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「ことば」として臨在するキリスト──申命記に始まり、ローマ書に響くヨハネ的福音

信仰者も時に、信仰に疑問を抱くことがあるのではないでしょうか。
自分は救われているのか、自分の善行は足りているのか、あるいは、きちんと神に知られているのだろうか。
あるいは、周囲の人の救いはどうなっているのだろうか、と思い悩むことがあるようにも思います。

そのような疑問を抱える私たちに向けて、聖書は静かに──しかし力強く──語りかけてくるようにも思います。

その言葉は、旧約と新約のはざまを越えて、ひとつの答えに集約されていくことでしょう。それは、「誰が…?」という問いに対する、神からの応答のように思われます。


申命記30章──「ことばは近くにある」

旧約聖書の申命記の中で、モーセが民に語った言葉があります。それは、「神の戒め(ことば)は、決して遠くにはない」という言葉です。

この戒めは、あなたにとって難しすぎるものではない。
また、あなたにとって遠いものでもない。
それは天にあるのではない
──「だれが天に上り、それを取ってこようか?」と言う必要はない。
また、海の向こうにあるのでもない
──「だれが海を渡って取ってこようか?」と言う必要もない。
むしろ、ことばはあなたの口にあり、あなたの心にある。

申命記30章11–14節(意訳)

つまり、神のことばは遠くではなく、すでに手の届くところにある。
人間の努力で遠くにまで探しに行く必要はない。
神のことばは、あなたの口と心の中に。すぐ近くにある。
以上のような意味合いのように思われます。

この旧約聖書の教えについて、新約聖書のパウロはさらに大きなスケールで受け止めています。


ローマ信徒への手紙──「ことばはあなたの口と心にある」

この申命記の言葉を、パウロは取り上げ、信仰による義の核心として語ります。しかし、申命記の言葉をそのままではなく、大胆に再解釈しているのです。

「誰が天に昇るのか?」
──それはキリストを引き下ろすことです。
「誰が深淵に下るのか?」
──それはキリストを死者の中から引き上げることです。
ことばはあなたの口にあり、あなたの心にある。
それが、私たちが宣べ伝えている信仰のことばです。

ローマ信徒への手紙10章6–8節(意訳)

ここで、パウロは申命記の言葉を、福音そのものの象徴として読み替えています。

改めて、キリストが天に昇る必要はない。
改めて、キリストが深淵(冥府)に下る必要もない。
キリストはすでに来られ、すでに復活された。

つまり──
救いは、もう与えられている。
今、私たちはそれを「受け取る」ことが求められている。


「誰が」という問いは、すべての人の問い

注目すべきは、パウロがここで「イエス」や「キリスト」という名を用いず、あえて「誰が」と疑問の形で語っていることのように思われます。

この「誰が」は、反語表現であると同時に、人間のすべての立場を考慮するような言葉でもあるように感じられるのです。

  • 神による救いを求める者の疑問:「誰が神に救われるのか?」

  • 善行者の不安:「誰が義とされるのか?私は足りているのか?」

  • 信じていない者の懐疑:「救いなんて、誰がもたらすのか?」

  • 知らないとされる者の探求:「誰が、何をしてくれるのか?」

  • 傷ついた者の叫び:「誰が私を見てくれているのか?」

  • 哀れみ深い者の祈り:「誰があの人を救ってくれるのか?」

このように、「誰が」という問いは、あらゆる人の魂の中にある叫びのようにも思われます。

しかしパウロは、その問いに対してこう答えます。


問うよりも、受け取りなさい──すでに来られた方がいる

その方は、もう来られた。
その方は、すでに復活された。

その方こそ、キリスト。
だからもう、探し回る必要はない。
救いはあなたの目の前にあり、手の届くところにある。
それはあなたの口に、あなたの心にある。

この「ことば」とは、福音の言葉──
「イエスは主である」と告白し、「神がキリストを復活させた」と信じる、その信仰の言葉。(ローマ信徒への手紙10章9節)


しかし「ことば」は、もっと深い意味を含んでいるかもしれない

ここで、ふと思い出す言葉があります。
ヨハネによる福音書の冒頭にあるものです。

初めにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。
そして、ことばは肉となって、私たちの間に宿られた。

ヨハネによる福音書1:1,14(意訳)

ヨハネによる福音書においては、「ことば(ロゴス)」とは、キリストご自身のこととされます。

神の言葉は、教えや戒めだけではなく、人として、命として、現れてくださったとされるのです。

そう考えると、パウロの「ことばはあなたの口にあり、心にある」という宣言も──
「福音の内容」というだけでなく、キリストご自身が、あなたの口と心の中に臨もうとしておられるというようにも理解できるのではないでしょうか。


キリストは、あなたのそばに、あなたのうちに

使徒パウロとヨハネによる福音書によるならば、
信仰のことば──それは、キリストについて語る言葉であり、
同時に、キリストの臨在そのものでもあるでしょう。

もはや、誰かが天に昇る必要はない。
誰かが深淵に下る必要もない。

キリストは、来てくださった。復活された。
そして今、あなたの口に、あなたの心に、宿ってくださる。


万人に対する福音

この言葉は、信者だけのものではないようにも思います。
信じていない人にも、信じたいけれど分からない人にも、疑問を抱える人にも届く可能性を感じます。

「誰が神によって救われるのか?」
その問いを抱えることはあるでしょう。
しかし、その問いには、すでに神のことばから、こう答えが来ています。

わたしは、あなたのそばにいる。あなたの口と心に、わたしはいる。

申命記30章14節(意訳:ヨハネ福音書1章の理解を通して)

結びに──

聖書を通して理解される神の救いは、誰か人間の手柄でもなく、すでに世界に差し出された普遍の福音のように思われます。

そしてその福音とは──キリストそのものであるのでしょう。


「ことばは、あなたの口にあり、あなたの心にある。」
それが、私たちが宣べ伝えている信仰のことばです。

ローマ信徒への手紙10章8節(意訳)

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