夜次元クジラは金魚鉢を飲む #2
2. WIZMEE
「簡単な確認事項と、新学期からの流れをお話していきますね」
森谷は椅子に座り、「教員用」とシールの貼られたタブレットを起動してポンポンと画面を進めていく。
「前の学校での波留さんの記録を見させていただいたんですけど、お家では特に問題なく勉強できてたみたいですね」
まあ、と波留はあいまいにうなずき、それ以上何も喋らずにいると那波が会話を続けた。
「勉強は嫌いじゃないみたいなんですけど、前の学校は実技がオンラインに対応していなくて。卒業はできると言われたんですが」
「体験学習を重視してる学校の方が多いですからね。私の担当教科は美術なんですけど、同じ教室で同じ匂いを嗅ぎながら授業をしたい気持ちはあります。学校じゃないと画材に触れる機会も少なくなってるし、今のお子さんはお絵描きもクレヨンじゃなくてペンタブレットでしょう?」
「僕はペンタブじゃなかったけど」
波留がぶっきらぼうにつぶやくと、かわいげがなくて、と那波が愛想笑いを浮かべる。
「死んだ母親がVRアーティストで、この子のお絵描きはだいたいヴァーチャルだったんです。空間に指で描くことを先に覚えてしまって、保育園ではクレヨンが上手く持てなくて癇癪を起したりしたんですよ。でも、なんだか最近は紙に描くことが楽しいみたい。ね、波留」
森谷の顔がパッと輝き、「紙って、画用紙とか?」と前のめりになる。
「別に、ふつうのスケッチブック」
「何を描いてるの?」
「別に、そこらへんにあるものとか。そんなことより手続き進めないんですか、先生」
「あ、ほんとだ」
鈍感なのか、森谷は波留のそっけない態度にも嫌な顔ひとつせずタブレット画面を那波に向けた。住所や家族構成などの確認、それが終わると今度は波留の前にタブレットが置かれる。
「伊足波留さん。広至二年だから、二〇二〇年。八月一日生まれの十四歳」
森谷はそこまで読み上げて、次の項目をペンで指したままチラッと波留の顔をうかがった。画面の【女】という文字の隣にチェックがついている。
「僕は女だよ。疑わしいかもしれないけど」答えた声が尖っていた。
「波留さんが自分のこと僕っていうのは、誰かの影響?」
「別に、アタシとかワタシより違和感ないから」
「絵本の影響なんです」と那波。波留が那波の足を机の下で叩いたが、那波は笑顔のままだった。
「絵本、ですか?」
「この子の母親はVR絵本も作ってたんです。『夜次元クジラ』っていうシリーズなんですけど」
あっ、と森谷が手を打った。
「イタリ留里さんですね。私、『夜次元クジラ』持ってます。VRのはちょっと高くて手が出ないから、紙の本で。友人にVR版も見させてもらったことがあります。波留さんのお絵描きがヴァーチャルだったっていうのも納得しました。うらやましい」
興奮気味の森谷は、ハッと我に返り口に手をあてた。
「うらやましいっていうのは不適切でした。ごめんなさい。つい浮かれてしまって。こんな田舎の教師でも画家を目指した時期があったんです。デジタルアートは専門外だから方向性は違うんですけど、イタリ留里さんはパフォーマンスもスタイルもかっこ良くて憧れでした」
でした、という過去形が波留には気に食わなかったけれど、那波は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「森谷先生、『夜次元クジラ』のお話おぼえてらっしゃいますか? 波留はあの話に出てくるクジラが大好きで、よくWIZMEEを使ってクジラと話してたんです。主人公が男の子だったから、真似して自分のことを僕と言うようになって、それで」
「ウィズミーって、VRゴーグルでしたっけ?」
「ええ、クリエイター向けの」
波留は窓の外に目をやり、WIZMEEがもっと普及していたら、と想像する。そうすれば海でクジラを泳がせる楽しさがきっとみんなにもわかる。けれど、例えそうなったとしても、本物の夜次元クジラと接したときの頭の隅々まで見透かされるようなヒヤリとした怖さはきっと自分にしかわからない。
「波留さんは、今もクジラと話したりするの?」
くだけた口調の森谷に、波留はあいまいに首をかしげた。会話は森谷と那波のあいだで進み、森谷は興味深そうにフンフンと話を聞き、那波は那波で娘が居心地よく学校生活を送れるよう願ってかいつもより饒舌だった。
「波留は絵本を読むのも映画もゲームも、お絵描きもWIZMEEで。やっぱりクリエイター向けのものは機能が違うから。夏休みの絵の課題もWIZMEEで描いたんですよ。それが、なぜか去年からスケッチブックと鉛筆になったんです。なんで急にそんな気になったのって聞いてもなんとなくとしか言わないし。WIZMEEをつけてる姿も一年くらい前からほとんど見なくなって。仮想現実より現実の方が良くなったのかもしれませんけど」
「ヴァーチャルの方がマシ」波留がポツリとつぶやくと那波は苦笑した。
WIZMEEのキャラクタートーク機能をオフにし、スケッチブックと鉛筆を買ったのが去年のゴールデンウィークあたり。以来、WIZMEEを使うことが減っている。留里のアトリエでスケッチブックを開く波留に那波は首をかしげていたけれど、留里の残したラフスケッチを広げておいたらじきに何も言わなくなった。
次回/3. 四次元金魚
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