エホバの証人とキリスト教──復活信仰の中心に立ち返る
※この記事は、キリスト教の立場からエホバの証人との教理の違いについて考察するものです。なお、信教・思想の自由を尊重し、特定の信仰を持つ方々を否定する意図はありません。
はじめに
エホバの証人は世界的にも影響力を持っている宗教団体であると考えられます。日本においても、信者の数は約21万人とされており、一定の存在感を示しています。カトリック教会には約41万人、プロテスタント全体では約60万人、プロテスタント内の最大教派である日本基督教団では約16万人の信者がいるとされていることを考えると、エホバの証人は、かなり規模の大きい団体だと考えられると思います。
エホバの証人の教えにはキリスト教と重なるように見える部分もあれば、大きく異なる部分もあります。「完全に違うもの」と言い切れない部分もあるように感じています。「近さ」と「相違」が複雑に交錯していると言えるのかもしれません。
以下では、主要な教理に関してキリスト教から見て正しい点と誤っている点を整理し、歴史的背景に触れつつ、さらに信仰の実際に目を向けながら考えてみたいと思います。
正しいと考えられる点
エホバの証人の教えの中には、キリスト教の立場からも「正しい」と考えられる点があります。たとえばエホバの証人はこう語ります。
神は唯一である。
イエスは人の罪のために死なれ、復活した。(しかし身体を伴うものではなく、霊的な復活とされている点について異なるとされる。)
これらは、まさにキリスト教信仰の核心部分にあたると考えられます。三位一体の理解において大きく異なりますが、「唯一の神を信じること」と「イエスの死と復活を告白すること」は、キリスト教の本質に他ならないと考えます。復活の意味合いも異なるものの、これらの言葉自体は、正しいものと考えられると思います。
誤っていると考えられる点
しかし同時に、重大な誤りも見られます。エホバの証人はイエスを「被造物であり、父なる神とは異質の存在」と理解し、三位一体を否定します。彼らにとって「神」とは父なる神だけであり、イエスは「神に近い特別な存在」ですが、神という存在ではないのです。
この理解は、歴史的に教会が退けてきたものと言えます。特に4世紀、アレクサンドリアの司祭アリウスは「イエスは神によって造られた最初の被造物である」と説き、大きな論争を引き起こしたとされています。
歴史上の存在であるアリウス派の意味と経緯
アリウス派は当時広い支持を集め、ローマ帝国全体を揺るがすほどの大問題となったとされます。しかし325年のニカイア公会議では「御子は父と同質(ホモウシオス)である」と告白され、アリウス派は異端とされました。
これは、「救いは神ご自身によってのみ可能である」という教えを守るための決断だったとされています。もしイエスが被造物なら、私たちの罪を贖う無限の力を持つことはできないと考えます。救いは「神ご自身が人となられた」からこそ成立すると考えられているのです。
エホバの証人の主張は、このアリウス派の考え方とよく似ていると考えられます。そのため、エホバの証人の教えは「現代のアリウス派」と呼ばれることもあるそうです。
「同質」と「位格の違い」
ここで注意すべきは、「父と子が同質である」という言葉の意味だと思います。
本質(神性)においては同じ──父と子は神としての存在においては、完全に一つである。
位格(ペルソナ)においては異なる──父は父として、子は子として区別されている。
したがって「同質(ホモウシオス)」という表現は、父と子が「まったく同一」という意味ではなく、「神性を完全に共有している」ということを示すものとされています。理解が難しいと感じますが、本来は「父と子は共に真の神である」という信仰告白を守るための表現とされています。
救いの理解の違い
もう一つの違いは、救いに関する理解です。エホバの証人は「救いに至るには組織に忠実に従うことが重要である」と教えると言われています。
