横浜から消えたものを捜して 24
横浜から消えたものを捜して 24
第24章 60年代中盤~70年代初期のムーブメント
ジャズ喫茶 GS ヤング720②
☆時代の仇花 グループサウンズ
グループサウンズ(GS)については、これまで複数の評論家やコレクターと称する人による評価や評論がなされている。ただしそのほとんどが年齢的には実際にブームを実体験していない ”後追い” 評価である。
リアルタイムの文脈や空気感がない人たちによる過去の事象の評価について、GoogleのAI先生は、”距離を置いた客観性という利点”と、”当時の現実を見落とすという限界”の双方が存在すると言っている。
利点としてはその後の歴史の中でどのような結果を生んだかを知った上で評価でき、また当時の政治的圧力、世論、流行、認知バイアスなどに囚われずに全体像を見渡せることがあり、人権や科学的知見など現代の価値観を物差しにして新たな意義を発見できる、ということもある。
逆に、限界としては、評価する人間の尺度によって結果を錯覚してしまい、また当時の人々が持っていた情報不足、制約を無視して現代の常識で裁くという危うさをはらんでいる。そして後世における都合の良い解釈によって特定の評価が作られてしまうことがありうる。
確かに、GSのシングルレコードのコレクターであり、かつGS文化論を各所で展開している稲増龍夫、GSを含む1960~70年代の比較文学、映画史を研究発表している四方田犬彦の両先生は、それぞれ1952、1953年生まれで、一見GSブームに間に合っているようだが、ともに東京教育大学附属駒場高校から東京大学に進んだ都会の優等生で、悪の巣窟と言われたジャズ喫茶に実際に足を運んだとは考えにくい。
グループ・サウンズ研究及び評論の草分けであり、今に至るも第一人者である黒澤進(1954年生まれ)の著書『日本の60年代ロックのすべて COMPLETE』は本稿執筆のために大いに参考にさせてもらったが、彼自身もライブ空間でGSに接したという記述はない。

