夜次元クジラは金魚鉢を飲む #29

29. スノードーム
シンはスノードームを握りしめ、目を開けているのか閉じているのかも分からないまま流された。じきに流れは穏やかになり、ぼんやりと見えてきたのはすっかり足が遠のいてしまったシェ・マキムラの厨房。そこに立っているのはシンの父親と海斗の父親だ。
二人がシンに気づく気配はなく、試しに勇気の肩に手を置いてみたが、波留のときと同じように何の感触もないまますり抜けただけだった。調子にのって父親の後頭部を叩くと今度はパッと振り返り、シンは思わず仰け反ったけれど、父親の方は不思議そうに首をかしげるばかりだ。
「なに? 虫でもおった?」と勇気が笑った。
「いや、気のせいだ」
父親は見えない虫を追い払うように手を振ると、勇気の手元にあるボウルをのぞき込んだ。どうやら中身はハンバーグ種らしく、CONAにそのレシピを教えたのはシンの父親だと海斗に聞いたから、それが夢に出てきたのかもしれない。
厨房に立つ二人はシワもなくずいぶん若々しかった。たしかカレンダーがあったはずだと辺りを見回すと、業務用の大型冷蔵庫に広至九年のものが貼られている。広至九年といえば七年前、シンが七歳のとき。
厨房に入るのはいつぶりだろう、とシンは懐かしく備品や機材をながめた。幼いころも今も父親がシンを厨房に連れて行ったり呼んだりすることはなく、昔は裏口の前でタケさんや他のスタッフに声をかけて中に入れてもらっていた。中学にあがってからは母親に使いを頼まれて顔を出すくらいで、それも片手で数えられるほどしかない。
「やっぱり、スノードームは失敗だったかな」
勇気の手つきをじっと見ていたシンの父親が、不意にポツリと口にした。すると、ああ、と勇気は笑い混じりの返事をする。
「シンなら包丁あげた方が喜んだかもな。一緒に料理でもしてやったら機嫌も直るんじゃないか?」
「料理はなあ、俺が手加減できないんだよ。うまく教えられる気がしない。それに、期待しちゃうだろ」
「シンが店継いでくれるか、ってか?」
「ああ。でも、親のエゴで縛るようなことはしたくない」
「親がいくら期待してみたところで、子どもは好き勝手やるさ。俺らだってそうだったわけだし、頼られたときに手貸してやればいいんじゃないの」
「そうだな」と、うなずく父親は、シンが憧れていた頃の顔をしている。
手の中のスノードームに目をやると視界がグニャリと視界が歪み、父親も勇気も背景と一緒にマーブル模様になっていった。
「父さん!」
シンは自分の声で目を覚ました。
アラームがくぐもった音で鳴って、カーテンの隙間からは朝が訪れる前の頼りない光が差し込んでいる。手探りで音源のスマートフォンを探すと布団の中で丸いものが手に当たり、目の前に持ってくるとスノードームの中で淡い光の粒が舞っていた。
スマートフォンは枕の下から見つかり、通知をチェックすると海斗からメールが届いている。
『海入るけど、そのあとCONAで朝メシ食ってから中学校行くか?』
『OK』
返信してベッドから起き上がり、部屋を出るときハンギングバスケットが目に入った。昨夜見た波留の夢のことが、ぼんやりと頭の中に蘇ってくる。
「変な夢だったな」
シンはあくびをしながら階段を下りたが、一段下りるごとに少しずつ頭が覚醒して夢の内容がはっきりしてくると、波留に好きだと告白したことを思い出した。夢のことなのにどうしようもなく恥ずかしさが込み上げ、海斗と三人で交わした会話とゴチャ混ぜになって全部が本当にあったことのように錯覚する。
「いや、あれは夢だから」
ひとりごち、昨夜の出来事を頭のなかで整理しながら顔を洗っていると、ギシギシと重い足音が聞こえた。手に取ったタオルで顔を覆い、もう少し早く家を出れば良かったとため息をつく。
「早いな」足音が止まって聞こえたのは父親の声だ。
「うん。海行って海斗のとこでメシ食うから」
顔を拭きながら、シンは父親の脇をすり抜けて洗面所を出る。
「シン」
呼び止められ、シンが振り返ると父親がぎこちない笑みを浮かべて立っていた。会話らしい会話をしたのはもういつだったか思い出せない。
「昨日うちの店に来てたお前のクラスメイトの伊足君。CONAの隣に住んでるんだって?」
「君、じゃない」と、思わず強い声が出た。父親は意味を捉えかねて首をかしげている。
「伊足さんは女子。伊足波留さん。そういえば、デザートありがとうって。波留も海斗もおいしかったってさ」
申し訳ないと思っているのか、それとも照れているのか、父親は頭をかきながら「そうか」と籠った声を出した。目覚める前に見た夢の中の父親を思い出し、ずいぶん白髪が増えたとシンは思う。
「ねえ、父さん。父さんは、俺に料理人になって欲しい?」
シンが問いかけると、父親は顎の髭をなでて低く唸った。料理を前に思案しているとき、父親がよくこんな仕草をしていたのを思い出した。
「シンは、どうしたいんだ?」
「母さんが店継いで欲しがってるのは知ってるし、料理は嫌いじゃない。でも、正直なところよく分からない」
「シン、お前はお前で好き勝手やればいい。俺だってそうだったから」
気をつけて行って来いよ、とぎこちなく笑い、父親は背を向けた。ジャブジャブと水音をさせて顔を洗う父親の背をシンは突っ立ったままながめ、無骨な手が水道を止める。
「父さん、苺のソルベおいしかった」
父親はびしょ濡れの顔を手で拭ってシンを見ると、「そうか」と目元に皺を寄せた。
次回/30.大人たちの会話
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければサポートお願いいたします。書き続ける力になります!🐧