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霧 【幻想小説/ホラー小説】

1. 霧

霧が出ると、この街では記憶が薄れていく。

朝、駅前の通りが白く閉ざされているのは、この街では珍しくない。少し冷たく、少し湿っている。ただ、その中に長くいると、呼び止めようとした相手の名前が、舌の上で溶けていく。知っているはずなのに、思い出せない。声に出す前に、消えてしまう。いつから始まった現象なのかは記憶していない。

街角の掲示板には、行方不明者の名前が貼ってある。その中に、何度も現れる名前があった。
サンチョ・パンサ。

聞いたことがある。確かに知っている。だが、それが誰だったのか、思い出そうとすると、霧が一段階、濃くなる。

霧は、何かを覚えているようだった。

歩いていると、前方に人影が見えた。距離は測れない。進んでいる感覚はあるのに、近づいているという確信がない。ただ、間にある白さだけが、同じ濃さのまま揺れていた。

男のようだった。
背は高くも低くもない。外套の裾が揺れ、馬か、荷車のようなものを引いていたが、確かめる前に、霧がかたちを崩す。

すれ違う瞬間、男は顔を上げた。
ひげを伸ばしていた。無精というより、手入れを忘れた時間そのものが顔に沁みついているようだった。目が合った気がしたが、視線は焦点を結ばない。

「……戻ってきたぞ」

声が聞こえたのか、そう思っただけなのか、はっきりしない。次の瞬間、男の姿は霧に溶け、通りには何も残っていなかった。

だが、その名前だけが、あとに残った。
サンチョ・パンサ。

私はその名を口の中で転がしたが、五秒後には、もう思い出せなくなっていた。

2. 掲示板

霧の出る朝が続いた。
それに合わせるように、駅前の掲示板の紙が増えていった。

最初は、誰かが貼り替えたのだと思った。だが、よく見ると、上から重ねられているだけだった。古い紙は剥がされず、そのまま残され、新しい名前がその上に留められている。画鋲の数だけが増え、板は少しずつ歪んでいった。

名前は、似た書体で印刷されている。年齢と服装、最後に目撃された場所。形式はどれも同じだ。違うのは日付だけで、それも霧の濃い日には、ひとまとめに記されていた。

立ち止まって読む人は少ない。通勤客は掲示板を避けるように歩き、対向する者にぶつかっても、目を合わさずに通り過ぎる。

掲示板の端に、また同じ名前を見つけた。
サンチョ・パンサ。

聞いたことがある。知っていたような気がする。だが、それが誰だったのか、思い出そうとすると、霧がますます濃くなる。

掲示板の更新は、決まった時間に行われるようになった。

朝の霧が引きはじめる頃、紙は増えている。新しい画鋲が打たれ、角が少しだけ揃え直されている。誰も見た者はいないが、作業は欠かさずに行われている。霧の日には枚数が多く、晴れた日は少ない。

同じ名前が並ぶこともある。訂正はされない。問い合わせ先は書かれているが、連絡を取ったという話を聞いたことがない。掲示板は、知らせるためというより、残しておくためのもののように見えた。

人々は足を止めなくなった。
掲示板の前を通るときだけ、歩幅がわずかに変わる。視線を上げる者もいれば、逆に足元を見る者もいる。

数を数えようとして、やめた。
昨日より増えていることはわかるが、いくつ増えたのかはわからない。途中で、数えている理由を忘れてしまう。

掲示板の端に、また同じ名前があった。
サンチョ・パンサ。

私はそれを見て、胸の奥に、軽い引っかかりを覚えた。だが、その感覚が何に由来するのか、言葉にする前に、霧が街を包み直した。

3. 近づく

霧の出ない朝があった。
街はいつもより静かだった。

駅前の掲示板を見に行く理由は、もうなかった。名前を確かめても、確かめなくても、同じことだった。私は通勤路を変え、掲示板の前を通らないようにした。

それでも、名前は近づいてきた。

職場で、書類に目を通していると、見覚えのある綴りが視界の端に引っかかる。視線を動かすと、そこには別の単語が並んでいる。勘違いだと思うことにした。だが、同じことが何度か続いた。

昼休み、同僚の顔を見て、名前が出てこなかった。
声をかけるまでに、ほんの一拍、間が空いた。

「……お疲れさまです」

それで済んだ。相手は何も気にしない様子だった。だが、その瞬間、胸の奥で、何かが剥がれ落ちる音が聞こえた。

帰り道、霧が出はじめていた。
朝よりも、低い位置に溜まっている。

私は歩きながら、自分の名前を思い出そうとした。
声に出さず、頭の中でなぞるだけだ。何度も呼ばれてきたはずの名前。書類にも、免許証にも書かれている。

だが、最初の一音が出てこなかった。

立ち止まると、霧が足元を包み込む。遠くで、誰かがこちらを呼んだような気がしたが、振り返っても通りには誰もいなかった。

霧の中を歩いていると、距離の感覚が狂う。数歩進んだつもりが、同じ場所に戻っていることがある。逆に、振り返った瞬間、背後がひどく遠くなっていることもあった。

交差点で立ち止まり、信号を待った。
赤が青に変わる。だが、足がすぐには動かなかった。ここを渡ってよかったのか、確信が持てなかった。向こう側に、用事があったはずなのに、それが何だったのか思い出せない。

