【社会のモノサシ】 「科学哲学」 オカーシャ、2023 (1) 科学的とは、具体的に言うと、どういうことか?
注1) 文中の太字は原文のまま
注2) コメ印(※)は私の感想メモです
科学と疑似科学
「科学とは何か?」・・20世紀の有名な科学哲学者カール・ポパーは、反証可能性こそが科学理論の根本的特徴だと考えた(「科学的発見の論理」1937)。
科学と疑似科学のあいだに境界線を引こうというポパーの試みは、直感的には、かなりの説得力があるように思われる。どのような経験的データにも適合するように解釈できる理論など、たしかに胡散臭いにちがいないからだ。しかし、多くの哲学者は、ポパーの基準があまりに単純すぎると見ている。
ポパーの理論に従えば、反証が明らかになれば前提となった仮説は棄却されなければならない。しかし、当の科学者たちは、そんなことはしていないからだ。つまり、反証に直面すると、仮説を棄却するかわりに、解釈の追加や微修正で仮説を擁護することに執着する。
科学史研究によれば、ポパーが疑似科学として非難したマルクスやフロイトの理論に限らず、ほとんどの自然科学者も反証に同じ態度を示している。
たとえばニュートンの引力理論(1687)は、惑星の軌道を概ね正しく予測していたが、天王星(1781年に発見、公転周期165年)の軌道だけが食い違っていた。1846年、イギリスとフランスの科学者がそれぞれ、この食い違いは未発見の惑星のせいであると考え、その惑星の質量と位置を推定した。実際に、ほどなく海王星が発見された。多くの人はこれが、科学の偉大な成果だと思うだろう。
しかしこの事例は、社会主義の最終的勝利を信じ続けるマルクス主義者と、引力理論を信じ続けた科学者の振る舞いのあいだに、さほど違いがないことも示している。天王星という反証にもかかわらず、引力理論は65年にわたって棄却されることはなかったのだから。
ポパーの境界設定基準は失敗に終わったが、それによって重要な問題が浮かび上がった。「科学」と呼ばれるものだけに具わる共通の特徴を、余すことなく見つけることは本当にできるのだろうかという問題である。
※ 本書は、この問題へのさまざまなアプローチを振り返るものです。しかし未だに、科学と疑似科学を分ける単純な基準は見つかっていないというのが結論です。ということは、そもそも「科学とそうでないもの」という二分法を議論に持ち込むのは、少なくとも現時点では意味がない、ということになります。とはいえ、研究を通じて、「確からしさ」のさまざまな尺度も次々と見つかっているので、それらを使いこなしつつ、より「確かそうな」議論をしようではないか、ということもまた結論になります。
素朴な推論
帰納法の不完全さ
帰納的推論は論理的には完璧と言い難いが、それでもこの世界に関する信念を形成する方法としては、理にかなっているように思われる。・・けれども・・帰納法に寄せるこの信頼は、なぜ正当と言えるのだろうか。
18世紀のスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1716-76)が出した答えは単純で過激だった。・・帰納法の使用を合理的に正当化することはできないと断じたのである。
哲学者たちは、ヒュームの問題に、何十通りものやり方で反論し、今日でも活発な研究分野になっている。ということは、いまだにヒュームへの明快な反論に成功していない、ということでもある。
最善の説明を導く推論 (IBE:Inference to the Best Explanation)
例)
食料置き場のチーズが消えて、あとは切れ端だけが残っていた。
昨晩、食料置き場から何かを引っ掻くような音が聞こえた。
したがって、チーズはネズミに食べられたのだ。
これが演繹的推論(前提が結論を含意する、つまり前提が真ならば結論も真、という関係)でないことは明らかだが、帰納的推論とも言えない。厳密な帰納的推論とは、調査済みの事例(例:これまで太陽が毎日昇ってきた)から未調査の事例についての言明(例:明朝も太陽が昇るだろう)を導く推論を意味する。
「ネズミがチーズを食べた」という仮説は、経験をもとにしている点で、帰納的ではあるが、チーズを食べる動物は他にもたくさんいるし、引っ掻くような音の原因もいくつも考えられる。
ただし、別々の原因がたまたま昨夜同時に起きたと考えるよりは、ネズミというひとつ原因で両方が説明できるほうがもっともらしい感じがする。
