夏の思い出の黄昏
夏が来れば思い出す――。
貴方は何を思い出すだろうか?
多くの日本人はこのフレーズから、「尾瀬」という地名を思い浮かべるだろう。
それは有名な唱歌の歌詞によるところが大きい。
この「夏が来れば思い出す……」で始まる超有名唱歌は、作詞江間章子、作曲中田喜直によるものだ。
私は勝手に、この曲を戦前からある古い曲と思い込んでいた。しかし実際には、1949年発表というから戦後の曲だ。そうと知り少し驚いた。まあ、古いには違いないのだが。
そして、この唱歌のタイトルを「はるかな尾瀬」として記憶している日本人は多いが、実際は「夏の思い出」というのが正しい。
さて、この「夏の思い出」には「水芭蕉」が印象的に登場する。
しかし実際の水芭蕉の開花時期は低地で4月上旬から5月にかけて、季節で言えば「春」なのだ。尾瀬のある高原或いは北国でも、5月中旬から6月中旬になるが、これは晩春から初夏に当たる。春から春の終わりで夏ではない。
『江間はその理由を『(夏の思い出)その想いのゆくえ』にて以下のように述べている。
「尾瀬においてミズバショウが最も見事な5、6月を私は夏とよぶ、それは歳時記の影響だと思う」』(wiki)
作詞者の江間章子はそのように語ったとされる。
そこで、私は歳時記を持ち出しこの歌詞と照らし合わせてみようと思い立った。
因みに、この曲の著作権は2026年現在まだ活きているのでここに載せるのは憚れる。
歌詞を余りご存じない方は手元に歌詞を開いて以下をご覧いただければと思う。
まず、「霧」が出て来るのだが、この語があることでこの歌詞に語られる季節が「歳時記」的には「春」が除外されたことになる。歳時記に於いて春の「霧(キリ)」は「霞(カスミ)」となり、他の季節と区別される。つまり、ここに「霧」という単語が選ばれたことで季節が、夏秋冬のいずれかになるということだ。
そしてこの曲の象徴的なもの――「水芭蕉」は上述の江間章子の発言通り「夏」の季語となる。
次に、「石楠花」がでてくるが、これの季語は夏(初夏)。
ここまで見てきて、成程上手い事作ったもんだなあと、私は感心せずにはいられなかった。
しかし、一点残念なことに気が付いてしまった。
その残念な点は「たそがれ」の一語にある。
これは歳時記では「秋」を指す。
そして歳時記を離れても、この「たそがれ」は矢張り残念なのだ。
「たそがれる(黄昏る)」とは、本来「日が暮れ、辺りが薄暗くなる」或いは「全盛期を過ぎ衰えが見える」様を指す。
元々は「誰そ彼」から来た言葉だ。日が落ちて辺りが暗くなり始め、向こうから来る人の面が判然とせず、その人が誰か分からない様子を指した。
そしてこの「たそがれ」という言葉は、夕暮れに物思いに耽ったり遠い目をして物思いに沈む様を表す言葉として使われ、すっかり定着している。しかし本来それらは誤用だ。
歌では、「たそがれ」の後「はるかな」「遠い」と続くことから、誤用として「たそがれ」が用いられていることは明らかだ。
以上これら2点において「たそがれ」という単語の選択がこの唱歌には残念であると言わざるを得ない。