しかし聖書が語る救いは、あくまでキリストの贖罪と復活に基づき、それを信じる信仰によって与えられるものとされています。この教えを否定することに対しては、新約聖書の使徒パウロの手紙の中において「神の恵みが失われる」(ガラテヤ書1:8-9)という旨の厳しい警告もあり、救いを人間の造る組織への従順に結びつけることは、福音の核心から外れてしまうことだと理解されていると考えます。
日本における位置づけ
日本において、エホバの証人は精力的に活動しているように見られ、街頭展示や戸別訪問や出版物などを通じて、多くの人が一度は接点を持ったことがあるのではないでしょうか。
エホバの証人の教えの全てを肯定することはできません。しかし同時に、「唯一の神を信じ、キリストの死と復活を語っている」という点を軽視することもできないように考えています。その存在は、日本におけるキリスト教理解を考える上で一定の注目を払わざるを得ない現実があると考えているのです。
もしエホバの証人が正しかったとしたら
あえて、ここで一つ挑戦的な問いを立ててみます。もし本当にイエスが被造物であり、父なる神とは異質の存在だったとしたら、という仮定です。その立場が正しいとしたら、遅くとも1900年前には確かに始まっている(ヨハネ福音書1:1)と見られ、特に325年のニカイア公会議からすると1700年間、エホバの証人の中にある考え方を異端と見なしてきたキリスト教会は、むしろ誤っていたことになり、謝罪をするべき立場に置かれるのかもしれません。
ただし、聖書的な視点に立つ時、それが完全に明らかになるのは死後、あるいは終わりの時と言えることでしょう。人間には100%の根拠をもって「相手の信仰は完全に誤っている」と断言することはできないように考えています。これが信教の自由の根本にあると考えられ、この謙虚さを忘れないことも大切だと考えています。
人々の歩みの多様さと敬意
また、エホバの証人の方がキリストを慕い、信仰を真剣に生きようとしていること自体には敬意を払うべきことだと考えています。信仰の動機が「キリストを愛する心」にあるのなら、その思いは軽んじてはならないように思います。
実際、エホバの証人からキリスト教へ移った人々も少なくないと言われます。その中には、今現在も熱心に聖書を学び、キリストを伝えようとしている方々もいます。逆に、あえて公平のために言うならば、個人の経験で言えば、キリスト教の立場からエホバの証人に入ろうとしている人を見たこともあります。人の歩みは一方向ではなく、それぞれが真理を求める中で模索しているとも考えられると思います。
なぜキリスト教会はイエスを神と告白し続けるのか
とはいえ、教会が歴史を通じて「イエスは神である」と告白し続けてきた理由は明確とも言えるでしょう。もしイエスが被造物にすぎなければ、信じる人間全ての罪を贖う無限の力を持つことはできないものと考えられるのではないでしょうか。救いは神ご自身が人となられたからこそ可能であり、イエスの復活も神の力によって成し遂げられたと考えられているのです。
この意味で「御子イエスは父なる神と同質である」という信仰告白は、単なる言葉の意味を超えて、救いの確かさそのものを保証するものであると思われるのです。
おわりに──復活信仰の中心性と希望
エホバの証人とキリスト教の間には、近さと相違が同時に存在していると考えられると思います。重なる部分を認めつつ、譲れない部分を確認し、謙虚に対話を続けることが必要なのかもしれません。
さらに言えば、もしキリスト教徒がキリストの復活を信じないとしたら、それは、霊的な復活とは言え、エホバの証人も信じている復活を信じていないということになると考えています。そのとき、キリスト教は本来の精神を見失い、もはやエホバの証人を「キリスト教ではない」と非難する根拠すら失ってしまうのではないでしょうか。だからこそ、復活信仰こそがキリスト教徒にとって譲れない中心であり、すべての議論の出発点であり続けると考えているのです。
そしてもう一つの希望を付け加えるとするなら、もしもキリスト教徒が誠実に対話を続け、贖罪と復活の神の福音を伝えることができるなら、エホバの証人の中からもキリストへの信仰に加わる人々が現れるかもしれません。そのときにこそ、分断ではなく一致の方向へと歩み、日本のキリスト教全体がより強められる可能性があるように考えているのです。
