地方の看護師が東京の求人票を開いたら、駅名と家賃で固まった
地方を出たい。
都会で働きたい。
そう思って、私は東京の求人票を開いた。
求人票を見れば、 人生が少し前に進む気がしていた。
甘い。
ノートも開いていないのに、
「明日の小テスト、なんかいける気がする」
と言っている小学生くらい甘い。
そして、たいていそういう小学生は痛い目を見る。
私も例外ではなかった。
東京の求人票を開いた私が、
まず最初に打ちのめされたもの。
それは給料でも、面接でも、仕事内容でもない。
地名だった。
1. 東京の駅名が、ほぼ呪文だった
まず最初につまずいたのは、勤務地だった。
〇〇駅から徒歩5分。
〇〇線沿い。
〇〇区。
書いてある。
ちゃんと書いてある。
しかし、まるで分からない。
東京の駅名が、ほぼ呪文だった。
新宿、渋谷、池袋。
ここまでは分かる。
問題はその先である。
都会なのか。
住みやすいのか。
通勤しやすいのか。
そもそも、
私のような田舎者が降り立っていい駅なのか。
分からない。
求人票を見る。
駅名を検索する。
路線図を見る。
また求人票に戻る。
まだ応募もしていない。
面接も決まっていない。
それなのに、すでに疲れていた。
都会で働く前に、
まず都会の地名に負けそうになっていた。
なかなか先が思いやられる。
2. 「ちゃんと都会」がよかった田舎者の見栄
それなのに、見栄っ張りな私は思っていた。
せっかく上京するなら、
ちゃんと都会がいい。
田舎者丸出しである。
でも、本音だった。
どうせ東京へ行くなら、
駅ビルがあって、
仕事帰りにおしゃれな店に寄れて、
友達や彼氏とご飯に行けるような場所がいい。
分かりやすい。
実に分かりやすい女である。
私は、都会で働く自分をやってみたかったのだ。
夕方に仕事が終わって、
駅の明かりの中を歩く自分。
小さなバッグを持って、
どこかのカフェに寄る自分。
「今日ちょっと疲れたね」
なんて言いながら、誰かとご飯を食べる自分。
かなり影響を受けている。
たぶん、雑誌とドラマとSNSに。
地方の病棟で働いていた私は、
そういう生活に強く憧れていた。
夜勤がどうしても嫌だったわけではない。
夜勤明けの解放感も知っている。
朝のコンビニで買う甘いパンのありがたさも知っている。
平日の昼間に出かけられる、あの妙な優越感も知っている。
でも、違う働き方がしてみたかった。
朝に出勤して、
夕方に帰る生活。
世間と同じ時間に動く、普通の生活。
それだけで、
人生が少し整うような気がしていた。
また妄想である。
本当に私は、
妄想だけはよく働いていた。
3. 夜勤手当という名の大黒柱
しかし、求人票は夢だけを見せてくれるわけではない。
月給。
勤務時間。
休日。
福利厚生。
そして、家賃。
ここで夢が、
電卓を持って殴ってくる。
東京でも、看護師の日勤のみは、
思ったほど余裕がない。
もちろん、職場による。
給料が良いところもある。
美容クリニックのように、病棟より高く見える求人もある。
でも、夜勤をしないということは、
夜勤手当がないということでもある。
当たり前である。
当たり前なのに、
私は求人票を見て初めて気づいたような顔をしていた。
夜勤手当。
あの頃は、あんなにしんどいと思っていたくせに、
なくなると急にありがたみが増す。
都合のいい女である。
財布の中では、
夜勤手当がかなり大黒柱だった。
それなのに私は、
日勤だけで。
都会で。
きれいな職場で。
生活も楽しみたい。
などと思っていた。
なんとも現実が見えていない。
求人票の中では、
私はすでに都会の女だった。
しかし家賃を見た瞬間、
現実の私は、地方の病棟の休憩室に座っている女に戻っていた。
手にはスマホ。
隣には水筒。
たぶん、昼に買ったパンの袋もある。
なんとも地味である。
でも、それが現実だった。
4. 出た。アットホーム。
もうひとつ困ったのは、
職場の評判がまるで分からないことだった。
地元なら、なんとなく分かる。
親に聞く。
親戚に聞く。
看護師の知り合いに聞く。
すると、誰かしらが何かを知っている。
「あそこの院長はね」
「あの病院は人がすぐ辞めるらしいよ」
田舎の情報網は、なかなか侮れない。
時々、郵便番号より細かい。
怖い。
怖いのだけれど、便利でもある。
でも、東京にはそれがない。
会社が多い。
病院も多い。
クリニックも多い。
そして私は、コネもツテもない。
ネットの口コミを見る。
でも、古い。
有料。
職種が違う。
書いている人の怒りが強すぎる。
これは職場の実態なのか。
それとも退職者の怨念なのか。
判断がつかない。
求人票の写真は、だいたい明るい。
院内はきれい。
制服も清潔そう。
スタッフは笑っている。
そして出てくる。
「未経験歓迎」
「研修あり」
「働きやすい環境」
「アットホームな職場」
出た。
アットホーム。
私はこの言葉を見るたびに、少し身構える。
本当に温かい職場なのか。
それとも、
距離感が近すぎるだけなのか。
求人票だけでは分からない。
昼休みの空気。
先輩の目つき。
院長の機嫌。
新人をどう扱う職場なのか。
そういう肝心なことは、
求人票にはあまり書いていない。
書いていないくせに、
入職した瞬間、全部こちらに降ってくる。
求人票とは、なかなか罪深い。
画面の中で、
きれいな顔をしてこちらを待っているだけなのだから。
それなのに、
私は求人票を閉じられなかった。
面倒な女である。
東京。
看護師。
日勤のみ。
未経験可。
それまで暇つぶしに使っていた検索窓が、
急に転職活動の顔をし始めた。
スマホの検索履歴だけが、
一足先に上京していた。
本人は、まだ何もしていない。
応募もしていない。
面接も受けていない。
親にも話していない。
ただ、地方の病棟の休憩室の片隅で、
スマホを握りしめているだけである。
それなのに頭の中では、
もう少しだけ人生が動き始めていた。
そして次に、
私はある求人を見つけてしまう。
美容クリニック。
白くて、きれいで、給料もよく見える。
危ない。
今ならそう思う。
でも当時の私は、
そういう光にめっぽう弱かった。
次の話はこちら
東京の駅名にも、家賃にも、すでに少し負けかけていた私。それなのに、求人票の中でひときわ眩しく見えたものがありました。
日勤のみ。高年収。未経験歓迎。美容クリニック。
出た。
疲れた地方の看護師が、弱いやつだ。
ただの求人票なのに、
妙に色気があった。
やめてほしい。
こっちは疲れているのだ。
次回は、そんな私が美容クリニックの求人にまんまと惹かれていく話です。
この頃の話は、もう少し続きます。
「このままでいいのかな」と思っていた地方の看護師時代を、少しずつ書いていきます。
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