IBEを可能にするのは、現象をより包括的により単純に説明する仮説ほど確からしい、という信念だ。科学はIBEを多用する。
ダーウィンの理論は、種のあいだの解剖学的類似にとどまらず、生物世界にまつわるさまざまな事実を説明してくれた。たしかに一つひとつの事実をとってみれば、原理的には、ほかのやり方でも説明はできるだろう。しかし、進化論はすべての事実をいっぺんに説明したのであり、だからこそデータの説明として最善だと考えられたわけである。
単純さや無駄のなさをすぐれた説明のしるしとする考え方はなかなか魅力的であり・・役立つことも事実である。しかし、科学者が単純性を推論の指針として使うとなると、ひとつ厄介な問題が浮かんでくる。この宇宙が単純であって複雑ではないと、どうして言えるのだろうか。・・この難問に対する科学哲学者の答えは一致をみていない。
対照実験
因果推論には二通りある。
単称言明: 特定の出来事の原因を推論する。例)隕石の落下が恐竜の絶滅を引き起こした。
一般言明: 一般的な因果的原理を推論する。例)喫煙は肺がんの原因である。
一般言明の推論では、対照実験(Controlled Test)が可能になる。対照実験とは、仮説に当てはまるサンプル(処置群、介入群、Intervention Group)とそうでないサンプル(対照群、統制群、Control Group)で、仮説以外の条件を同じにして行う実験のことだ。
対象実験は科学において唯一信頼できる因果推論の方法だ、という意見もある。・・現代の生物医科学では、ある特定のタイプの対象実験はとくに重視されている。ランダム化対照試験(RCT: Randomized Controlled Trial)である。これは1930年代にR.A.フィッシャーが考案した・・
ランダム化が重要なのは、交絡因子(調査対象としていない要因で、しかも調査結果に影響を及ぼす要因)がおおよそ取り除けると考えられるからだ。処置群と対照群をランダムに抽出すれば、交絡因子はどちらの群にも均等に混入しているはずなので、実験による差異は処置と非処置による差異だけだと考えられるからだ。
RCTは間違いなく重要だし、実行できる場合にはすべきである。しかし、RCTが因果関係を突き止める唯一の方法だというのは正しくない。
ベイズ的な因果推論
証拠をふまえての、科学の仮説に対する信念の合理的度合いは確率の一種と見なすことができる。
ベイズの定理の面積図による説明
以下は、「楽しみながら学ぶベイズ統計(ウィル・カート、2020)」より抜粋要約したものです。

P(A)、P(B)、P(B|A) がわかっているときに、P(A|B)を求めたい
P(A|B)とは「Bである場合にAである確率」を意味する。
面積図で、「Bである場合」とは ①+③ に相当する。
「Bである場合にAである」とは ① に相当する。
だから
P(A|B)=(面積①)/(面積①+面積③) ・・・ 式1
面積図全体の面積(母集団のサイズ)をNとすると、面積①とは、P(A)・NにP(B|A)(Aである場合にBである確率)をかけたものだから
面積①=P(A)・P(B|A)・N ・・・ 式2
①+③であるとは、Bであることそのものだから
面積①+面積③=P(B)・N ・・・ 式3
式1に式2と式3を代入すれば
P(A|B)= P(A)・P(B|A)/ P(B)
これを仮説と裏付けとなるデータの関係に当てはめれば
P(H|D)=P(H)・P(D|H)/ P(D)
H: 仮説
D: データ
例題
H:泥棒が入った
D:なぜなら、帰宅してみたら、① 窓が割れていた、② 玄関が開いていた、③ ノートパソコンがなくなっていたからだ
この町で泥棒の被害にあうのは千件に1件だ
P(H) = 1/1,000 = 0.001 ・・・ 事前確率という
泥棒に入られた家で①②③が確認できるのは10件に3件だ
P(D|H) = 3/10 = 0.3 ・・・ 尤度(尤もらしさ、Likelihood)という
帰宅したら偶然①②③を同時に目にする確率は1年に1回だ
P(D) = 1/365 = 0.003
この場合
P(H|D)= P(H)・P(D|H)/ P(D) = 0.001 x 0.3 / 0.003
= 0.1 ・・・ 事後確率という
