見出し画像

夜次元クジラは金魚鉢を飲む #35

画像1


35. 金魚の墓


 勇気に手渡されたパンをほおばり、シンは玄関を出た。肌寒い早朝とは違って、顔を撫でる潮風はどこか初夏を思わせる。

 自転車で波留の家の前を通りかかると、窓の奥に「波留の父親になりたがっている人」の姿が見えた。

「他人が家にいるって、波留ちゃん嫌だろうな」

 並走する海斗も同じように窓に目を向けていて、「男だしね」とシンが返すとニヤついた顔で「そうだよな」と大げさにうなずいた。どんな時でも海斗はこんな調子で、それに救われることもあるけれど、今は無性に腹立たしい。

「勇さんに海斗の秘密バラしてやる」

 シンが立ち漕ぎで海斗の自転車を引き離すと、「待てよ」と海斗も腰を浮かせて追いかけた。穏やかな海を左手に見ながら、金魚鉢のフリルのように幾度もカーブを描く海岸道路で視界がひらけるたびシンは青いリュックを探す。波留を見つけたのは、「この先右折」と書かれた中学校への案内看板のすぐ手前だった。

 波留は走ったり歩いたりを繰り返していたが、シンが数メートルの距離まで近づいて声をかけようとしたとき、気配を感じたのか足を止めて後ろを振り返った。シンと海斗が追いついて自転車を止めると、「早かったね」とわずかに口角をあげる。その表情には不安が滲み、首筋には汗が浮かんで、短い髪がうなじに張り付いていた。彼女はシンが口を開くよりも早く、「行こう」とふたたび走り出す。

「ちょっと待って、波留。後ろ乗って」

 波留は迷うことなく「ありがとう」と荷台にまたがり、シンの体に腕を回した。

「なんか、青春だな」

 茶化す海斗を睨みつけ、波留は「早く」とシンに体をぶつける。シンのほうはくっついた背中に熱と荒い呼吸を感じてドギマギし、動揺を隠そうとぶっきらぼうに「うん」とうなずいた。

「おっ先ー」海斗がサドルから腰をあげて急発進した。

「ちょっと、置いてくなよ」

 シフトチェンジを駆使しても当然ながら海斗に追いつくことはできず、後ろ姿の小さくなった海斗は片手を振って右折し見えなくなる。シンの自転車も海岸道路を外れて学校へと続く坂道にさしかかったが、数十メートルのぼると歩くのと同じくらいにスピードは落ち、波留は「降りる」とシンの服を引っ張った。

 シンが自転車を止めると波留はすぐさま荷台から降りて走り出し、そのさらに先を走る海斗の自転車は駐輪場を無視して校舎のある左方向へ曲がる。シンが二人に追いついて北棟の生徒玄関前に自転車を停めたとき海斗はドアに手をかけ、波留もその隣に立っていた。校舎の中は薄暗く、海斗がドアを引くとガタッと音がする。

「閉まってる」

 肩をすくめる海斗に代わって、波留が諦めきれないようにガタガタとドアを揺らした。

「南棟は? 職員玄関」

 シンが言うと波留は即座に駆け出し、海斗もその後に続いた。だが、北棟と南棟のあいだにある中庭に目を向けた彼は「あっ」とつぶやいて足を止めた。

「あれ、森谷先生じゃないか?」言うが早いか海斗は芝生の上を全力で駆けていく。

 南棟校舎にある美術室の窓の外にはこぶしの木が植えられ、ちょうど開花時期らしくたくさんの白い花を咲かせていた。その木の下に森谷が背を丸めてうずくまっている。三人の足音は聞こえているはずなのに、彼女は地面を見つめてうなだれたまま振り返ろうとしなかった。

「森谷先生」

 海斗が声をかけると森谷はようやく顔をあげたが、またすぐ地面に視線を落とした。その肩が小刻みに震え、隣にしゃがみ込んだ海斗は慰めるようにポンポンと彼女の背中を叩く。シンと波留が二人のそばで足を止めると、「今朝ね」と森谷が小さな声で話し始めた。

「金魚が夢に出てきたんだ。波留さんから金魚たちを別々にするって聞いてたから心配になって、朝起きてすぐ来てみたの。でも、遅かった。先生のせいで死んじゃった。ごめんね」

 木の根元の土が盛り上がり、シロツメクサの花が添えられていた。シンは立ったまま手を合わせ、隣を見ると波留が強ばった表情で金魚の墓を見つめている。ごめんなさい、と繰り返す森谷は、肩が大きく上下して涙声になっていた。

