50代で失業。キャリアを手放した「一瞬の後悔」と、ふと軽くなった心
高幡不動尊の境内は、冬の冷気と春の予感が静かにせめぎ合っていました。参道を歩くと、どこからか流れてくる梅の甘い香りが、鼻腔をくすぐります。その香りに触れた瞬間、張り詰めていた胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、それでいて少しだけ解けていくような、不思議な感覚に包まれました。
会社という居場所を離れて、今日でちょうど二週間。 「50代ならもう動じないはず」という根拠のない思い込みは、あっけなく崩れ去りました。朝、理由もなく涙がこぼれそうになったり、更年期特有の身体の重だるさに横になったまま動けなくなったり。残業も厭わずフル稼働だったあの頃が嘘のように、今は明日の予定さえ決められずに、ただ漂っています。
積み上げたキャリアを手放した「一瞬の後悔」と向き合う
そんな時、不意に胸を刺すのが「一瞬の後悔」です。 適応障害の原因となったあの場所から離れ、別の部署で再起を図る道もあったのではないか。50歳という、世間的には「守り」に入るべき年齢で、積み上げてきた専門知識という看板を一度下ろしてしまったことへの、言葉にならない恐怖。その恐怖が、ふとした瞬間に「もし、あの時……」という形を変えて、私を揺さぶりに来ます。
けれど、今の私には、あの嵐のような日々を再び生き抜く力は残っていませんでした。組織の中で無理に「修復」されることを選ばず、あえて「空白」を選んだのは、私の心がこれ以上壊れないための、最後にして最大の防衛本能だったのだと感じています。

不安定な心身のまま、高幡不動の梅の香りに救われて
不思議なことに、将来の不安は尽きないし、今も悩みの中にいるはずなのに、心はかつてないほど「軽さ」を感じています。 それは、組織の論理ではなく、私自身の命の重さを優先して「空白」を選んだという、あの時の自分の決断を、少しずつ肯定し始めているからかもしれません。
「足るを知る」。 その言葉を、今の私は「無理に前を向かなくていい」と解釈しています。自分らしく生きるために一歩を踏み出そうとする微かな野心も、一方っで何もしたくないと嘆く弱さも。そのすべてが今の私の「足る」ものなのです。

50代の再出発は、迷いさえも人生の彩りに変えていく
焦らなくてもいい。不安定で、未完成な50代のままでいい。 高幡の空は、迷いの中にいる私のことも、等身大のまま優しく包み込んでくれているように見えました。この二週間の空白は、決して停滞ではありません。凍った地面の下で梅が静かに根を伸ばすように、私という人間が再編成されるために必要な、切実な「凪」の時間だったのです。
後悔さえも曼荼羅(まんだら)の模様の一部として、私はまた一歩、自分の速度で、この「散歩道」を歩き出そうと思います。
