映画評16 サーク『悲しみは空の彼方に』(下)
1 物語の中心点=サラ・ジェーン
本作の後半は、18歳になった混血の娘、サラ・ジェーン/スーザン・コーナーと彼女の黒人の母親、アニー/ファニタ・ムーアの人種的葛藤を中心に物語が進む(「1」、「2」参照)。
外見は白人のように見えるサラ・ジェーンは、自分が黒人の血を引いていることに強い劣等感を抱いており、母親アニーには図書館で夜勤の仕事をしていると嘘をつき、場末の白人客専用のキャバレーで踊り子をしていた(彼女は半裸になってエロチックなダンスを踊る)。
アニーが、ローラ/ラナ・ターナー(本作のヒロイン)に家政婦として仕えて蓄財したお陰で、サラ・ジェーンは大学に進学できたが、しかし彼女は、大学では「黒人」であったのに対し、キャバレーでは「白人」の踊り子として振る舞えたのである。
だがある日、娘がキャバレーで踊り子をしていることを察知したアニーが、キャバレーにやって来たので、サラ・ジェーンは、母親が黒人であることを支配人に知られ、解雇されてしまう。
(そのシーンは、前半の、吹雪の日にアニーが雨具を持って小学校の教室にやって来たために、サラ・ジェーンが黒人の娘であることをクラスメートに知られてしまう【視線劇】の、反復/変奏にほかならない(「1」参照)。むろん、サラ・ジェーンが母親アニーに対して、愛/憎という相反感情=葛藤を抱いているがゆえに、これらの場面には胸を突かれるのだ)。
もちろん、サラ・ジェーンがそれほどまでに自分が混血児であることに懊悩(おうのう)するのは、けっして、彼女自身の心のあり方/持ち方のせいではない。
そうではなく、サラ・ジェーンは、何よりもまず、アメリカ社会に強く根を張っていた/いる黒人差別の犠牲者なのだ。
そして前述のように、外見は白人に見えるサラ・ジェーンが、白人の黒人に対する差別意識を内面化しており、黒人は白人より劣っているという固定観念に呪縛されていることが、痛ましいのである。
また、サラ・ジェーンが白人になりたいと強く願うのは、社会における数多(あまた)の場面で、白人が黒人に比べて様々な特権を享受し、黒人に対して不当な権力を行使している、という不条理な現実を肌身にしみて感じているからだ。
つまり、サラ・ジェーンの白人に対する憧れは、人種的偏見を暗黙のうちに共有している、アメリカ社会の宿痾(しゅくあ)ともいうべき支配/差別構造ーー白人中心主義的なーーの反映でもあるのだ(この映画が撮られた1959年は、公民権法が制定される5年前)。
しかも、自らの出自に懊悩するサラ・ジェーンは、ローラやイタリア人映画プロデューサーのところへ、「ご主人さま、どうぞ」と言って料理を運んでくるといった、白人に従順に仕える黒人を揶揄(やゆ)するような振る舞いにまで及ぶ。
こうした、サラ・ジェーンの痛々しい心理的屈折が、はからずも黒人差別に対する鋭い批判となっている点にも、サークの辛辣な批評感覚が見て取れよう。
2 サラ・ジェーンと鏡
さて、キャバレーを解雇されて帰宅したサラ・ジェーンは、壁の大きな鏡に向かって、「わたしは白人よ、白いの!白いのよ!」と悲痛な叫びを上げるが、これは本作における決定的な鏡のシーンだ。
いうまでもなく、サラ・ジェーンはそこで、白人と見分けがつかない自分の姿を鏡に映して、自分の中に流れる黒人の血を呪うのである。
そして、この鏡のシーンでは、手前にサラ・ジェーンが大きく映り、彼女の右手の少し奥にローラが、さらに中央の奥にアニーが映るという、画面の奥行きを活かした三角形の縦の構図が、強く目をとらえる。
(こうしたサークやロバート・ロッセン(『オール・ザ・キングスメン』、1949)らが得意とした【縦の構図】によるショットは、大まかに言って、1950年代末~60年代前半のハリウッド古典期の終焉とともに見られなくなる。
