夜次元クジラは金魚鉢を飲む #9
9. 砂浜の二人
空には薄く雲が広がり、サーフボードを抱えて砂浜を歩きながら、シンは見知った顔を見つけるたびに声をかけた。海斗は波打ち際に立っている。濡れた髪をかき上げた彼はシンに気づいて片手をあげると、さっさと背を向けて波を蹴り海に入っていった。大人のサーファーたちと比べても見劣りしない海斗の体格が羨ましい。
シンはまとわりつく寒さをストレッチでほぐし、リーシュを足首につけて波間に足を入れた。四月になって日中暖かくなったとはいえ、早朝の潮風は切れるように冷たく海水温も低い。ゆっくりと冷水に体を沈めたあと、サーフボードに腹ばいになってパドルで沖を目指した。
青とも灰色ともつかない海に漂っていると、ヒュッと心臓を掴まれたような心細さをおぼえる。それとは反対にこの星のすべてと繋がっているような心強さを感じる。そんなとき、シンは自分の声を耳で確かめずにはいられなかった。
「機嫌はどう?」
パシャと顔に波がかかり、シンはそれが海からの返事のように思える。
「いい波を頼むよ」
お願いしてみたものの、いい感じのうねりはなかなか来ず、シンはボードにまたがってしばらく波を待った。
左手には夜の名残のような濃い色の空があり、右手に朝の空がある。陽の光を透かせた雲が白く輝き、海原に目を転じるとショッキングピンクのサーフボードが見えた。海斗だ。彼は狙いを定めたらしく、ボードを反転させてパドルをはじめる。うねりが徐々に立ち上がり、白く崩れた波頭がボードに乗った海斗を追いかけていった。
ザン、と海岸の端の岩場で波の砕けた。沖の海が水平線と平行に影を濃くし、水面が徐々に盛り上がり、シンは波に背を向けて海をかく。波をボードで受け止め立ちあがると、サイコーと声が漏れた。海はそれに応えるようにシンの進む先に波の道をつくる。
何度か波をとらえるうちサイズは次第に小さくなり、これで最後にしようとボードに立ちあがったとき、ふと視界に入った人影に目を奪われた。視力は2.0、よりもっといい。砂浜に佇んでいるパーカーのショートヘアは間違いなく伊足波留だったが、手を振ろうにもシンはすでに海の中だった。渦巻く波に藻屑のようにもみくちゃにされながら彼女のことを考える。
どうして波留がここに?
水面から顔を出し、引き寄せたボードに体をあずけて砂浜に目をやると、波留の隣には海斗が立っていた。彼がこっちを指さして何か言っているのが見え、シンの鼓動は訳が分からないまま速まっていく。慌てて方向転換すると、逃げるように沖に向かった。
なんで二人が?
覚悟を決めて振り返ったとき、海岸道路沿いに立つ波留の後ろ姿が小さく見えた。海斗が波留の話をしてきたのは、海から上がってシャワーを浴びた後のことだ。
「シン、あの子と同じクラスだって?」
風呂場の脱衣所でシンが服を着ていると、紺のブレザーにグレーのズボンという見慣れない格好をした海斗が顔を出した。
「馬子にも衣装っていうんだっけ」
「うるせえ」
制服はシンの想像通り海斗に似合っていたが、そのせいか海斗が少し遠い存在になったような気がする。
「それより、シン。海に来てたショートカットの子、お前のクラスメイトなんだろ?」
「そうだけど。なんで、海斗が伊足さんのこと知ってんの?」
「うちの隣の空き家に引っ越してきたの、あの子の家。母さんの話だと、前の学校で登校拒否だったんだってさ。さっきちょっと話してみたけど、人付き合い苦手そうだし、シン、いじめたりすんなよ」
「するかよ。別に、悪い子じゃなさそうだし」
シンは勢いで言い返したものの語尾が頼りなく消えていき、それを見た海斗は愉快そうにニヤッと口の端をゆがめた。
「そっかそっか。そういうことなら安心した。まあ、がんばれよ」
パンと音をさせてシンの二の腕を叩くと、海斗は襟を立てたシャツにネクタイをかけ、洗面台の前に立つ。シンはドライヤーで髪を乾かしながら鏡に映る海斗をながめていたけれど、ネクタイはいつまで待っても結べそうにない。
「あー、もう! 面倒くせえ」
腹立ちまぎれに海斗はネクタイを引き抜くと、「親父ィ」と助けを求めて脱衣所を出て行った。
シンはそのあと外の水道を借りてウェットスーツを洗い、ガレージに干してから一旦家に帰った。父親は仕入れに出ているらしく駐車場にうちの車はなく、二階のベランダでは母親が洗濯物を干していた。
「ただいま」
「おはよう、シン。また海?」
「うん。腹減った」
「三年生になったんだから、サーフィンばかりじゃなくて先のことも考えなさいよ。父さんの店継ぐにしたって、勉強しなくていいってことじゃないんだから」
「まだ先の話だよ」
「なにが先の話よ。今年は高校受験でしょ。調理学科のあるところにいくかどうかも、まだ決めてないんじゃないの?」
「高校は普通科でいいよ。母さんだってその方がいいだろ。家から通える学校は普通科しかないんだし」
「それは……」母親が言い淀んだのを潮に、シンは「メシ食ってくる」とその場を離れた。
トースターの横にある固くなったバケットはシェ・マキムラの余りものだ。シンはそれに霧吹きをしてからトースターに入れ、フライパンに卵を割り入れて蓋をした。コーヒーメーカーには一人分のコーヒーが残され、テーブルの小鉢にはサラダ。
ニュース番組で時刻をチェックしながら朝ご飯をかき込み、ものの五分で朝食を平らげるとシンは自転車を飛ばして学校へ向かった。
次回/10.微睡の海
#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022
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