ロカビリー誕生からGS革命まで
何を言いたいかというと、これまでのほとんどのGS評価・評論はブームの後、それもだいぶ時間がたってから作られたものであって、どこまで実態が描写されているかに不満や危惧を持たざるをえない、ということである。前章(第23章)の最後にも書いたが、ジャズ喫茶に関する情報が恐ろしいほど少ないこと=時代の目撃者の意識及びメディアの注目度の低さ、に起因するものであり、見たことも行ったこともないくせに、『過去はすべて美しい』的にGSを捉えることへの疑問が常につきまとう。
ここでは数字をもとに、本当にGS(ブーム)は文化となりえたのか? 日本の音楽史の中でどう位置づけられるかを考えてみたい。
まず、GSの代表的なバンドごとにファーストシングルのリリースの期日を見てみる。
◇1965年
5月10日 スパイダース 「フリフリ」 作詞・作曲:かまやつひろし
◇1966年
2月10日 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ 「青い瞳」 作詞:橋本淳 作曲:井上忠夫
7月1日 サベージ 「いつまでもいつまでも」 作詞・作曲:佐々木勉
10月1日 ヴィレッジ・シンガーズ 「暗い砂浜」 作詞:寺本圭一 作曲:小松久
11月5日 ワイルドワンズ 「想い出の渚」 作詞:鳥塚繁樹 作曲:加瀬邦彦
◇1967年
2月5日 タイガース 僕のマリー(作詞: 橋本淳 / 作曲: すぎやまこういち)
6月1日 カーナビーツ 「好きさ好きさ好きさ」 ゾンビーズのカバー
訳詞:漣健児
6月1日 ジャガーズ 「君に会いたい」 作詞・作曲:清川正一
6月15日 ゴールデン・カップス 「いとしのジザベル」
作詞:なかにし礼 作曲:鈴木邦彦
10月25日 テンプターズ 「忘れ得ぬ君」 作詞・作曲:松崎由治
◇1968年
5月5日 オックス 「ガールフレンド」 作詞:橋本淳 作曲:筒美京平
…と、だいたいこれらのグループのレコードが売れ、テレビ番組にも頻繁に出演していた66年~69年くらいをGSブームと呼んでいいだろう。
草分け的な存在のスパイダース。「フリフリ」について上述の評論家先生の稲増龍夫は「レコード的にGSとして初めてのシングルである」などと、なにか自分が発見したようなことを言っているが、そんなことは誰でも知っていることだ。作詞・作曲はメンバーのかまやつひろし。続く、「ノー・ノー・ボーイ」、「サマー・ガール」とともに当時英米で流行のリヴァプールサウンズ、サーフィンサウンドを意識した名曲だったがヒットには至らず、初の大ヒット、1966年9月発売の浜口庫之助作詞作曲の「夕陽が泣いている」から歌謡曲調がスタートする。
「青い瞳」でデビューしたジャッキー吉川とブルー・コメッツ。作曲はメンバーの井上忠夫で詞はプロの作詞家、橋本淳によるもので、確かにバンドの楽器構成だけ見ればGSだが、楽曲は間違いなく歌謡曲の流れだった。個人的意見だが当時から彼らをGSの仲間と、みなしたくない気持ちが強かった。
「勝ち抜きエレキ合戦」のグランド・チャンピオンだったサベージがこのままインストゥルメンタルだけでは商売にならないと考えたレコード会社が歌付きの楽曲を与えて、デビューさせた曲が「いつまでもいつまでも」。作詞・作曲はのちに自身もシンガーソングライターとなる佐々木勉だった。後年のメガヒット「ルビーの指輪」の寺尾聡を髣髴とさせるサウンドだったがエレキ合戦時代のシャドウズの影響などまったくなかった。
ヴィレッジ・シンガーズのデビュー曲は「暗い砂浜」。 作詞はカントリー・ミュージック歌手の寺本圭一、作曲はメンバーの小松久だが翌年の「バラ色の雲」の印象が強すぎて、多分ほとんどの人が「暗い砂浜」なんて聞いたことがないだろう。幸いにもYouTubeで聴くことができる。まあ、それほどひどくはないがフツーのフォークソングである。

「想い出の渚」でデビューを果たすのがワイルドワンズ。メンバーによるオリジナルである。メンバーそれぞれ立教、早稲田、慶応などの出身でいかにも育ちの良さそうな風貌に加え、当時絶大な人気を誇った加山雄三との親交も話題になり、一気に人気を集めた。翌年以降も「青空のある限り」 「愛するアニタ」 「バラの恋人」と名曲を続けた。すべて作詞はプロの作詞家(安井かずみ、山上路夫)だが作曲はメンバーである加瀬邦彦のオリジナル曲だった。ほとんどがブームに埋もれてしまったGSサウンドの中でもワイルドワンズの楽曲は2000年以降もCMソングに頻繁に使用されるほど時代性を感じさせない。「想い出の渚」から始まって1971年5月リリースの「霧の中の少女」まで都合17枚のシングルのうち1枚(「若草萌ゆる頃」)を除くすべてが加瀬邦彦のオリジナルというのは特筆に値する。

