特攻隊だったから英語を習った ― 介護の現場で出会った、戦争を生きた人たちの話
泣けなかった人たちの話
― 介護の現場で知った、戦争を生きた人の本音 ―
祖父は、酒を飲むといつも同じことを言った。
「戦争に行った」
それだけだった。
続きは、一度も聞けなかった。
何か言いたいことがあるのはわかった。
でも、その先の言葉は出てこない。
「戦争に行った」
そこまで言うと、祖父は黙った。
湯呑みを持つ手だけが、少し震えていた。
私は、その空気が怖かった。
だから、いつも逃げていた。
祖父が何を抱えていたのか。
それが少しわかったのは、介護の仕事を始めて、ずっと後のことだった。
訪問介護をしていた頃、忘れられない夜がある。
担当していたおじいさんが、夜中に一人でポータブルトイレを使おうとして転倒した。
奥さんを起こすのが申し訳なかったから、と。
床に倒れたまま動けなくなっていたらしい。
ベッドに横たわり、顔を背けて見せないようにしている
その人のそばに座った。
何を声かけしていいかわからなかった。
「大丈夫ですよ」も、
「すぐ来ますからね」も、
何か違う気がした。
ただ、そこにいることしかできなかった。
すると、おじいさんは突然泣き出した。
「戦争も苦しくて、苦しくて、やっと逃げれたのに……なんで、年をとった時までこんなにつらい目にあわなきゃならない」
私は返事ができなかった。
黙ったまま、頷いた。
苦しかったですね、と言うには、その人生はあまりにも長すぎた。
帰り際、息子さんが静かに言った。
私は、高齢の男性が泣く姿を見たことがなかった。
戦争が大変だったことは知っていた。
けれど、その時代を生きた人が、どれほどのものを抱えて生きてきたのか、本当は何もわかっていなかった。
デイサービスで出会ったFさんは、九十二歳だった。
認知症があり、同じ話を何度も繰り返す。
でも、穏やかな笑顔で、誰とでも自然に話す人だった。
ある日、レクリエーションで英単語カードを使った。
するとFさんは、次々と正解した。
周りの職員も驚いていた。
「どこで英語を習ったんですか?」
そう聞くと、Fさんは静かに言った。
「特攻隊だったから。敵地で看板を読まないといけなかった」
私は言葉を失った。
さっきまで笑っていた人の奥に、別の人生が突然見えた気がした。
しばらくして、Fさんはぽつりと続けた。
「ばかげたことをしていたと、今は思う」
その言葉が出てくるまでに、何十年かかったのだろう。
穏やかに笑う顔と、その言葉が、今も重なって見える。
グループホームには、百一歳の女性がいた。(明治生まれ)
シルバーカーを押しながら、人参や牛蒡を丁寧に刻む。
牛蒡を切る音が、台所に小さく響いていた。
百歳を超えているのに、包丁を持つ手は驚くほど迷いがなかった。
私はその手を見ながら、
この人は、どれだけ長い時間を台所に立って生きてきたのだろうと思った。
春、桜を見に行った日、その人は空を見上げて言った。
「ああ、今年も桜が見れた」
春が来る度、生きている証を見ているようにつぶやいた。
戦争の話は、一度も聞かなかった。
でも、その一言の重さを考えてしまった。
一年、また一年と生き延びてきた人の桜だった。
大正生まれの百歳の女性にも出会った。
おやつを、そっと服の中に隠す。
「子供に持って帰る」と言いながら。
その子供は、もうとっくに大人になっている。
それでも親は、最後まで子供を想っている。
誕生日会の日、私は家族に言った。
「穏やかで、やさしい方ですね」
すると、お孫さんが笑った。
「家では怖かったですよ。しつけに厳しくて」
私は少し驚いた。
でも、その厳しさも、この人が生き抜いてきた時代だったのかもしれないと思った。
去年、その人は百二歳で旅立った。
どんな時代を生きても、誰かのために生き続けた人だった。
祖父は、最後まで戦争の話をしなかった。
きっと、できなかったのだと思う。
思い出したくないこと。
言葉にしたら崩れてしまうもの。
誰にも渡せなかった苦しさ。
あの時代を生きた人たちは、泣くことを後回しにしたまま、必死で生きることだけを考えていたような気がする。
あれは、弱さじゃなかった。
長い人生を、必死に耐えてきたくれた人たちの震える背中。
繋いでいくのが、私たちの使命かもしれない・・・
noteの記事を書く理由・・・日本を支えてくれた人たちへの感謝・そしてそれを繋ぎたい。

いいなと思ったら応援しよう!
貰ったことが無いので、実感一度してみたいです。応援お願いします。頂いたチップはクリエーター活動費に使わせて頂きます。