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空飛ぶ男

 午前4時。時刻は夜明け前。僕はビルの外にある剥き出しの非常階段でタバコを吸っていた。記憶違いじゃなければ、これが生まれて初めてのタバコだった。なんで今タバコを吸ったのか。気分を変えたかったからだ。この原因のわからない嫌に重たい気分を。でもタバコを吸っても気分は変わらなかった。心は軽くならなかった。ただ呼吸が苦しくなっただけだ。僕は階段の手すりでタバコの火を消し、吸い殻を下の路上に落とした。

 今自分にあるものとないものを考えてみる。あるもの。時間、記憶、数千数百数十円。ないもの。方向性、情熱、資産。簡単に言えば暇な貧乏人ということになる。

 僕は今ビルの3階ほどの高さにいる。飛び降りて無事でいられるほど低くはないし、すべてが見渡せるほど高くもない。微妙な高さだ。
 何が自分の気分をここまで重くさせているのか考えてみる。あくまでもたぶん、だけど、お金と時間が原因ではない。まあ多少は関係していると思うが、根本的な原因ではない。原因はもっと抽象的で本質的なことだ。

 時間はある。お金はそれほどないが、時間はある。じゃあ何が足りない?

「自由、とでも言ってみる」

 突然、そんな声が聞こえた。自分の声じゃない。知らない声だ。いや、知ってる声か?
 僕はまわりを見渡してみる。当然、誰もいない。ここは非常階段なのだ。今にも崩れ落ちそうな剥き出しの。それでいて時刻は午前4時だ。誰もこんなところで人生を無駄に過ごそうとは思わない。

「で、どう? 自由っての、合ってる?」

 また声が聞こえる。いったいどこから? 僕はムキになって階段や下の路上を探してみる。やはりいない。呑んだくれ一人いない。そこで、ふと上を見てみる。そして僕は息を呑む。探しものはそこにあった。

「わかるよ、探しものって必ず意表をついてくるよね」

 宙に浮かぶ男はそう言った。青白い月明かりが男を背中から照らし、男が着ている黒いタキシードがその光を反射していた。

 自由? 僕は考えてみた。今の僕にどんな不自由があると言うのだろう? 今の僕に基本的には果たすべき義務はない。勤めもなければ稼ぎもないので、通勤や納税の必要はない。もちろん、経済的な自由はないが時間はいくらでもある。時間さえかければ大抵のことはできる立場にある。

「でも、君の気分はサイアクなわけだ。どうしてかな?」
 タキシードの男は上から僕に言った。物理的に。
「浮くのはいいんだけど、もう少し目線を合わせてくれるかな。そんなに上から言われると余計な感情を抱かなきゃいけない」
「おっと、それは悪いね。ただ、ちょっと待ってくれよ」
 そう言うと男は少しずつ高度を下げ始めた。でもそれはあまりにも慎重すぎた。
「ちょっと、大丈夫?」と僕は聞いた。
「たぶん」と男は曖昧に答えた。
 男はそのままカタツムリくらいのスピードでゆっくり下降していった。が、何かの拍子で均衡が崩れ、男は一気に落下していった。僕は思わず目をつぶる。
 恐る恐る目を開けると、男がゆっくりと上昇してきているところだった。そして、やっと僕と同じ高さまで戻ってきて静止した。
「なかなか大変なんだね、そっちも」
「まあね。なんせ、こうやって浮かべるようになってから日が浅いもんでさ」
 男は汗だくの顔でそう言った。
「へえ。それにしても災難だったね。亡くなるにはさすがに若すぎる」
「え?」と男が素っ頓狂な声を出す。
「え?」と僕も聞き返す。
「誰が亡くなったんだ?」
「いや、あなたが。亡くなって霊になったってことですよね? それ」
 それを聞くなり男はため息をついて笑い始めた。
「無理もないが、それはとんだ失礼だぜ、君。僕は死んでないし、霊でもない。ちゃんと肉体を維持した生身の人間だ」
 ほれ、と言って男が僕の肩を軽く叩いた。
「となると、いろんな説明が必要になってくるんですが、、、」
「どんな説明?」と男はとぼける。
 僕はため息をつく。
「この現象についての説明ですよ。どうして生身の人間が浮いてるんです? どんなトリックが? ドッキリ?」
 男はニヤニヤして僕の顔を見ている。認めたくはないが、それを見て僕はイライラする。
「まあこれも何かの縁だ。特別に教えてやろう」
 僕は生唾を飲み込んだ。
「望んだのさ」と男は言った。
「望んだ?」
「ああ」と男が答える。「空を飛びたいんです、とね。いや、違うな。飛びます。私は空を飛びます。と宣言したんだ」
 頭痛のしてきそうな話だった。でも、不思議と頭痛は起こらなかった。それどころか、僕の身体のどこにも痛みはなかった。あったのは、胸の奥の深いところが少しすく感じだけだった。

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