1967年2月5日にファーストシングル「僕のマリー」をリリースしたのがタイガース。いきなり、作詞: 橋本淳 作曲: すぎやまこういち、という見事な歌謡曲のプロ作家によるものだった。タイガースに関してはいろんなところで書かれているのでここではあえて省略する。
カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」 原曲は英ゾンビーズ "I Love You"のカバー(訳詞:漣健児)だった。ドラムス担当のアイ高野がドラム・スティックを突き出し、お前のすべてを、と絶叫、これが女性ファンを虜にしたちまち爆発的なヒットを記録。スパイダース、タイガース、そして同日、同レーベルでデビューしたジャガーズなどと共にこの曲の大ヒットはGSブームを巻き起こすきっかけの一つとなったといわれている。蒲田のレストラン“80番”を経営していた三池昌弘が、店に出入りして余興でドラムを叩いていたアイ高野の評判がいいのに目をつけ、 GSに仕立てあげたのが始まり。当初は“ロビンズ”と名のり、メンバーは高野の他、アイと同じくかってフリーランサーズというパンドにいた越川ひろし(リード・ギター)、越川の昔の盟友、臼井啓吉(ヴォーカル)、元スウイング・ウェストの喜多村次郎(サイド・ギター)、それに岡忠夫(ベース)の5人だった。フィリップスでデビューが決まると、バンド名はミュージック・ライフ編集長、星加ルミ子の命名で“カーナビーツ”となった。

The Zombies ”I LOVE YOU"
「君に会いたい」で同日にデビューのジャガーズも同じフイリップス所属だった。作詞・作曲は清川正一とクレジットされているが、個人情報は あまり多くない。どうやら当時清川氏はニューヨークにいて、ミュージック・ライフやヤングギターでも有名な音楽出版社シンコーミュージックの関係者経由でこの曲がジャガーズの元に渡されたとのこと。清川氏は特にプロの音楽家っていうことでもなくて、趣味で作曲していたらしく、ネット情報ではこの曲以外の作品は見つからない。
ゴールデン・カップスのデビュー曲は「いとしのジザベル」 元々R&Bバンドであった彼らとしては、作詞:なかにし礼 作曲:鈴木邦彦 のこの曲は非常に不本意だったらしく不貞腐れながら録音したそうだ。18万枚の売り上げを記録した。
テンプターズはスパイダースの田邊昭知がホリプロ内の片隅を間借りする形で設立したスパイダクション(現田辺エージェンシー)にスカウトされ、”スパイダースの弟分バンド”として売り出された。6月にヤング720でテレビ初出演、8月には第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出場し新人賞を獲得、10月に松崎が作詞・作曲したシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビューする。
この中では一番遅いデビューだったのがオックス。1968年5月5日に「ガールフレンド」を発売。作詞:橋本淳 作曲:筒美京平のべたべたの歌謡曲。もうこの頃になると、音楽性なんかどうでもよくなり、いかに話題が作られるかが勝負だった。

レコード売上ランキングを見てみる。オリコンの発表は1968年1月に正式に始まるのでデータはそれ以降のものとなる。
1位 銀河のロマンス/タイガース 67.6万枚
2位 シー・シー・シー/タイガース 50.8万枚
3位 小さなスナック/パープル・シャドウズ 47万枚
4位 エメラルドの伝説/テンプターズ 46.2万枚
5位 神様お願い!/テンプターズ 43.1万枚
6位 色つきの女でいてくれよ**/ザ・タイガース 42.7万枚
7位 君だけに愛を/タイガース 39.7万枚
8位 さよならのあとで/ジャッキー吉川とブルーコメッツ 35万枚
9位 青い鳥/タイガース 33.6万枚
10位 ケメ子の歌/ダーツ 32.2万枚
以下 曲名/バンド名だけ
11位 ガール・フレンド/オックス
12位 廃墟の鳩/タイガース
13位 スマイル・フォー・ミー/タイガース
14位 おかあさん/テンプターズ
15位 こころの虹/ジャッキー吉川とブルーコメッツ
16位 美しき愛の掟/タイガース
17位 スワンの涙/オックス
18位 バラの恋人/ワイルド・ワンズ
19位 純愛/テンプターズ
20位 長い髪の少女/ゴールデン・カップス
**なお、6位の色つきの女でいてくれよ はスパイダースが「同窓会」として再結成した際(1982年2月)にリリースされたもの。
次にバンド別の総合ランキングを見てみる。バンド名に続くのはベスト100に入ったシングル曲数である。
1位 タイガース 16曲 406万枚
2位 テンプターズ 11曲 176.3万枚
3位 ブルー・コメッツ 15曲 170.1万枚
4位 オックス 8曲 85.3万枚
5位 スパイダース 10曲 66.2万枚
6位 ヴィレッジ・シンガース 9曲 58.7万枚
7位 ワイルド・ワンズ 10曲 56.7万枚
8位 パープル・シャドウズ 4曲 52.5万枚
9位 バニーズ 8曲 40.9万枚
10位 ゴールデン・カップス 6曲 40.4万枚
以下、ダーツ、ジャガーズ、モップス、ズー・ニー・ヴーと続くが、どうだろう....累計100万枚売上の上位3グループのほかは、”大騒ぎするほどでもない” ような気がする。GSブームへの総合評価は後述する。
★TBS ヤング720 開始
GSの超人気バンド、タイガース、カーナビーツ、ジャガーズ、ゴールデン・カップスがデビューした1966年。この年10月31日にTBSテレビで若者向けの情報番組として「ヤング720」が始まった。文字通り毎朝7時20分から40分間放送されていた番組だが、詳細な資料は少なく、TBSの倉庫にさえVTRはもちろん、スチールもわずかしか存在していない。
開始当日の、朝日新聞、テレビ・ラジオ欄の新番組紹介記事を引用すると 「若い世代の話題の人のインタビューから歌、音楽、星占い、若い人に意見するガミガミ・コーナーまでそろえた。若い人向きの番組」とある。

