夜次元クジラは金魚鉢を飲む #22
22. 血のつながり
中学校へ続く坂道をのぼっていると、グラウンドでサッカーしているのが見えた。波留はそれを横目に北棟の生徒玄関に向かい、上履きに履きかえたあと一旦外に出て南棟の職員玄関に向かう。二棟の校舎に挟まれた芝生に目をやると、地区サークルらしい十人ほどの集まりが車座になって話し込んでいた。
職員玄関から南棟校舎に入り、一階の廊下を進んで保健室の先にある美術室をのぞき込む。連休前の昨日、休みの間も金魚部屋に来ていいかと尋ねたら森谷は美術室を使ってもいいと言ったけれど、美術室の隣、一階の突きあたりにある調理室はさっきから頻繁に人が出入りして落ち着けそうになかった。小学生の甲高い声が聞こえ、波留はそのふたつの教室を素通りして階段に向かう。南棟をひと通り歩いてみると二階の図書室と三階の音楽室でも何かやっていて、大人しく一階まで降り、渡り廊下を通って北棟の金魚部屋を目指した。
北棟は南棟と違って人の気配がなく、三年三組の教室のドアを開けるとエアポンプの音が響いていた。水草の陰にいた出目金は波留が近づくともぞもぞと泳ぎ出して物欲しそうに水面を見上げ、赤い金魚は餌を寄こせと言わんばかりに飛沫をあげる。餌をやらずに観察していると赤い金魚は出目金に向かって突進し、追いつかれた出目金は尻尾をつつかれながらなんとか水草の陰に隠れた。よく見ると黒い尾ビレがまた小さくなっていて、波留は赤い金魚を出目金から離そうと水面に餌を撒く。出目金はおこぼれの餌が落ちてくるのを待ちながら、縋るような目で教室のドアを見つめている。
「森谷先生は今日は来ないよ。明日は来るって言ってたけど」
森谷には昨日のうちに金魚を別々にしたほうがいいと伝えてあった。反対はされなかったけれど、同意してくれたわけでもない。
「しばらく赤い金魚をバケツに移して様子を見て戻したらどうかな。それでもダメなら私からも海斗君にお願いしてみる」と、森谷は二匹一緒に飼うことにこだわっているようだった。
彼女の言った方法で上手くいくならそれでいいけれど、毎日金魚鉢を観察していた身として、波留は森谷ほど悠長に構えていられなかった。明日学校に来たら金魚を別けようと決めてバケツに水を汲みながら、昨日のうちに汲んでおけばよかったと後悔する。
「金魚が死ぬのが怖いか?」
波留の耳元で夜次元クジラが囁いた。いつの間に姿を現したのか、教室半分くらいの大きさの夜次元クジラが波留の目線と同じ高さで泳いでいた。
「怖いのとは違う。対話者がいなくなったら森谷先生が悲しむから」
「三次元的情緒だ。四次元から見れば出目金は生きているし死んでいる。お前も生きているし、死んでいる。小説の冒頭で生きていた人間が最終ページでは死人になっているようなものだ。お前が手にした本の中でその人間は生きているし死んでいる。どのページを開くかで状態は変わる」
「この世界では人は死んだら生き返らない。金魚も、僕も。ねえ、夜次元クジラ。死ぬのは三次元からの解放?」
「何度も言っているが生死は関係ない。三次元に執着する限りそこから解放されることはない。身体感覚が失われれば三次元から離れやすくなるが、逆に執着を強めることもある」
出来の悪い生徒を見るような、憐みをおびた眼差しを夜次元クジラは波留に向けた。いくら呆れられようが分からないものは分からないのに、と波留は心の中で文句を言う。
一緒に過ごす時間が増えたせいか、最近の夜次元クジラはやけに饒舌だ。以前は禅問答のようなやりとりで煙に巻かれることがほとんどだったのに、近頃は波留が何かを聞けばそれなりに答えらしい答えが返って来る。そして、会話を切り上げるときにはいつもこう言った。
「四次元に行きたくないのか?」
また今も同じことを言い、夜次元クジラは教室の後ろの壁をすり抜けて姿を消した。波留は気を取り直してスケッチブックを手に椅子に座り、尾ビレを食われる前の出目金を想像して金魚二匹を同じ大きさでガラス鉢の中に描く。
しばらく手を動かしていたが、ふと夜次元クジラの言葉を思い出して波留は一旦手を止めた。スケッチブックを閉じ、手探りで適当に広げてみる。開いたのは何も描いていない真っ白なページで、もう一度スケッチブックを閉じ、広げる。今度は出目金が金魚鉢の上を泳いでいる絵だった。開いて閉じることを繰り返し、五度目で今描いたばかりの美しい尾ビレのある出目金に当たった。
「出目金の尻尾は食べられてるし、食べられていないし、出目金はいないけどいる」
波留が金魚鉢に目をやると、出目金は泳ぐことを諦めたように水の底で息をひそめていた。
平日と同じ時刻に鳴るチャイムを区切りに絵を描き、宿題をして、近くのコンビニでお昼を済ませ、また絵を描いて、ブラブラ散歩して、ほぼ一日を学校で過ごした波留は、帰るまえに忘れず金魚の餌をパラパラと撒いた。そのほとんどが赤い金魚の口の中に吸い込まれ、わずかに底に沈んだ食べ残しを出目金が覇気のない顔でつついた。