「先生のせいじゃないよ。俺も任せっきりにして、ごめん」

 海斗の言葉に首を振る森谷は、先生というより小さな女の子のように見える。彼女は地面に膝をつくと盛り上がった土の上に両手を置き、その手にポタポタと涙が落ちた。

「金魚は寂しいと死んじゃうって思ってた。でも、出目ちゃんは金魚鉢から出たかったんだよね。食べられたくなかったんだ。前は二匹仲良くしてたのに、どうしてかな」

 シンは金魚の埋まった地面を見つめ、こぶしを握りしめた。

「俺が金魚係だったのに」

 海斗がシンを見上げた。一瞬目があった彼の視線はフイと隣の波留に向けられ、シンがつられて横を向くと、波留はこぶしの木をぼんやり見上げている。その目は何かを追うように南棟から北棟へとゆっくり移動し、そして不意にパッと見開かれた。

「僕、先に上がって金魚部屋片付ける」

 彼女は誰の返事を待つこともなくまっすぐ渡り廊下の方へ駆け出した。

「片付け?」

 海斗とシンは首をひねり、森谷は茫然と波留の後ろ姿を見送っている。

「俺も行ってくるよ」

 シンは不穏なものを感じて彼女を追った。北棟入り口で追いつくと 二人とも靴を脱ぎ散らかし、鍵の開いた北棟校舎の階段を靴下で駆け上がる。先を行く彼女の名前をシンが呼ぶと、「何?」と喘ぐような声が返って来た。

「あのさ、波留はどんな夢を見たの?」

「出目金が、死ぬ夢」

 足を止めることなく波留は最小限の言葉だけ口にする。

 シンの頭にはひとつの疑問があった。木の下に埋まっているのは出目金だけ・・・・・なのか、ということだ。

 シンの知る限り弱っていたのは出目金だけで、もう一匹の赤い金魚は元気そのものだった。けれど、波留の慌てぶりを見るとそのもう一匹の赤い方の心配をしているように思えてならない。

「波留の夢では、赤い金魚は元気だった?」

 シンが尋ねると、波留はボソッと「覚えてない」と言う。

 いったい彼女はどんな夢を見たのか。二匹とも死んだ夢を見たのなら森谷に聞けば済むはずだが、波留は明らかに詳細を話したくない様子だった。シンは湧きあがってくる疑問を抱えたまま彼女の後ろをついて走る。

「ただの夢だよ」

 つぶやく波留の声がした。うわごとのような言葉はシンに向けたものではなく、波留が彼女自身に言い聞かせているようで、シンはふと胸騒ぎを覚えた。この手はちゃんと波留に触れられるだろうか。

「ねえ、波留。昨日の夜、俺の部屋に来たよね」

「海斗もいた」

「その後だよ。クジラと一緒に俺に部屋に来た」

 波留からの次の言葉はなく、三階にたどり着いたとき、シンは正面の窓に青く透き通った何か・・を見た。

 昨夜も波留と一緒に目にしたクジラの尾ビレ。波留は何も言わないが、彼女の視線もそれを捉えている。波留に続いて廊下を折れると、視聴覚室から三年一組まで続く三階廊下の窓の外に、夜次元クジラの巨躯が浮いていた。

 波留はクジラを無視して金魚部屋を目指し、視聴覚室を過ぎ、三年三組の机でふさがった前側のドアを素通りして後ろのドアへ向かう。

 夜次元クジラは教室ふたつ分の大きさだった。大きな胸びれがユラリユラリと中空を掻き、漆黒の瞳がギョロッと動いてシンを見る。亀裂のような口がわずかに開くと、シンは自分の内側が振動した気がした。

「波留、あれは夢じゃないよね」

「夢だよ。シンの夢」

「違うよ、だってほら。泳いでる」

 エッと声を漏らし波留が足を止めたのは、ちょうど金魚部屋のドアの前だった。

 波留は窓の外に浮かぶ夜次元クジラと隣に立つシンとに交互に目をやったが、ハッと我に返って金魚部屋のドアを開ける。後について入るつもりでいたシンは、彼女の背に体当たりしそうになった。

「どうしたの、波留」

 横から波留の顔をのぞきこむと、その表情は強ばっていた。彼女の視線の先にあるのは金魚鉢。そこに泳いでいるはずの生き物の姿はなく、水草とエアポンプは棚の上に転がり、底石と、石を浸すほどの水だけが金魚鉢に残っている。床は水浸しで、森谷のものなのか濡れた足跡がドアのところまで続いていた。

「いない……」

 波留はシンを押しのけて廊下の窓に駆け寄り、もどかしそうに鍵を外して全開にする。

「夜次元クジラ!」

 窓から身を乗り出し、落下することなど何とも思っていないようにクジラに向かって伸ばされた彼女の腕を、シンは慌てて掴んだ。


次回/36.バイバイ

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022


いいなと思ったら応援しよう!

砂東 塩 よろしければサポートお願いいたします。書き続ける力になります!🐧