まだまだ保守的だった当時のテレビ界では画期的な番組で、上記朝日の記事も”しょせん若者向けで長続きしないだろう”的なニュアンスが感じられるが、どうしてどうして1971年4月3日まで足掛け4年半、全1373回続く長寿番組となった。
第1回放送当日の他局の番組を見てみると、NHK総合が7時からニュース、天気予報、ローカル情報、35分から「スタジオ102」。日本テレビは同じくニュースの後15分から「おはよう!こどもショー」。フジテレビは「おきてますか(ニュースショー)」。当時NETと称した現在のテレビ朝日は7時からアメリカドラマの「珍犬ハックル」、20分からゴルフ、45分から「七色仮面」とほとんどやる気がない。
今では当たり前になった朝のワイドショーもこの少し前から本格化している。その草分けは1964年4月1日開始のNETの「木島則夫モーニングショー」だった。月曜~金曜の8:30から9:30の放送でMCは変わりながらも1992年まで年末年始も休まずに続いた。NETの好評に刺激を受け他局も追随するが、少しづつ開始時間がずれているのが面白い。
1965年4月5日に開始されたNHK総合テレビの「スタジオ102」は生放送で放送時間は当初は7:25~8:00、1966年から7:35~8:15になる。NHKに遅れること1か月、フジテレビが9:00~10:30の時間帯で「小川宏ショー」をスタートさせたのが1965年5月3日。元NHKの人気アナウンサー小川宏の冠番組として17年間にわたり全4451回放送された。
最後にTBSが平日朝8:00~9:00に「おはよう・にっぽん」を登場させた。1966年1月31日に第1回が放送され、メイン司会者には東宝のスター俳優、小林桂樹を起用して主婦層からの支持を狙ったが一向に視聴率が上がらなかった。俳優は認知度こそ高いが、台本がないとなにも喋れないという欠点がすぐに露呈した。そこで番組の露払いのような意味も込めて、7時20分から8時までの時間に「おはよう・にっぽん」を盛り立てるような若者向けの朝番組を開拓してみようじやないか、という話が局内で出て、実現したのが「ヤング720」だった。
当時17歳だった作家の鈴木いづみは著書「女と女の世の中」の中で ”(朝)8時まで、ローリングストーンズとブルースプロジェクトとゴールデンカップスをきいた”と書いているが、まさに平日の毎朝7時20分、ロック・バンドのスタジオ・ライブがオープニングというとんでもない番組だった。ビートルズ来日から半年弱という時期、”グループサウンズ”という言葉が徐々に世間に浸透しつつあったが、少なくとも10代の子どもたちにとって、朝から、新しい音楽が、それも生で聞けるというのは大袈裟でなく感動的な体験だった。グループサウンズ(GS)=不良、というイメージがまだまだつき待っていた時代、ヤング720でも最初の頃は、おとなし目の、”ヤバくなさそうな”グループが選ばれていた。記録では放送第8回の11月8日に出演したスイングウエストがグループサウンズとして初の登場ということになっている。後にタレントになる湯原昌幸がボーカルで、どう聞いてもほとんど歌謡曲だった。
その後はワイルドワンズ、寺内タケシのブルージーンズ、スパイダース、サベージ、ブルーコメッツなどだったが、次第にジョー山中のいたフォー・ナイン・エース、テンプターズ、ビーバーズ、モップスなど容姿は汚いが、”本格的”と言われたバンドや小坂忠、ヒロ柳田、細野晴臣、松本隆が所属してはっぴいえんどの原点となったエイプリル・フール、内田裕也のフラワー・トラベリン・バンド、ハプニングス・フォーなど、GSと区別されて「ニューロック」と呼ばれたグループ、さらにはカルメン・マキ、ジャックス、岡林信康、アンドレ・カンドレ(=井上陽水)といったアンチ・マスコミ的な匂いが漂う人たちも出演した。