ポケットの中で、鍵が触れ合う音がした。
私はそれを確かめるように取り出し、一本ずつ並べた。自宅の鍵、職場の鍵、用途のわからない小さな鍵。どれも見覚えはある。だが、どの扉に使うものだったか、即座には思い出せなかった。

霧の向こうで、人影が動いた。

立ち止まると、影も止まる。
歩き出すと、同じ速度で、こちらに近づいてくるように見えた。

「……誰ですか」

声に出したつもりだった。だが、霧に吸われて、音にならなかった気がする。

影は、はっきりとした輪郭を持たなかった。
外套のようなものが揺れ、何かを引きずっているようにも見える。
距離は縮まらない。ただ、視界の中に、長く留まり続けている。

そのとき、胸の奥で、あの引っかかりが、はっきりした形を持った。

掲示板の端に、何度も書かれていた名前。
何度見ても、思い出せなかった名前。

サンチョ・パンサ。

私はその名を、声に出そうとした。
だが、口を開いた瞬間、霧が一段、冷たくなった。

言葉が、途中でほどける。音になる前に、意味が抜け落ちる。
影が、わずかに首を傾けた気がした。

次の瞬間、霧が流れ、通りの向こう側が見えた。人影は消えていた。
私は立ち尽くし、自分がどこから来たのかを考えた。

4. 名前

霧の出る朝だった。
前日よりも、少しだけ薄い。視界は白く濁っているが、建物の輪郭は判別できる。その程度の霧だった。

気づくと、私は駅前に立っていた。
通勤路を変えたはずなのに、足が自然と動いた。意識する前に、体がここへ来ていた。

掲示板の前には、数人が立っていた。
誰も声を出さない。紙を読むというより、視線を一度、上に置き、それから外しているだけだった。

私は少し離れた場所から、掲示板を見た。
紙の枚数は、さらに増えている。画鋲の色が揃わなくなり、板の中央がわずかに反っている。
近づく理由はなかった。だが、足が向かっていた。

端から順に、視線を滑らせる。
名前、年齢、服装、最後に目撃された場所。
どれも、もう特別な意味を持たない情報だった。

途中で、視線が止まった。
紙の中央より、少し下。
角が、ほかより丁寧に揃えられている。

そこに書かれていた名前を、私はすぐには読めなかった。
文字ははっきりしている。印刷も鮮明だ。だが、意味が立ち上がらない。

一音ずつ、頭の中でなぞる。
それは、私が何度も呼ばれてきたはずの名前だった。

胸の奥で、何かが静かに外れた。
恐怖ではなかった。納得に近い感覚だった。

私は掲示板から一歩、下がった。
周囲の人間は、誰一人、こちらを見ていない。誰も、私に気づいていない。

霧が、足元から這い上がってくる。
白の中で、掲示板の紙が、少しだけ揺れた。

その瞬間、私は理解した。
名前は、消えるのではない。移動するのだ。

霧が引く頃、掲示板の前には誰もいなかった。
私も、そこにはいなかった。

5. 従者

霧の出る朝、私は掲示板の前に立っていた。

紙の重なり具合で、だいたいの枚数はわかる。画鋲の位置も、昨日と少し違っている。誰かが整えたのだ。私だったのかどうかはわからない。だが、やり方は知っている。

名前を読む必要はなかった。
それでも、端から順に視線を滑らせる癖は残っている。残る、という言い方が正しいのかどうかはわからない。

霧は低く、足元に溜まっていた。通りの向こうで、人が立ち止まり、また歩き出す。その動きが、どこか遅れて見える。

私は外套の裾を直し、引いているものの重さを確かめた。
前に進むには、これくらいがちょうどいい。

名前は、すでに引き継がれている。

掲示板の中央に、新しい紙が一枚、増えていた。
まだ角が揃っていない。画鋲も、仮留めのままだ。

私はそれを整え、上から静かに留め直す。
紙の端に指が触れたとき、かすかな抵抗があった。紙ではなく、記憶の層だ。厚みは、思っていたよりも薄い。

名前を読む。
自分のものではない。だが、そう断言できる理由もない。

以前は、こういうとき、胸の奥に引っかかりがあった。
今はない。代わりに、手順がある。

掲示板から離れ、通りを歩く。
霧は動かない。ただ、そこにある。

角を曲がると、人影がひとつ、立ち止まっていた。
こちらを見ているようで、見ていない。声をかけるべきか、考えている顔だ。

私は何も言わない。
近づき、すれ違い、通り過ぎる。

その瞬間、相手の動きがわずかに遅れた。
胸の奥で、何かが剥がれ落ちる音がした。私のものではない。

振り返らない。
役目は、向こう側に残すものだ。

霧の向こうで、誰かが自分の名前を思い出そうとしている。
五秒もあれば、十分だ。

私は歩く。この街を離れるわけではない。ただ、次の場所へ向かう。

掲示板は、また更新される。
霧の濃い朝に。
誰も見ていない時間に。

それでいい。

私の名は、しばらくのあいだ、そこに残るだろう。
やがて、別の名がそれを覆う。

霧は、何も奪わない。
ただ、覚えているだけだ。

そして私は、それを運ぶ。


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