映画評49 シャブロルの傑作『気のいい女たち』(下)
以下、ネタバレあり
3 狂騒的なシャブロル
「上」で述べたとおり、奇妙な小群像劇『気のいい女たち』では、四人のヒロインをめぐるそれぞれのシーンが、シーンごとに完結する小さなドラマの連続(不連続)として描かれる。
行き当たりばったりのように進行する、ある意味ルーズでまとまりを欠いた作風だ。
だが、そうした作風によって、映画の熱量は削(そ)がれるどころか、かえって増幅される。
ひとえに、シャブロルの卓抜な演出力、着想力と、アンリ・ドゥカの秀逸なカメラゆえに、である。
さて、『気のいい女たち』の中盤から後半にかけて、二つの注目すべきシーンがある。
まず、ジャーヌとその婚約者アンドレ(クロード・ベリ)、ジャクリーヌ、ジネットが動物園に行くシーン。
四人は、珍種の鳥やキツネ、大蛇や虎を見物しながら大はしゃぎするが、とりわけジャーヌとジネットは、日頃のストレスを発散するように、鳥の鳴き声を真似た奇声を発したり、虎の咆哮(ほうこう)に笑い転げたりして浮かれ騒ぐ。
そして、シャブロルがここで、禁欲や抑制など犬に食わせろとばかりに、異様なほどオフビートで狂騒的な場面を撮っていることは、興味深い。
そこでは、頭のねじが飛んだようにキャアキャア叫ぶジャーヌ、ジネットと、檻の中の動物とが交互に切り返される場面が、およそ五分間もつづく!
コミカルというより、笑いがのどにつかえるような奇っ怪な光景だが、肝心なのは、『肉屋』や『不貞の女』における〈寡黙なシャブロル〉と、一見それとは相反するような、〈狂騒的なシャブロル〉とが存在するということだ。
そして私たちは、そうしたシャブロルの〈二つの顔〉に、同時に魅了にされるのである。
(それは〈孤高の芸術家ブレッソン〉と〈喜劇的で頓狂なブレッソン〉とに、同時に魅せられるのと同じことだ。なお、公開中の「ロベール・ブレッソン傑作選」(必見!)については本連載で近々、取り上げる予定。)
くだんの動物園のエピソードで、もう一つ見逃せないのは、シーンの末尾で、ジャクリーヌと檻の中の虎とが切り返され、さらに虎のショットに、遠くから彼女を見つめるあの"バイクの男"、ラピエールの顔のアップがつながれることだ。
心理説明ではなく、カット展開=モンタージュ(編集)のみで不穏さを表す、きわめて映画的な描写であるが、それは「伏線」というには、あまりにさりげなく場面に織り込まれたディテールだ。
(ちなみに、このシーンのロケ場所は、パリ国立自然史博物館の植物園内の動物エリア。)
二つ目の注目すべきシーンは、屋内プールを舞台とする、スラップスティック(ドタバタ喜劇)調の場面だ。
そこでは、冒頭まもなくジャーヌとジャクリーヌに声をかけた中年男二人組が再登場する。
なぜか極度の興奮状態にある彼らは、大声を上げながら、ジャーヌとジャクリーヌをプールに突き落としたり、彼女たちの頭を押さえつけて水中に沈めたりする。
(むろん、このドタバタ喜劇調の活劇/狂騒は、まったく笑いを誘わず、不気味な異物のように画面を席巻するのみだ。)
そこで、プールに沈められたジャクリーヌを水中カメラが撮る瞬間、画面から一切の音が消える視聴覚的アイデアもふるっているが、こうして、動物園のシーンの末尾に引き続いて、ドラマの焦点は徐々にジャクリーヌへと移っていく。見事な映画的ナラティブ(語り)である。
そして、それが決定的になるのはやはり、"バイクの男"ラピエールの出現だ。
ラピエールは、筋骨隆々の上半身を見せつけるようにしてプールに飛び込み、二人組を蹴散らしたのち、ジャクリーヌとじっと目を見つめ合うが、その瞬間ジャクリーヌは、自分をプールまで尾行してきたラピエールに向かって、ずっとあなたの視線を意識していたの、とささやくのだ。
内気で世間知らずのーー"気のいい"ーージャクリーヌには、ラピエールが"白馬の王子"に見えてしまうという、シャブロルらしい、シニカル(皮肉)な〈ボーイ・ミーツ・ガール〉の始まりである。
4 ジャクリーヌ
こうして最終盤は、ジャクリーヌとラピエールが演じる"暗黒のメルヘン"となる。
ーーラピエールは、ジャクリーヌを乗せたバイクを駆ってパリ郊外のレストランに行くが、彼の言動は次第に怪しげなものになる。
ジャクリーヌに向かってラピエールは、君の細い首が好きだ、首の傾げ方が好きだ、と言ってから、自慢の怪力を発揮してフォークを軽々とひん曲げたり、頭をテーブルに何度も強く打ちつけたり、二本くわえた煙草をパクリと呑み込むなり、口から煙を吐き出したりして、もはやタガが外れてしまった様子だ。
