夜次元クジラは金魚鉢を飲む #4
4.四次元のクジラ
波留の席は教室の廊下側の壁際、一番前。すぐそばに扉があって、正面には時間割り表が貼られていた。決められた時間に決められた教科を学ぶ、なんて非効率なんだろう。
カツカツと教室内に響いていたチョークの音が止み、教壇の上の森谷が生徒の方を振り返った。
「三年一組を受け持つことになりました。森谷笹音です。みんなとは初対面じゃないから今さらだけど、担当教科は美術です」
知ってるよ、という声が教室のあちこちであがり、森谷はそれに笑顔で応える。二クラスしかないせいか生徒同士も先生も緊張感はなく、部屋の隅にあるこの席が一番自分にピッタリだと波留は思う。
「じゃあ、みんな気になってると思うから自己紹介を順番にしていきましょう。最初は出席番号一番の伊足波留さん。今日が転校初日なので、みんな色々教えてあげて下さい」
私語が飛び交っていた教室は、波留が立ち上がるとピタリと静かになった。生徒二十五人の好奇に満ちた視線が集まり、森谷は興味深そうにその様子を見守っているが、どう見ても引きこもりから復帰しようとする生徒に向ける目ではない。
「イタリハルです。よろしく」
顎で会釈して座ろうとすると、「それだけ?」と森谷が相変わらずの鼻づまり声で言って口をとがらせた。チョークを手にとって『伊足波留』と黒板に大きく書き、人差し指を立てて「もう一言」と懇願する。教卓の正面に座っていた女子生徒が、後ろの席の女子を振り返って「かっこいいね」と囁いた。その囁きはほとんどの生徒の耳に届き、「男?」「女?」という声が波留のところまで聞こえてきた。
「女です」
波留は投げやりに口にして椅子に腰を下ろした。囁き声が教室を満たし、これまで何度も味わってきた圧迫感の再現に波留はうんざりする。と同時に、苦痛に耐えていたあの頃の対処法を思い出した。
うつむいて、目を閉じる。
息苦しいのはここが海底だからだ。ほら、マリンスノーが降って来た。遠くの山にこだまする汽笛のような音はクジラの鳴き声。真っ暗なクレバスからぬうっと頭を突き出した夜次元クジラは、ぱっくりと口を開けて僕を飲み込む。そうすればここはもう四次元。空気がなくても平気、時間にも空間にも縛られない。夜次元クジラの中は今日だけれど昨日で、昨日だけれど明日で、海の底だけれど夜空で、マリンスノーがクレバスの底に沈んでいくように、天の川から星が降る。夜次元クジラは海原から宙に泳ぎ出て、陸地まで僕をつれていく。
波留が深呼吸してそっと瞼を持ち上げると、教室のドアのガラス窓から夜次元クジラがのぞいていた。丸い目は海の底のような漆黒で、波留が小さくうなずくとドアをすり抜けて教室に頭を出す。様子を探るようにゆっくりと全体を見回したあと、楽しそうにククッと鳴いて教室に入って来た。
ガラス窓の大きさに合わせたのか、サイズはあまり大きくなく体長二メートルほど。ザトウクジラをモデルにした体は、背は暗い青色で腹側は白っぽい。透明な夜次元クジラの体の向こうに時間割表が見え、その文字は金魚鉢の向こう側を見るようにゆがんでいる。
「狭苦しい場所だ」
夜次元クジラは憐みのこもった声で言うと、キュウと悲しげに鳴いた。そしてゆったりと上下に尾ビレを動かして教室の中を泳ぐ。
波留がWIZMEEなしで夜次元クジラの姿を見られるようになったのは、およそ一年前。教師と生徒の好奇の眼差しから逃れるために夜次元クジラのことを考え、心の中で「ここは教室ではない、『夜次元クジラ』の絵本の中だ」と、何度かそんな妄想を繰り返し、あるとき目を開けたら夜次元クジラが教室を泳いでいた。
以来、波留は夜次元クジラと一緒にいる。姿は見えなくても夜次元クジラはそばにいて、波留が望むと姿を現す、波留にしか見えない存在。その姿を現実に残すためにスケッチブックを買い、デッサン用の鉛筆を手にとった。
関東から遠く離れた近畿州の寂れた街に引っ越しても、夜次元クジラは変わらず波留の前に姿を見せる。もともと夜次元クジラには空間も時間も関係ないのだから、どこにいてもついて来るのは当たり前と言えば当たり前だ。まだ見慣れない教室を夜次元クジラが泳いでいる。それだけで気持ちがほぐれる。
夜次元クジラは生徒たちの頭上を悠々と泳ぎ、窓際まで行きつくと「少し遠いな」と、海を見てぼやいた。するりするりと生徒の体をすり抜け、ひとりひとりの顔を順番にのぞきこんでいくクジラは、もしかしたら動物園のサルでも眺めている気分なのかもしれない。波留は他の生徒の自己紹介を聞きながら、夜次元クジラの様子をうかがっていた。
「はい、次は槇村心君」
その生徒のことが気になったのは、森谷が彼の名を君付けで呼んだからだった。教師が生徒を呼ぶときは「さん」付けするのが一般的で、前の学校と今の学校の方針が違うということはない。実際、出席番号一番の波留から槇村の前の生徒まで、森谷は「さん」付けで呼んでいた。マキムラココロと呼ばれた彼は、中央の最後列に立っている。
「森谷先生、ココロは呼ばれ慣れないからやめて」
肌は浅黒く、髪は染めているのか明るく光を透かし、パーカーとジーンズというラフな服装の彼は波留と同じくらいの背丈だった。くだけた口調なのが波留にはあまり良い印象ではない。馴れ馴れしい人間は苦手だ。
「ココロなんてかわいい名前に似合うような性格じゃないので、これまで通りシンって呼んで下さい。イタリさんも、シンで」
自己紹介で直接波留に話しかけたのはシンが初めてだった。彼は照れくさそうに頭をかき、目が合った波留は思わず顔をそらす。
「苦手とは。嫌いか、怖いか、認めたくないか」
シンの背後を泳ぐ夜次元クジラはいつの間にかひと回り大きくなっていて、文字を読み上げるような抑揚のない喋り方をした。クジラが尾ビレを大きくしならせると教室の風景が陽炎のように揺れ、小さな渦が生徒たちの姿をゆがめ、波留は初めて見るその光景に息を飲む。まるで、海の中にいるようだ。
次回/5.クジラとの対話
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