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ごまかせない違和感

前回の投稿で

ヴィーガンについて書こうとしてるけど
まとまらない( ;∀;)

とボヤきましたが


何を言いたいかっていうと

私の中で芽生えた

「動物を食べることへの違和感」

を説明したいと思ってるんですよね。


いろんな角度(観点)からの
違和感があるんだけど


そのひとつが何となくまとまったので
このあいだ Threads に投稿しました。


私にしてはけっこう多い閲覧数と
リアクションをいただいております(^^)


そうなんですよ。


畜産の話の前に、まず
「食べる」ってことについて
言いたいんだけど

「食べる」、つまり
「ものを口に入れて咀嚼して飲み込む」って


「自分の体内にそれを取り込む」
ってことだから

それが何であるかを
確認したくなるのは当然だと思うんだけど


私たちはあまりにも
「外側から」しか食べ物を捉えていない。

美味しそうな色、形、匂いとか
キャッチコピーとかパッケージとか

そういう「外側の情報」で欲求を刺激されて
食べ物を選ぶことが多くて


実際に
それは何からできているのか
どのように作られているのか

ということをあまり考えずに
欲望の赴くまま
食べたり飲んだりしている。


だからこそ
外食産業や食品加工産業で
大きなお金が動いているんだけど


カップラーメンとかお菓子とか
ジュースとかファストフードとか

そういったものを幸せそうに
満喫しているマジョリティを見ていると


「食べる」ってことに対して
みんな無頓着すぎないかい?

何を口に入れてるのか
何を自分の体に取り込んでいるのか
意識しているのかい?


って思っちゃうんですよね。


添加物とか化学調味料もそうだけど
単純に「量」の問題もある。



ずいぶん前の投稿で書いたんだけど

私は高校生の頃、いっとき
お菓子作りにハマりまして

そのままじゃ美味しくもない
とても食べられない、大量の
小麦粉、バター、砂糖、卵が

ケーキに変身したとたん

ペロッと食べられてしまう。
あっという間に。
ひとりでも全然余裕で。


その過程が
魔法みたいで面白かったんだけど
同じくらいに怖くもあると思って

意識的にやめていったんですよね。


だから
市販のケーキやお菓子を見ると

どれくらいのバターが
使われてるんだろう

どれくらいの砂糖が入ってるんだろう

って考えてしまうので
あんまり食べたいとは思わなかった。


何がどれくらい使われているのか
どのように作られているのか

が、ある程度想像できて

その原材料や製造過程を
すべて見たとしても
食べたいと思えるかどうか


それが、私が食べものを選ぶ
基準になっているような
気がするんですよね。


で、ここから畜産の話。


Threads の投稿で書いたとおり

工場畜産の過程
屠殺現場の画像や映像は


ホラー映画でもヤラセでもなく


単純に
「美味しいお肉」「製造過程」
なんだってこと。


毎日毎日、世界中で消費されている
美味しいお肉は

毎日毎日、世界中で
こんなふうに作られていますよ

っていう
ただの事実 なんですよね。


多くの人が大好きな
「肉」という食べ物を作るために
日常的に行われている工程

その作業の、ほんの断片ですらも

見るに堪えないほど
目を逸らさずにいられないほど

見てしまったら、場合によっては
心を病んでしまうくらい
トラウマになってしまうくらい


問答無用に暴力的で
容赦なく残酷である


という事実があるってこと。



そんな大惨事が
暗黙の了解のもとに、毎日毎分毎秒
とんでもない大規模で
世界的に行われている

それ自体が狂気だと思うけど

その事実を発信している人たちが

煙たがられたり
変人扱いされたり
過激派呼ばわりされたり
非難されたりしている

それもおかしいと思うんです。


本当に過激なのは
本当に非難されるべきなのは


「事実を知らせている人たち」ではなく
「事実そのもの」じゃないですか?