このことはまた、『悲しみは空の彼方に』が、ヒッチコック『めまい』(1958)、ジョン・フォード『捜索者』(1956)、オーソン・ウェルズ『黒い罠』(1958)、ハワード・ホークス『男性の好きなスポーツ』(1964)、フリッツ・ラング『大いなる神秘(二部作)』(1958)などとともに、ハリウッド古典最後の傑作の一本であることを示している。
ちなみにソ連のミハイル・ロンムが、傑作『一年の九日』(1962)で、また直近の映画では、土井裕泰が傑作『片思い世界』(2025、必見!)で、縦の構図を見事に画面化している。)
3 メロドラマを突き破るメロドラマ
サラ・ジェーンの人種的アイデンティティをめぐる、いまひとつの悲痛な鏡/窓のシーンは、彼女が付き合っていたハンサムな白人青年、フランキー(トロイ・ドナヒュー!)が、噂によって彼女の母親が黒人であることを知って激怒し、夜の舗道で彼女を激しく殴打するくだりだ。
フランキーに何度も殴られ路上に倒れ込むまでのサラ・ジェーンの姿を、通りに面したバーの大きな窓ガラスの暗い表面が、まさしく鏡となって映し出す。その様をサークは、アップテンポのパーカッションの音とともに、容赦のないタッチで短く描く。
(メロドラマという言葉から連想される甘い感傷とは無縁の、ひりつくような苛烈なシーンだが、この場面にも顕著なように、サークのメロドラマにはしばしば、メロドラマそのものを否定するような、ペシミズム(悲観主義)、人間嫌悪、アイロニーが垣間見られる。)
しかし、そのような災難に遇っても、あくまで白人として生きたいと願うサラ・ジェーンは、家を飛び出し、モーテルを転々としながら、豪華なキャバレー、ムーラン・ルージュで白人として踊る日々を送る。そして、アニーはまたしても、娘に会いにキャバレーにやって来る。
これまた、胸の詰まるようなシーンだが、サラ・ジェーンはアニーを見て、やはり困惑する様子をみせる。だがサラ・ジェーンは、これまでのように、母親につっかかったりはしない。それどころか、母親のほうを見て、仲間に聞こえないような小声で、「ママ」とささやくのだ。
そしてアニーは、キャバレーの楽屋でサラ・ジェーンに、もう干渉はしない、好きなように生きて、と穏やかな口調で言うが、この場面が二人の最後の別れとなる(アニーはその時すでに、不治の病を患っていた)。
さて、このシーンが終わるとまもなく、映画は大詰めを迎える【以下、ネタバレ注意】。
教会でマヘリア・ジャクソンが聖歌を歌い終わると、葬送のシーンになり、大通りを、厳かなレクイエムの響くなか、豪奢な葬列がゆっくりと行進していく様を、カメラはロングで写す。ーー四頭の白馬に引かれた柩車が運ぶ、花で飾られた棺には、アニーの亡骸が収められていた。
と、そのとき、人垣の中から、黒い喪服姿のサラ・ジェーンが飛び出し、警官の制止をふりきって棺に駆け寄る(サーク的アクション/エモーション!)。
そしてサラ・ジェーンは、アニーの棺にすがりつき、号泣しながら、母親に呼びかけ、自らの過ちを詫びる。それは同時に、サラ・ジェーンが人びとの前で、自らの出自を明かすことでもあったーー。
とりもなおさず、サーク映画の放つメロドラマ的強度は、メロドラマの枠を突き破り、パセチック/痛切なエモーションとなって見る者を打ちのめすのである。
だがそれにしても、ダグラス・サークが『悲しみは空の彼方に』を、黒人差別を正面から批判する社会派メッセージ映画としてではなく、アニー親子をめぐる母ものメロドラマに、ローラの成功物語や恋愛遍歴などを絡めて、光と影が重層する美しい映画として結実させたことは、映画史における奇跡のひとつだと言っても、けっして過言ではないだろう。