このことは、①②③の証拠を目にした結果、泥棒の被害にあったという考えが [P(H|D)]、①②③を目にする前 [P(H)] の100倍(0.001から0.1へ)強化されたことを意味している。
(ベイズの定理の説明おわり)
ベイズ定理によって、事前確率を事後確率に更新することを条件化という。 ・・ ベイズ統計として知られる統計学の分野では、条件化による更新が広く用いられている。・・科学的推論についてのベイズ的観点からは、予測の成功によって科学者が自分の理論への信頼を深めるという事実がきれいに説明される・・。
とはいえ、・・コペルニクスやニュートン、ダーウィン・・らが考え出した新しい理論は、全く前例のないものだった。そうした理論を導く推論をベイズ的なものと見ることにはどうしても無理がある。
ベイズ的観点のもうひとつの限界は、・・初期信用度の根拠にかかわる。 ・・ベイズ的観点によれば、初期信用度についてはいかなる客観的制約も存在しないというのである。
しかし、現実の科学者は、どのように大胆なものであっても、信用度の高い仮説を立てるところからはじめる。では、その最初の仮説の信用度をいかにして高めているのか? 初期信用度の客観性を問わないというベイズ的視点だけで説明することは難しい。
ヘンペルの被覆説明モデル(covering law model)
前提が結論を含意すること、つまり論証が演繹的であること(前提が真ならば結論が真であると納得できること)
前提がすべて真であること
前提には一般法則が少なくともひとつ含まれていること
一般法則とは、「すべての金属は電気を通す」「物体の加速度は質量に反比例する」「植物はみな葉緑素を含んでいる」といったものを言う。
被覆説明モデル(covering law model)という名前の由来は・・何らかの一般的な自然法則が「当てはまる(cover)」ことを示す・・にほかならないからだ・・。
このモデルは1950年代に哲学者カール・ヘンペルが提案した。
(少なくともひとつの)一般法則 + 個別的事実 ➡ 説明すべき現象
例)自分の机の植物が枯れたのはなぜか
部屋の採光が悪く、日光が植物にとどかなかった(個別的事実)
日光は植物の光合成に欠かせない(一般法則)
光合成ができなければ植物は枯れる(一般法則)
被覆法則によって現象が説明できる場合には、事前にその現象が起こると知らなかったとしても、説明に用いた法則と個別的事実がわかっていれば、その予想はつねに可能だっただろう。・・ヘンペルは「科学的説明はどれも予測に転じる」という言い方で表現している。
つまり、「採光の悪い部屋の植物は枯れる」と予測できる。
ただし、被覆法則には二つの弱点があることがわかっている
因果の非対称性
一般法則
光は直進する
三角法の法則
個別的事実
太陽の仰角は37度である
旗ざおの高さは15メートルである
説明すべき現象
影の長さは20メートルである
この説明で「15メートルの旗ざお」という個別的事実と、「20メートルの影」という現象を入れ替えてみる。この場合でも、被覆法則は満たされる。しかし、20メートルの影のおかげで旗ざおの高さが15メートルになったという主張は、何かおかしくないだろうか。旗ざおの高さが15メートルになった原因は、旗ざおを建てた人がそのように設計し、大工さんがそのように作ったからだ。
この例では・・事実を知る前にそれを予測するのに役立った情報が、事実を知ったあとでそれを説明するのに役立たないのだ。
因果の関連性欠如
一般法則
経口避妊薬を欠かさず飲んでいれば妊娠しない
個別的事実
ジョンは経口避妊薬を欠かさず飲んでいる
説明すべき現象
ジョンは妊娠しなかった
この説明も被覆法則に合致する。しかし、ジョンが男だとしたらどうだろう。妊娠しなかったのは、ジョンが男だからであって、経口避妊薬による説明は意味をなさない。
ここから得られる一般的教訓とは、現象のすぐれた説明には、その現象の生起と関連性のある情報が含まれていなければならないというものである。 ・・ヘンペルのモデルでは、説明概念がもつこの決定的に重要な特徴が見落とされている。
科学的説明とは因果性の説明のことだ、という説
ヘンペルの説明モデルの検証で次のことがあきらかになった。
説明すべき現象に非対称性が生じている場合がある
説明には、現象生起の関連情報が網羅されている必要がある
