を加えていることだ。
じつに鋭い指摘である。
ただし、渡邉の先鋭的な分析は、私のような"反動的/時代錯誤的"な批評家には理解の及ばぬ点を多く含むが、しかし少なくとも、本作では濱口的なモチーフがやや惰性的に使い回されているという指摘は、私がこの映画に共振しえなかった理由とも重なる。
繰り返すが、本作に対して私が違和感を抱いた最大の理由は、思弁的なセリフの過剰さが、多くの場面を〈観念化〉しており、それが映画から力を削(そ)いでいるように思われる点にある。
5 映画の制作過程を描く"ポストシネマ"なのか?
ところで、先に触れた、渡邉大輔らが言う、演劇のリハーサルやワークショップを好んで取り入れる濱口の作品が、映画撮影のプロセスを現在進行形で描く、いわゆるメタ映画的な映画(映画が映画自身に自己言及する映画)だという説には、私は懐疑的である。
端的に言って、映画の中で描かれる演劇――そのリハーサルを含めて――は、あくまでカメラで撮られた映画内演劇であり、つまり、ベースとなる映画の中に挿入される、あるいは引用される擬似演劇だからである。
けだし、そうした映画内演劇は、文字どおり映画の〈内〉に存在するものであり、映画の〈外=メタ〉に存在するもののではない。(ここで言う〈内〉を"ベタ"と呼んでもいい。)
そして、だとすれば、作中のリハーサル的シーンに、映画が立ち上がってくるプロセスを見る(あるいは体感する)ことなど、どう考えても不可能ではないか。
重層的な作中劇の構造を持つ(たとえば複雑な入れ子状になった)映画においても、そのことに変わりはあるまい。
(現実/非現実、現実/夢、現実/幻覚の境界を撹乱するような作劇を含む、アラン・ロブ=グリエ、ルイス・ブニュエル、ジャック・リヴェット、ダニエル・シュミット、鈴木清順、黒沢清、そしてロブ=グリエやブニュエルのやや不器用な模倣者デイヴィッド・リンチなどの作品においても、そのことは当てはまるが、過激なメタ映画(映画論映画)として成立している稀有な例は、おびただしい映画断片のコラージュからなるジャン=リュック・ゴダールの『映画史』(1988~1998)くらいではないか。)
そしてまた、いかに濱口が自らの演出法について熱心に言葉を費やそうと、私たち観客は、画面に映った/すでに撮られた〈結果〉としての映画を見ることしかできないのだ、ということを強調しておこう。
つまり、完成された濱口の映画越しに、彼のリハーサル・シーンや、あるいは彼が考えすぎるほど考えている「メソッド」を、私たちは透視することはできないのだ、ということを。
さらにまた、『急に具合が悪くなる』や『ドライブ・マイ・カー』では、周到に計算し尽くしたうえで、計算外の偶然をも活かそうとする濱口の演出法が、十分に効果を発揮し得ているとは思えない、ということも付言しておこう。
さて、こうした点に関して注目すべきは、濱口竜介と対談した際の、彼の東京芸大大学院時代の師匠であり、彼が強い影響を受けた黒沢清監督の発言だ。(「黒沢清監督✕濱口竜介監督 スペシャル対談」松竹YouTube チャンネル、2026/6/18配信。)
黒沢清はそこで、自分はこれからも普通のジャンル映画(!)を撮っていくが、濱口の『急に具合が悪くなる』は、【映画とは言えない別の何か】へと変化していて、濱口は未知の何か凄い場所へと進んでいる、という趣旨のきわめて意味深長な発言を――一見、肯定的な文脈で――行っている。
いっぽう濱口は、自分は黒沢さんを追いながら追わない、黒沢さんとは違う方向を目指すと言って、黒沢清のような天才を師匠に持ってしまった偶然/必然についてのジレンマを、潔く述べている。これまた、非常に示唆に富んだ発言だ。
ともあれ、黒沢清が『急に具合が悪くなる』について述べた【映画とは言えない別の何か】、すなわち【映画以外の何か】は、奇しくも渡邉大輔の言う、【ポストシネマ】――映画というメディアの終わりを告げるとされる――に重なるようにも思われるが、これについての私の判断は、いま少し先送りしておこう。
いずれにせよ、濱口竜介は、日本映画の最前線を力走する最も注目すべき監督の一人である。
だからこそ、私は本作を見て、濱口の才能はこんなものではないと、強く思った次第である。濱口の次回作を――それが〈映画以外の何か〉という形をとるにせよ――期待してやまない。
●補説
1 濱口はあるインタビューで、自分は演劇そのものには関心がない、と意外な発言をしているが、私見では、演劇(的な誇張された演技)を映画の敵と見なしたロベール・ブレッソン(仏)――濱口の崇敬する監督――をさらにひとひねりして、いわば〈映画に対する異物〉として映画内演劇のシーンを――つまり映画と演劇の摩擦(緊張関係)を生み出すために――好んで描いたのではないか、という気がしないでもない。まあ、役者の声の発声(セリフ回しや朗読)そのものへの興味ゆえに、濱口は映画内演劇に執着しているのかもしれないが――。
2 私は本文中で、本作ではユートピア的な理念や理想が、いささかナイーブ(素朴)に描かれている、と書いたが、じつは濱口自身、ナイーブであることを敢えて自覚的に狙った、とあるインタビューで語っている。とするなら、本作がナイーブであるという私の所見は、濱口にすればあらかじめ織り込み済みの、まさしく「月並みな感想」だということになる。つまりこれは、批評の敗北という、見慣れた光景なのかもしれない。
3 私がこれまでに書いた濱口竜介の作品についての論考は以下の通り(いずれも、〈論座アーカイブ/朝日新聞社所収〉)。
●『ハッピーアワー』論
「上」(2016/02/18)
「中」(同 02/23)
「下」(同 02/24)
●『寝ても覚めても』論
「上」(2018/11/14)
「中」(同 11/17)
「下」(同 11/27)
●『ドライブ・マイ・カー』論
「上」(2021/8/20)
「下」(同 8/23)
●『偶然と想像』論
「上」(2021/12/16)
「下」(同 12/17: そこで私は濱口における、ひいては映画における〈偶然〉と、〈偶然〉がもたらす〈運命=必然〉との一筋縄ではいかぬ関係について詳述した。またそれとほぼ同じことを、「映画評11 トーメ『フィロソファー』(下)」の補説4(note、2025/3/1)でも略述した。)
