夜次元クジラは金魚鉢を飲む #19

)クジラリンク(マリンスノー


19. 母親たち


 WIZMEEウィズミーのVRモードと同じように、波留は自分の姿を目にすることができないまま、ぽかっと意識だけが浮かんでいた。小学校の校舎のちょうど二階の高さで、廊下を歩く生徒たちを窓の外からながめている。

「波留ちゃんの家ってパパがいないんでしょ。それなのになんでそんな男の子みたいな格好してるの?」

「あ、わかった。パパがいないから自分で男の格好してるんだ」

 甲高い声が聞こえて足下に意識を向けると、ちょうど真下の手洗い場に女の子が五人たむろしていた。彼女らと向かい合うように立っているのは小学四年生の波留。それを認識した瞬間、波留の意識はその体に吸い込まれた。

「また体に戻りたがる」耳元で夜次元クジラの呆れ声がした。 

 波留を取り囲んでいるのは当時のクラスメイトたちで、女子のリーダーだった子が手洗い場の蛇口に繋いだホースを波留に向けているが、まだ水は出ていない。

「あなたにはパパもママもいるのに、なんでそんな恰好してるの?」と、波留の口が勝手に動いた。そういえば、昔そんなことを言った記憶がある。

「はあ? なに意味わかんないこと言ってるの」

 リーダーの女子が水道のそばに控えていた別の女子に「出して」と声をかけ、指で潰したホースの先から水がシャワーのように噴き出し、波留の顔も服も濡らしていった。小さな虹を波留は濡れながらながめ、夜次元クジラは気持ちよさそうに水浴びして膨れていく。

「波留ちゃんも女同士で結婚するの? 子どもにパパがいないなんてかわいそう。あ、そっか。波留ちゃんがパパになるんだ」

「うるさい!」

 波留は掴みかかってホースを奪おうとし、四方八方に水飛沫が散って手洗い場に女子の叫び声が飛び交う様を、中学三年の波留はぼんやり小学四年の体の中から観察している。今なら関わるのもバカバカしくて濡れたまま立ち去るけれど、この頃はまだ怒りを相手にぶつけていたのだと思い出した。小学四年の波留は本気で怒っている。何を馬鹿にされたのかもハッキリと分からないまま、悔しさだけでやり返している。

 女の子の一人が泣き出したとき、グラリと体が揺れた。

 校内放送で緊急地震速報が流れて波留は咄嗟にその場にしゃがみ込んだが、それほど大きな揺れではなく、泣いていた子も慣れた様子でじっと揺れがおさまるのを待っている。しばらくして、点呼のため教室に戻るよう校内放送があった。

「震度三くらいかな。全然マシな方だよね」

「あたしあんまり覚えてないんだ、首都直下。大変だったって親は言うけど」

 女の子たちは濡れた髪やスカートを絞りながらそんな会話をしていたが、波留がハンカチでティーシャツを拭いていると、リーダーの子が近づいてきてハンカチを奪った。

「男なんでしょ? 恥ずかしがらずに全部脱いだらいいじゃない」

 ほらほら、と面白がって服を脱がそうとする女子たちの手を振り払い、波留は校舎と反対方向に駆け出した。校庭を突っ切って学校の外へ走り出ながら、悔しさで涙がこぼれる。

 波留の記憶ではこのあとずぶ濡れのまま家に帰り、アトリエで仕事をしていた留里のところに駆け込んだはずだ。留里は波留をお風呂に入れ、そのあと学校に荷物を取りに行ってくれた。

 波留は家を目指して走っている。すれ違う人が不信な目でびしょ濡れの小学生を振り返り、ひそひそと何か話した。波留の意識はいつの間にか体から離れ、小学四年の波留の後ろ姿はぐんぐん遠ざかり、道を曲がって視界から消えると、夜次元クジラが「怖いのか」と笑った。

 いつもこうだ。留里に会いたいと思っていても会えると分かった瞬間に波留の意識は置き去りにされ、四次元散歩は何度もしているのに生きて動く留里と会えたことはまだ一度もない。

 信号機がグニャリとゆがみ、世界はあっという間にマーブル模様になった。「お父さん?」と、どこかから聞こえて波留の意識がそっちに向く。

「僕はお父さんが欲しいなんて思ったことない。那波ママ、何言ってるの?」

 自分が今どこにいるのか分かって、波留は思わずうめき声を漏らした。

 波留がいるのは一年前。あの頃住んでいた家の、手付かずのまま残していた留里のアトリエだ。部屋の隅にはソファが置かれ、本棚に収まりきらない海洋生物の資料が机の上に積み上げられ、描画作業や撮影に使われていたスペースは機材が壁際に片付けられてガランとしている。

「田辺さん、波留の父親になりたいって言ってくれてるの」

 ソファにうずくまった波留の肩に那波の手が触れたが、波留は体を揺すってその手を払いのける。

「だから?」

 この頃学校に行かなくなっていた波留は、その日誘われるまま那波の経営するヨガスタジオを訪れた。そこで生徒として来ていた田辺一季に初めて会い、「お母さんとお付き合いさせてもらってます」と握手を求められたのだった。波留は田辺が差し出した手を握り返すことなくヨガスタジオを走り出て、夜になって那波が帰って来るまでずっと留里のアトリエに閉じこもっていた。

「波留、あの人がお父さんになったら嫌? そうすれば波留も……」

「勝手にすれば!」

 波留はアトリエを飛び出して階段を駆けあがり、自分の部屋の鍵を閉めた。涙が伝う感触が頬にある。

「夜次元クジラ、僕を留里ママに会わせて」あの日の波留が叫んだ。

 夜次元クジラは口を開けて波留を飲み込み、波留はペンダントを強く握りしめ、じきに見えてきたのは最近ようやく目に馴染んだ自室の風景だった。

 床にへたり込んだ波留の目からは涙がこぼれ落ち、足に触れたコントローラーを衝動に任せて蹴り飛ばした。壁に当たってゴツンと鈍い音がする。

「夜次元クジラ、留里ママに会わせてよ」

 夜次元クジラの姿はどこにも見えず、鳴き声もしなかった。ドア越しに那波と田辺の笑い声が聞こえ、波留は自分の太ももをこぶしで打った。

「父親なんて、必要ない」

 一年前のこの一件からこっちに引っ越してくるまで、那波が田辺のことを波留の前で口にすることはなかった。波留は二人の関係がなくなったものと思い込んでいたのに、不意打ちで彼が現れたのは四月の半ば。この街は田辺の郷里なのだと那波に聞かされ、謀られたと知った。

 田辺がどんなふうに那波をたぶらかしたのか想像すると、波留は内臓がぐるぐる掻き回されるようで吐き気がする。シングルマザーは大変だろう、子どもには父親がいないとかわいそうだ。そんな言葉で那波を丸め込んだに違いなかった。

「あんな男と結婚するなんてバカだ」

 結婚や入籍の話はまだ直接してこないけれどそんな会話がリビングから漏れ聞こえてくることがあり、田辺はこの家に居ついてなし崩しに波留と親子になろうとしていた。諦めることにようやく慣れたと思っていたのに、留里のことを想うと苛立ちが抑えられない。

 いっそ、自分が消えてしまえばいいのかもしれない。そうすれば父親なんていらないのだから。


次回/20.共食い金魚

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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