このつながりの認識が動機になって、多くの哲学者が説明の被覆法則モデルを棄て、因果性にもとづく説明を採用してきた。・・因果性にもとづく説明の背景には、現象を説明することは要するに何がそれを引き起こしたかを述べることだという基本的なアイデアがある。
説明の非対称性が因果性の非対称性に由来していると考えるのは自然なことだろう。
ただし、因果性についても弱点はある。ひとつは、これまたデイヴィッド・ヒューム(経験主義)の主張だ。
因果関係を経験することはできない・・因果性とは人間が世界の側に「投影」した何ものかにほかならない。・・因果性は・・前者が後者を引き起こすという観念である。しかし、この世界のどこを探しても、そのようなつながりは見つかりはしない。
Aが起きたあとにBが起きた、といった事実は疑いえないとしても、「AがBの原因である」のは人間の判断だということになる。科学的説明という概念を因果性という概念で説明できたとしても、今度は因果性概念とは何かという、説明が必要になる。
とはいえ、多くの哲学者が、因果性は問題のある概念だが、世界を理解するうえでなくてはならない、と結論するに至っている。
もうひとつは、科学における理論的同定だ。
水はH₂Oである
温度は分子の平均運動エネルギーだ
どちらの説明も因果性概念にはもとづいていない。H₂Oという組成を持つことは、物質が水になるという事態を引き起こすわけではない。たんにその物質が水だということでしかない。
科学ですべてが説明できるのか?
「科学的説明とは何か」という問いに対して、反証可能性、帰納的蓋然性、最善の説明を導く推論(IBE)、対照実験、ベイズ的推論、被覆法則モデル、因果性、などいくつものアイデアが検討されてきたが、いまだ結論にいたっていない。
これと並行して「科学ですべてが説明できるのか」という問いにも結論がでていない。科学がいつかすべてを説明するという人もいるし、説明できないものが残るという人もいる。
将来の科学がどれだけたくさんのことを説明できたとしても、科学の説明は何らかの基本法則や原理を用いざるをえない。何ものもそれ自身を説明することはできない以上、そうした法則や原理の少なくとも一部は、説明されないまま残ることになる。
一見説得力のあるこの論法も、「何が説明できないまま残るのかを絞り込むことができない」という点であまり意味がない。たとえば「人の意識は科学的に説明できない」という人もいるし、「今の科学で説明できないだけで、将来は説明できるようになる」という人もいる。こうした議論の裁定に、上記の論法は役にたたない。
説明と還元(多型実現による還元の不可能性)
生物学や経済学の法則を物理学の法則から直接導き出せる見込みは、まずないと言っていいだろう。・・ここから哲学の難問が浮かびあがる。究極的には物理的存在にすぎない対象を研究する科学(科学全般)が、どうして物理学に還元できないのだろうか。
この説明として「多型実現」というアイデアがある。
たとえば「灰皿」を研究する「灰皿学」があるとする。灰皿学が物理学に還元できるためには、「xが灰皿であるのは、xが・・・・のとき、かつそのときのみである」という形の、空所「・・・・」が物理学の言語に属する表現で埋められる必要がある。ところが、「・・・・」にはいるべき物理的性質の多様性には、ほとんどかぎりがない。いいかえると「〇〇学」の〇〇を物理学の言語だけで定義できないかぎり、〇〇学を物理学に還元することはできない。
哲学者がみな多型実現に満足しているわけではない。しかし、高次の科学が物理学から自立しており、また高次の科学どうしも互いに自立しているという事態を、たしかにそれはきれいに説明してくれそうである。
実在論と反実在論 (科学説明の目的は何か)
科学的実在論: 物理的世界は人間の思考や知覚から独立に存在している。世界のあり方を真の意味で描き出すのが優れた科学理論である。
科学的反実在論: 科学の目的は、経験的に不足のない理論、つまり実験や観察の結果を正しく予測してくれる理論を見つけることにある・・。理論が経験的に何の不足もなければ、それが真の意味で世界を記述しているかどうかは余計な問題でしかない。
一見、実在論のほうがまともに見えるが、原子、電子、クォーク、レプトンなどになると実在論に対する確信が怪しくなる。実在論と反実在論を区別することに意味があるのかどうか、も含めて、「科学は何のために説明しているのか?」という問題も決着がついていない。