放映開始当時、中学生だった筆者にとっても日替わりのオープニングライブが毎日の楽しみで、それを聞いてから家を出て中学校へ向かう毎日だった。GSももちろんだが、しばしば登場した荒木一郎が一番のお気に入りだった。有名女優(荒木道子)を母に持つ七光りタレントだが、そのなんとも言えない虚無感とやる気のなさがゴールデン・カップスの不良っぽさとは違ったニュアンスで魅力的だった。大ヒットした「空に星があるように」はもちろん、「紅の渚」、「あなたがいるだけで」、「梅の実」など、間違いなくロックではなく、フォーク、いや歌謡曲かもしれないが文句なしに気に入っていた。70年代には東映のやくざ映画を中心に俳優として数多くの作品に出演しながら、強制わいせつ致傷罪で逮捕されたり、クラブ歌手の女性から美人局で金をせびられたりと幾多のスキャンダルまみれになりながら、常に期待にたがわない“不良っぷり”を見せてくれた。1975年に発表した「君に捧げるほろ苦いブルース」と「ジャニスを聴きながら」という2曲の名作は今でも心にしみる。番組の脚本には向田邦子が参加していたほか、映画監督の恩地日出夫もアドバイザーとして加わっていた。恩地は1967年に東宝で内藤洋子主演「伊豆の踊子」を、1968年には酒井和歌子主演で「めぐりあい」を撮り、ともに新感覚の青春映画となった。荒木一郎が手掛けた「めぐりあい」の主題歌も名曲である。

TBSにとってもこの番組はかなり冒険だったわけだが、内容はともかくメインのMCには、”好感度”を意識したキャスティングがなされた。松山英太郎、関口宏、竹脇無我の起用である。松山は当時24歳で父親は前進座座長の河原崎國太郎。関口は23歳、父親は松竹二枚目俳優の佐野周二。最年少22歳の竹脇もアナウンサー・ニュース映画解説者として有名だった竹脇昌作の三男。揃って業界のサラブレッドでイケメン俳優を配置し、アシスタント役の由美かおるは16歳、ブレイク前の大原麗子は20歳、小川知子も東映で大原と同期で17歳だった。

と早瀬久美
番組カバーガールとしては小山ルミ、恵とも子、プラバー・シェス、久万里由香といったハーフブリードの美少女たちが登場し、内藤洋子、酒井和歌子など当時の王道のアイドルとは違ったエキゾチックな雰囲気で魅力をふりまいていた。

***第25章 60年代中盤~70年代初期のムーブメント ジャズ喫茶 GS ヤング720③ につづく