と思うんです。


製造過程を見たら
食べられなくなるようなものを
私たちは今まで食べていた
(食べさせられていた)
(食べるように仕向けられていた)んです。


そして、そういうものを
これからも食べ続けるのか?って
問われているんです。

だけど、多くの人は

自分が食べているものが
本当は何であるかを知りたくない

つまり


美味しいお肉が

惨殺された動物の死体

であるということを認めたくない。


あえて見て見ぬふりしている
都合の悪い事実を
突きつけられることに対して


不快や怒りを感じ
見せる人を責めるんですよね。


あなたが大好きな食べ物の
元の姿はこれですよ
こんなふうに作られているんですよ

って教えてくれてるのに

「そんなもの見せるな」って怒る って

おかしいでしょ。


「そんなもの」を食べてるのは
誰ですか? 
って話です。


「そんなもの」と思うのなら
なぜ食べるんですか? 
って話です。


そもそも

「なぜ見たくないのか」を
考えてみていただきたい。

「生きた動物」が「肉」になる過程を
なぜ私たちは、見たくないと思うんでしょうか。



「動物を食べたい」という欲求が
もし人間の本能に備わっているのだとしたら

「見たくない」とは思わないんじゃ
ないでしょうか。


お米や野菜が収穫されるのを見るのと
同じような気持ちで、何の抵抗もなく
見ることができるんじゃないでしょうか。


逆さ吊りにされて喉を切られて
血を吹き出しながらもがいている
牛や豚や鶏を見て

むしろ「美味しそう」「早く食べたいな」
なんて思うんじゃないでしょうか。


だけど、見たくない。
なぜか。


見てしまったら
不快感・嫌悪感・罪悪感に
襲われることがわかるから。


なぜ、そのように感じてしまうのか。


殺されかけている動物の


表情を見てしまったら
体の動きを見てしまったら
叫び声を聞いてしまったら


その痛み、苦しみ、恐怖を想像してしまうから。




それって、殺されかけている動物に

共感している


ってことですよね。

つまり私たちは、心の深いところで
肉になっている動物たちが

人間と同類であることを知っている。


食べ物ではなく

仲間だと思っている。



だから見たくないんです。



でも

肉は美味しい!
食べることをやめるなんて嫌だ!
と思う人たちは


自分にとって「仲間」じゃなくて
「食べ物」であり続けてほしいから


見せる人たちを責め、都合の悪い情報を遮断し
「肉」が「食べ物」である理由を
用意しまくるのだと思います。



そして、もうひとつ

「動物を食べることの違和感」という観点から
思い出したので言っておきたい。

(めっちゃ聞きたくない話かもしれないけど^^;)


人が何の抵抗もなく肉を食べられるのは

目の前にある肉が
その動物の原型を留めていない
からこそ、なんだろうけど



原型を留めていない ってことは

それだけ残虐性が増している 


ってことなんですよね。


牛や豚や鶏の、血だらけの死体が
そのままの姿で目の前にあったら

多くの人は、残酷さや恐怖
あるいは悲しさを感じるでしょう。

おそらく、誰もそれを食べたいとは思わない。


だけど、その死体を切り分けて
血をキレイに洗い流し

細かく切り刻んだり
ミンチにしたりしてパックに詰めたものが
目の前に差し出されたら

視覚による嫌悪感がなくなっているから
「肉」という「食べ物」だと思える。


さらにそれを、さまざまな調味料や香辛料で
味付けをして加熱したものが、食卓に提供されれば


それはそれは幸せなご馳走になる。


「動物の死体」が
「幸せなご馳走」になるまでの過程で


手を加えれば加えるほど、つまり

残虐性が増していけばいくほど


嫌悪感・罪悪感が消滅していくんです。




「丸ごとの死体」よりも
「切り刻まれた死体」の方が

より残酷なはずなのに


切り刻まれることによって
「死体」は「食べ物」に変わり

残酷さなんてほとんど感じられなくなってしまう。


なんとも皮肉な話です。




「動物の死体」が
「幸せなご馳走」になるまでの過程。


牛・豚・鶏以外の動物で
一瞬、シュミレーションしてみて下さい。

(犬・猫・インコ・猿・馬・人間などで)



ホラーですよね。


「食べる動物」と「食べない動物」の
区別がなくなったヴィーガンにとって


「動物を食べる」という行為は
リアルホラーなんです


というお話でした。


とまあ、そんなわけで。

今日はまた一段と長くなりましたが・・・
(3,000文字超^^;)


ここまでお読みくださった皆さま
本当にありがとうございました m(_ _)m



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