先人たちの話を繋ぎます「フィリピン」の場合
前回、インドネシアの話を書きました。
独立のために戦い、命を落とした、名もなき日本兵たちの話でした。
今回は、同じ時代の、別の国の話をします。
フィリピン。
同じ日本軍が、まったく違う記憶を残した国です。
なぜ、行ったのか
インドネシアと同じように、フィリピンにもまた、資源と戦略上の理由から、日本軍が向かいました。
当時、フィリピンはアメリカの支配下にありました。
アメリカとの戦争が始まった以上、フィリピンは避けて通れない土地だったのです。
けれど、そこで起きたことは、インドネシアとは大きく違うものでした。
死の行進
1942年4月、フィリピンのバターン半島で、アメリカとフィリピンの兵士たちが、日本軍に降伏しました。
彼らを収容所まで歩かせる。
それだけのことが、悲劇になりました。
長く続いた戦いで、すでに体はぼろぼろだったのに、
歩かされたのは、約八十三キロもの道のり。
食べ物も、水も、ほとんど与えられませんでした。
病気にかかっても、手当てはされませんでした。
倒れてしまった人、遅れてしまった人が、見張りの兵士に、殺されることもあったといいます。
これは「死の行進」と呼ばれ、今もフィリピンの人たちの記憶に、深く刻まれています。
マニラの戦い
1945年、戦況が変わり、アメリカ軍がフィリピンを取り戻しに来ました。
首都マニラでは、一か月にもおよぶ、激しい市街戦が繰り広げられました。
この戦いで、たくさんの一般の人たちが命を落としました。
その数、10万人を超えるとされています。
戦うための場所ではなかったはずの、ふだんの暮らしの街が、
戦場に変わってしまったのです。
それでも、今はインドネシアやビルマでは、感謝の記憶が語り継がれる一方、
フィリピンでは、つらい記憶が、今も語り継がれています。
同じ日本兵なのに、なぜこんなにも違うのか。
私にも、まだ、うまく言葉にできません。
けれど一つだけ、たしかなことがあります。
戦後、日本はフィリピンに、長い時間をかけて、道や地下鉄などのインフラを支援し続けました。
謝罪も、支援も、一度きりでは終わりませんでした。
そして今、フィリピンと日本は、同じ海を守る仲間として、共に歩んでいます。
つらい記憶を経てもなお、今は隣り合って立っている。
過去の傷と、今の絆は、
矛盾せずに、両方とも本当のことなのだと思います。
8月6日から始まったこの話も、少しずつ、国をまたいで続いていきます。
戦争は、一つの物語では語れません。
感謝も、悲しみも、両方とも、この時代が残した、本当の記憶なのだと思います。
(つづく)
※追記
戦争が始まるよりも前、フィリピンには、多くの日本人が移り住んでいました。
1930年代の終わりごろ、その数は、約2万4千人。
ルソン島の山あいの町バギオでは、道を切り開き、
ミンダナオ島のダバオでは、麻の農園を耕しました。
兵士としてではなく、一人の働き手として、この土地に根を張り、現地の人と家庭を築いた人たちがいたのです。
これは、戦争中の話ではありません。
その少し前、まだ静かだった時代の、小さな記憶です。
もう一つ、書き添えておきます。
マレーシアとシンガポールにも、フィリピンに近い、つらい記憶が残っています。
1942年2月、日本軍がシンガポールを占領した直後、「抗日分子」とみなされた華僑の人たちが、選別され、命を奪われました。
「華僑粛清」と呼ばれるこの出来事で亡くなった人の数は、5千人とも、5万人とも言われ、今もはっきりとはわかっていません。
この出来事は、マレー半島の人々の間にも、深い分断を残しました。
インドネシアやビルマとは、また違う記憶が、この土地にも、たしかに刻まれています。
事実を知って、何かを感じて欲しい。
自分なりに調べてまとめていますが、間違っているかもしれません。ご了承ください。

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