学校から帰ってみると、波留の家の近くに数台の車が路上駐車していたが、確認するとナンバーは地元のものではなく、どうやらゴールデンウィークを利用した旅行客のようだった。CONAの先にある広場にもそれらしい車が並び、海にはいくつもサーファーの影が浮かんでいたけれど、ゆらゆらと水面に揺られているだけで波らしい波はない。
CONAの二階の窓には二人の女性客の姿があり、一階のショップの前ではいかにもサーファーといった日焼けした人たちが立ち話をし、波留はその横を素通りして裏の駐車場をうかがう。シンの自転車が奥に停まっているのを確認したけれど、店に入ることなく家の前まで引き返した。
カーテンの開いたリビングに見える三人の大人の姿は、那波と田辺と、もう一人は波留の叔父で那波の弟にあたる嶋田克樹だった。このあとの予定を憂鬱に思いながら波留が玄関を入ると、見慣れない革靴が隅に揃えて置かれ、リビングからは田辺の声がする。
「それにしても、克樹さんは本当に波留ちゃんにそっくりですね」
最悪の話題だ、と波留はそっとため息をついた。
「波留にはしばらく会ってないから、私にはよくわかりませんが」
聞こえてきた叔父の愛想笑いはどこか申し訳なさそうだった。
波留が克樹叔父に会うのは留里の葬儀以来。正直なところ波留は叔父と顔を合わせるのが苦手だ。波留が留里の卵子と叔父の精子から生まれたと知ったのはずいぶん小さい頃のことで、具体的にいつだったのか確かな記憶はないが、それが他人から奇異の目で見られることだと知ったのは小学二年の時だった。
――お父さんとお父さん、お母さんとお母さんでは子どもを生むことができませんが、他の人にお手伝いしてもらって赤ちゃんが生まれてくることもあります。
家族についての授業で、先生が説明した。
うちの家のことを言ってたよ、と波留は帰ったらさっそく母親二人に報告するつもりでいた。自分が生まれてくるのに二人の母親と叔父とが関わったということを、その頃の波留は違和感なく受け止めていた。
――お手伝いしてくれた人の子どもってことですよね。
と、そのとき一人の女の子が得意げな顔で先生に質問した。先生が質問に答える前に波留の隣の席の子が「波留ちゃんにもお父さんがいるの?」と聞いて、波留は意味がわからず首を振った。
「お父さんじゃなくて叔父さんだよ」
波留が言うと、さっきの女の子が「わかった」と手をあげた。
「波留ちゃんは叔父さんの子どもなんだ。叔父さんが本当のお父さんで、どっちかのお母さんと叔父さんから波留ちゃんが生まれたの」
波留にもその子の言いたいことは分かったけれど、波留の親は那波と留里の二人だけで、叔父は叔父でしかなかった。波留が言い返すまえに先生がセイブツガク的にどうのとか、愛情がどうとかそんな説明をして、結局うやむやのまま授業は終わった。波留のまわりで議論が巻き起こったのはそのあとの休憩時間だ。
「パパがいないなんておかしいよ」
「お父さんいないの可哀そう」
「だめよ。理解してあげないとかわいそうでしょ」
クラスメイトが言い合っているのを見ていたら波留はお腹が痛くなって、先生に連れられ保健室に行った。布団を頭までかぶってベッドで寝ていると、ひそひそと話し声が聞こえてきた。
「たぶん親御さんの会話を聞きかじったんだと思います。現場がまだ不慣れで、本当に申し訳ありませんでした」
担任の謝罪の言葉は、波留を迎えに来た留里に向けられたものだった。当時は同性同士の結婚が認められてまだほんの数年。波留が生まれたとき、母親同士はまだ正式な婦婦ではなかった。
いつ頃からか波留が気にかけるようになったのは、叔父の家族が自分をどう思っているのかということだった。叔父の克樹には妻と二人の子どもがいる。彼が結婚したのは波留が保育園に通っていた頃のことで、従兄弟たちは現在小学二年生と五年生。二人とも男の子だ。
叔父の結婚を機に波留の家族と叔父との関係は疎遠になり、家族ぐるみで会ったのは片手で数えられるほどしかない。叔父は波留に対してあくまで叔父として振る舞っているけれど、叔母はおそらく波留の出生の事情を知っているはずだった。従兄弟たちがその事実を知らされているのか波留には分からないけれど、二人が気づいていてもおかしくない。留理の葬儀で久しぶり会った叔母が言葉を失ってしまうほど、波留と叔父の克樹とはそっくりだから。
親より叔父や叔母に似ているというのは別にめずらしいことではないけれど、波留たちの場合その理由が明白なことが互いの関係を少し複雑にしている。
次回/23.裏返し
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