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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #12

)クジラリンク(マリンスノー


12.  去年の金魚係


 ドアのガラス越しに波留と目が合うと、森谷は嬉しそうに教室に入ってきた。

「さっき校舎の下から人影が見えたんだ。シン君かと思ったら波留さんだった」

「シンは餌やったら帰りました」

「波留さんは帰らないの?」

「あ、えっと。もうちょっといてもいいですか? 家に帰っても人の出入りが多くて落ち着かないから」

 まだ立ち上がる気力がなく波留が椅子に座ったままでいると、森谷は向かいの椅子を引いて腰を下ろした。出目金が方向転換して一生懸命森谷のそばに近づこうとしているのは、自分が三次元から離れた存在だと気づいていないからだろう。もし気づいているのなら、出目金は一瞬で森谷のそばに行くことができる。

「別に構わないけど、家で何かあるの?」

「母親が家で仕事はじめるので、準備で打ち合わせとかやってて」

 へえ、と森谷は目を輝かせたが、次に口にしたのは波留の家の商売のことではなかった。

「そういえば、波留さんちってCONAコナの隣だったよね。CONAの息子の砂見海斗君、会ったことある? 彼、三年三組の卒業生で去年の金魚係なの」

 ね、出目ちゃん。と、森谷は金魚鉢に目をやった。

「今朝、海にいました。今日が入学式らしいです」

「入学式の朝にもサーフィンかあ」

 海斗君はあいかわらずだね、と森谷は金魚鉢に向かって言う。きっと、いつもこうやって出目金に話しかけているのだ。

「先生が前に言ってた金ちゃんのお気に入りの男子生徒って、あの人ですか?」

「うん、そう。金ちゃんも出目ちゃんも海斗君がとってきた金魚なんだけど、私と海斗君が金魚鉢のそばで話してたら金ちゃんが跳ねて水をかけるの。嫉妬してるんだって二人で笑ったんだ。お腹減ってただけかもしれないけど」

 海斗のことを話す森谷は楽しそうだった。海斗が卒業して、森谷は海斗の代わりに出目金に話しかけるようになったのかもしれない。

 時計に目をやった森谷は、「遅くならないようにね」と念押しして金魚部屋を出ていった。出目金は教室から出られないのか、出られないと思い込んでいるだけなのか、ドアのそばまで森谷を見送り、姿が見えなくなると景色に溶け込むようにスーッと消えた。金魚鉢の中の三次元の出目金は水草の陰だ。

 波留は金魚鉢の前に椅子を持っていってスケッチブックを広げた。陰影と光を加え、出目金はガラス鉢の中に閉じ込めるつもりでいたけれどシンの言葉を思い出して金魚鉢の外に描いた。

「どっちが本当の出目金?」

 金魚鉢のそばを泳ぐ夜次元クジラに波留が問いかけると、クジラは嘲笑うようにクククッと鳴く。今日は金魚鉢の中を泳ぐ気分ではないようだ。

「信じたものが真実」夜次元クジラは言う。

「夜次元クジラは何を信じてるの?」

「真実はただある。ただ信じればいい」

 波留が首をかしげると、夜次元クジラは優雅に身をひるがえしブリーチングするように天井近くまでジャンプする。小さいころ母親二人に連れて行ってもらったホエールウォッチングの思い出と重なり、夜次元クジラのまわりに飛沫が見えた気がした。

「夜次元クジラは、海に帰りたい?」

「帰りたい?」

 クジラはめずらしくオウム返しに問いかけ、愚問だというようにクククと高い声で鳴く。目を閉じた夜次元クジラの頭からプカプカと泡が出ては天井にあたって消える。

 この街で暮らすようになってから夜次元クジラと過ごす時間が増えていた。波留が呼ばなくても姿を現すようになったし、姿を見せている時間が格段に増え、四次元散歩も前より頻繁になった。それは全部あの家を離れたせいかもしれない。

 引っ越し前に留里の遺品を整理し、服や日用品など雑多なものはすべて処分した。まだ買い手はついていないけれど家も売りに出しているし、日々の生活から留里の気配が薄らいで、家にいても近所を歩いても、留里との思い出と結びつくものがない。それでも夜次元クジラがいれば波留は留里のことを思い出し、思い出せば必ず会いたくなる。

 四次元散歩のたび、波留は留里に会えるよう願った。何度も心の中で留里を呼んだ。けれど、波留が夜次元クジラと訪れるのはたいてい留里が死んだ後の時空で、留里が生きている時空に行ったとしても留里に会う前に三次元に引き戻される。

 スマートフォンが鳴り、波留は鉛筆を走らせる手を止めた。那波からメールだった。

『克樹おじさんと話してるんだけど波留も入れる? 今度のゴールデンウィークに克樹だけでも遊びに来ようかって』

『ごめん、まだ学校だから』

『残念。克樹、久しぶりに波留と話したがってた』

『別に話すことなんてない』

 返信まで少し間があり、『遅くならないようにね』という那波のメッセージでやりとりを終えた。

 一人きりの金魚部屋で、波留は誰に憚ることなくため息を吐く。どうしようもなく留里に会いたくなったけれど、波留が呼びかけても夜次元クジラは天井近くに留まったまま尾ビレをひと振りしただけだった。


次回/13.サボタージュ

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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