美容クリニックの現実〜ラクそうだから転職した結果〜【第五話】その日の記憶がなくなっていた
しばらく携帯を見なくて済む
その日の記憶がなくなっていた。
朝、目が覚めた。
いつも通りベッドの中だった。
でも、何かがおかしかった。
昨日の夜の記憶がない。
仕事を終えて帰宅したところまでは覚えている。
その後が思い出せなかった。
ご飯を食べた記憶もない。
お風呂に入った記憶もない。
いつ寝たのかも分からない。
記憶だけが、ぽっかり抜け落ちていた。
最初は疲れているだけだと思った。
美容クリニックは忙しい。
慣れない仕事だ。
疲れて記憶が曖昧になることくらいある。
そう自分に言い聞かせた。
でも、おかしなことはそれだけではなかった。
仕事中のことも思い出せない。
先輩に何か言われた。
傷ついた。
それは分かる。
でも何を言われたのか思い出せない。
先輩の顔だけは浮かぶ。
嫌だった気持ちだけは残っている。
なのに言葉だけが消えていた。
そして、決定的な出来事が起きた。
携帯のパスワードが分からなくなったのである。
当時は生体認証などなかった。
携帯を開くたびに、自分でパスワードを入力していた。
もちろん変更もしていない。
昨日まで毎日入力していた。
何年も使っていた番号だった。
何度も入力した。
違う。
もう一度入力した。
違う。
また違う。
画面を見つめたまま動けなくなった。
絶対に知っている数字だった。
毎日入力していたのだから。
でも思い出せない。
何も出てこない。
頭の中が真っ白だった。
結局、携帯は初期化することになった。
学生時代からの連絡先。
友人との写真。
保存していたデータ。
全部消えた。
普通ならショックを受ける場面だったと思う。
でも、その時の私は少しだけ安心していた。
「しばらく携帯を見なくて済む」
そう思ったのである。
今なら分かる。
明らかにおかしかった。
でも当時の私は、
「最近疲れているな」
くらいにしか思っていなかった。
そして翌日も、私は普通に出勤した。
病院へ行こうとは思わなかった。
休もうとも思わなかった。
昨日まで毎日使っていたパスワードを忘れたのに。
前日の記憶が抜け落ちたのに。
ただ、この頃には薄々気づいていた。
何かがおかしい。
今までの自分とは違う。
認めたくなかっただけなのかもしれない。
悩みに悩んだ末、
私は夫に打ち明けた。
職場で起きていること。
自分の身に起きた異変。
全部話した。
夫は最後まで黙って聞いていた。
私も先輩も責めなかった。
ただ静かに聞いていた。
話し終えると、夫は言った。
「大変だったね」
「話してくれてありがとう」
そして、こう聞いた。
「◯◯さんは、これからもそこで働きたいの?」
辞めたい。
そう思っていた。
でも、まだ転職したばかりだった。
せっかく入れた大手の美容クリニックだった。
家族も喜んでくれた。
夫も応援してくれていた。
辞めたい。
でも辞めてはいけない気がする。
その夜、私は何度も同じことを考えていた。
【第6話へ続く】
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