(むろん、こうしたラピエールの造形には、〈狂騒的なシャブロル〉が顕著であるが、ラピエールの職業は自動車整備工。)
だが、ジャクリーヌはここに至ってもなお、ラピエールが異常者であることを見抜けずに、彼に誘われるままに池のほとりの草地に行き、あっけなく絞殺されてしまうーー。
かくして『気のいい女たち』は、四人のパリジェンヌの喜怒哀楽を描く「青春映画」から一転、おぞましいサイコ・スリラーヘと切り替わるのだが、こんな異形(いぎょう)の作劇を、いったいシャブロル以外の誰がなしうるだろう。
さて、いささか唐突にも思われる、ラピエールによるジャクリーヌ殺害のシーンの直前の、アンリ・ドゥカのカメラにも注意しよう。
仰角(ぎょうかく)で上方を見上げたまま、カメラは、ゆるやかに360度パンして空や木々の梢をなめていくが、ラピエールがそこで口にする、「いつも圧倒される/この高い木々/広大な空/この沈黙にも創造主を考えてしまう」という宗教的なセリフに、ハッとさせられる。
さらに、ラピエールはジャクリーヌにこう言うーー「後をつけるような男を信じてはいけない。君を愛していないのではないが、複雑なんだ……」、と。
このラピエールのセリフを、その直前の宗教的なセリフに重ねてみると、彼はある種のミソジニー(女性嫌悪)から、尾行しつづけた自分を無防備に愛したジャクリーヌを、いわば神の代理人として処刑(絞殺)したのだ、と解釈することもできる。
あるいは逆に、ラピエールの言葉には、彼が意識してかせずにか、かねて自分の性癖を神/創造主によって処罰されたい、と願っていたかのようなニュアンスもあり、最適解(!)は見つかりそうにない。
いずれにせよ私たち観客は、ラピエールによるジャクリーヌ殺害に得体の知れぬショックを受けつつも、なぜ彼がその犯行に及んだのかを、はっきりと理解することができない。
精神分析家なら〈症例ラピエール〉をどのように読み解くのか、知りたくもあるが、彼の犯行動機の解明は、いま流行りの薄っぺらい「考察」などでは、とうてい太刀打ちできまい。
ともあれ、ラピエールのケースに典型的なように、曖昧な動機で殺人を犯す人物の登場もまた、シャブロル作品の急所の一つであるが、畢竟(ひっきょう)、蓮實重彦が鋭く指摘したように、『気のいい女たち』は、【自分が犯罪をおかすことがたやすくは納得できない者たちの犯罪を描く】典型的なシャブロル映画だと言える。(蓮實重彦「クロード・シャブロル または曖昧な犯罪」〈『映画狂人、神出鬼没』河出書房新社、2000、171頁〉)
なお〈動機の曖昧な犯罪〉は、大まかに言って、1960年代以降の、物語的理由づけを欠いたまま進行する、ある種の先鋭的な「現代映画」ーーシャブロル以外ではゴダール、ブニュエル、フライシャー、ロージー、ロブ=グリエ、リンチなどの作品ーーで一度ならず描かれる(むろん、その描かれ方はさまざまだが)。
ここで想起されるのは、しばしば〈動機の曖昧な殺人〉をモチーフにする黒沢清監督の傑作、『CURE/キュア』(1997)における、精神科医うじきつよしの次のセリフだ。
ーー「犯罪の動機など他人にはわからない。おそらく本人にもわからないだろう。つまり、それは誰にもわからないということだ。」
このセリフは、とりもなおさず、不可解な動機から殺人を犯す『CURE』の登場人物たちや、『気のいい女たち』のラピエールや、そのほかのシャブロル作品ーー『二重の鍵』、『肉屋』、『野獣死すべし』、『一寸先は闇』、『ふくろうの叫び』ーーなどで、曖昧な動機から殺人を犯す者らに当てはまる。
(いうまでもなく、現実において日々起こっている殺人事件もまた、容疑者の犯行動機が不可解なものが少なくない。むろん、その動機が明らかな種々の計画殺人ーー保険金殺人、強盗殺人、情痴殺人などーーも多発しているが。)
最後に、『気のいい女たち』の素晴らしいエンディングに触れておこう。
ーー犯行現場から逃走するラピエールの姿がフェイドアウト(溶暗)すると、場面はダンスホールに切り替わり、フロア席に座っている一人の若い女(カレン・ベドス)が映る。
やがて女は見知らぬ男に誘われ、彼と踊り始める。
メロウな曲が流れるなか、ステップを踏んで微笑む新たな気のいい女(?)をとらえたカメラは、次いで、天井に吊るされた、きらめきながら回転するミラーボールを数分間ーーFIN(終幕)の文字が現れるまでーー映しつづける……。
このラストの暗示するものを「考察」する野暮はひかえるが、ふつうの意味での「感動」とは程遠いエモーションを呼び起こす名場面であることは、一見にしかず、である。 (了)
●補説
1 〈狂騒的なシャブロル〉が前面に出た本作でも、ラピエールによるジャクリーヌ殺害のシーンは、あっけないほど短く、簡潔に描かれる。
ーーアンリ・ドゥカのカメラは、ラピエールの犯行を、ロングに引いた距離から、生い繁った草の陰に半ば隠れるようなアングルで、ほんの数瞬だけ映し、直後、俯瞰ショットで、殺人者の傍らで仰向けに横たわった哀れな犠牲者を見下ろすのだが、『肉屋』同様、シャブロルはここでも、ナマの残酷さを抜き取った、しかし戦慄的な構図で死体をとらえるのである。
(ローラ・スメットが恐るべき"サイコパス・ファムファタール"を演じる前記『石の微笑』(必見!)でもそれは顕著だ。)
けだし、このヤマ場をこれ見よがしに撮らないところに、シャブロルの賢明さがうかがえようが、ラピエールの犯行の舞台が〈郊外〉の木々に囲まれた草地であることも、すぐれてシャブロル的だ。(「映画評42」の補説参照。)
2 本作の後半では、終盤の惨劇を予告するような不吉なエピソードが挿入されるが、それは、家電店のレジ係のルイーズ夫人(アヴェ・ニンキ)が、ジャクリーヌに語って聞かせる恐怖譚だ。
小太りの夫人はジャクリーヌに、いわくありげに古びたハンカチを見せながら、こう語る。
ーー1938年、金品目当てで六人を殺したヴァイドマンという男がギロチンにかけられた当日、何百人もの見物人が処刑場に押しかけたが、ギロチンがその色白の美青年の首に落ちた瞬間、彼の体は痙攣し、周囲から悲鳴が上がった。
夫人はすかさず断頭台に駆け寄り、自分のハンカチを血に浸した。
そしてそれこそが夫人がジャクリーヌに見せているハンカチで、夫人はそれを大切なお守りにしているのだった。
まあ、お守りというには何とも縁起の悪い代物だが、いかにもシャブロル好みの、この大時代なグランギニョル(残酷劇)風の小咄(こばなし)には、本編の各シーンより劇的な起承転結があり、その点も面白い。
3 ジャーヌに扮するベルナデット・ラフォンは、アンナ・カリーナと共にN・Vを代表する女優だが、もとよりアクセントの強い、躍動感あふれる演技を得意とした彼女は、『二重の鍵』にもみられたように、〈狂騒的なシャブロル〉と最も相性のいい役者の一人だと言える。
他の出演作に、シャブロル『美しきセルジュ』(1958)、トリュフォー『あこがれ』(同)『私のように美しい娘』(1972)、ユスターシュ『ママと娼婦』(1973)など。
(シャブロル映画のミューズであったステファーヌ・オードランも、本作ではテンションの高い演技を見せるが、彼女の本領はやはり無表情なポーカーフェイスだ。)
4 本作(フランス語タイトル『les Bonnes Femmes 』)は、シニカルな"バッドエンド"ーー「気のいいbon( 女性形bonne)」には「おめでたい」という意味があるーーゆえ、フランス公開当時は不評で興行的にも惨敗。
しかし近年再評価され、N・Vの傑作と見なされるようになった。日本での公開が待たれる。
5 少なからぬ傑作を撮ったシャブロルが、ゴダール、トリュフォー、ロメール、リヴェットら他のN・Vのメンバーと比べて過小評価されているのはなぜか。
それはおそらく、シャブロルが、失敗作、凡作を含むおびただしい数の映画を「無節操」に量産したからであり、つまり、出来不出来の波があまりに激しかったからであろう。
ちなみに後年(1978~2006)、シャブロルが好んでヒロインに起用したイザベル・ユペールという、あのエラの張った大きな顔の個性派(?)女優が、シャブロルにいっとき不運をもたらしたように思えてならない。その後、前記『石の微笑』で、ローラ・スメットという、決して美人ではないが強烈な存在感を放つ女優をヒロインに迎えることで、シャブロルが幸運を取り戻したことは慶賀である。なおローラ・スメットは、先頃(2026年4月17日)惜しくも他界した女優、ナタリー・バイの娘(ナタリー・バイは、トリュフォー『映画に愛をこめて アメリカの夜』、ゴタール『勝手に逃げろ 人生』などに出演。)
(シャブロルが生涯に撮った長編は54本、ゴダールは45本、トリュフォーは21本、ロメールは26本、リヴェットは20
本。)
