保育園帰りの居酒屋、淀みと暮らすための小さな背徳。
会社を出るのが遅れて、保育園に遅れる旨の電話をかけて電車に飛び乗る。
18時半を少しすぎた頃、わたしは最寄駅の保育園の扉を叩いた。長いつるつるの渡り廊下を、忍びのようにすり足で歩き抜けると、1番奥の延長保育で使われている年長さんの部屋を覗き込んだ。
「あ、お帰りなさい!」
保育士さんのカラッと明るい声が、誰もいない廊下にキーンと鳴り響いた。軽く会釈すると身を翻し、わたしの息子に「お迎えだよー」と優しく呼びかけた。
目線を部屋の中にやると、肝心の息子はなんてことない様子で数人のお友達と一緒に黙々とおやつを食べていた。今日は延長保育の予約をしていたわけではなかったので、予備と思われるおやつのおこぼれだろう。
普段なら飛んでくるくせに、食べ物がある場合は食べ切るまで全く席を立とうとしないのは完全にわたし譲りであった。
おやつが食べ終わると、彼はニコニコの笑顔とともに叫びながらわたしの股の間に飛び込んできた。曇りのない、澄んだ瞳にバチリと目が合う。
わたしと違って、今だけを生きている目だった。
保育士さんに挨拶をして園を出ると、近くの団地に住んでいると思われる灰がかった野良猫がこちらをジッと睨み付けていた。わたしと目が合うと、煙のように草むらに姿を消した。息子は大興奮で追いかけたが、わたしは1人その場に立ち尽くしたままだった。
自分の中から湧き出る殺気のような「何か」を、その灰猫に見抜かれたような気がした。
保育園帰りの居酒屋
その日、なんとなくそのまま家に帰りたくないと思った。
息子を連れてでも、なんとか5分以内に冷たいビールを喉に浴びせまくりたいと直感的に思った。そして今日は、それを、どうも先送りしてはいけない気がした。
わたしは息子を連れて、保育園からほど近い居酒屋に、吸い込まれるように入った。かれこれ住んで5年目にもなる街の、まだ入ったことのない昔ながらな居酒屋だ。
まだ時刻は18:30を過ぎたところ。店内にはキンミヤボトルで割り物を楽しむ、穏やかそうな中年の男性が1人いるだけだった。
わたしは席に座り、考えることを止め、とりあえずの生ビールと息子のオレンジジュースを頼んだ。息子のオレンジジュースも、わたしと同じ大きいビールジョッキで席に運ばれてきた。2歳児のジョッキと、34歳のジョッキ。
何とも、アホらしい光景であった。
おもむろにグラスを手に取り、息子がつい最近覚えた「かんぱーい」という掛け声と共にグラスを打ち鳴らし、ビールを一気に喉に流し込んだ。空腹の胃に、焼けるような熱が走り抜けた。後頭部を後ろの壁にゴチンと打ち付けると、天井を仰いだ。
ザマアミロと、頭の中で言葉がこぼれた。
淀みと暮らすこと
その暴言が何に対してなのか、誰に対してなのか、自分でもよくわからなかった。実際、わかりやすい固有の対象はいない。
日々の中の小さな違和感とか、苛立ちとか、不甲斐なさとか。そういう細かいゴミの蓄積の果てに出てくる総合的な癇癪なのであろう。そうした時にわたしはこうやって謎に居酒屋に駆け込んだりする。
最近気づいたのだが、ふつうに生きているだけで不思議と「淀み」は溜まるものらしい。
夫が不倫しているわけでも、万年ワンオペ育児な訳でも、職場でいびってくる上司や部下がいるわけでもないのに。借金もないし、大きな病気もない。そんな大した不自由もない日々を送っていると思われるのに。
どうしてこうも淀みが溜まるものなのか。自分でも皆目見当がつかないから一層タチが悪い。
ひょっとすると、いわゆるエアコンの詰まりに詰まったフィルターとか、洗面所に絡み付いた髪の毛のようなものなのかもしれない。暮らしているだけで、ただ生きているだけで、部屋は少しずつ汚れていく。手入れを怠っていれば、たぶん誰でも。
それにしても、30を超えてくると徐々に鬱憤を晴らす方法に工夫を凝らす必要が出てくる気がする。
ドカ食いすると胃がもたれて気分が悪くなるし、酒を煽りすぎると二日酔いで数日ダメになるので無意識にセーブしてしまう。今更タバコを吸う気にはなれないし(根本的に味が苦手だし)、ボーイズバーやらホストやら(そもそも行ったことすらないが)当たり障りのない話の相手になってくれるほぼ他人に大きな金を払う気にもなれない。
気を抜くと、地味に八方塞がりであることに気がつく。
20代まではもっと短絡的で、わかりやすいストレス発散方法があった気がする。大量に酒を飲むとか、ビビッときた派手服を買うとか、仲の良い友人と旅行に行くとかで十分対応できていた。そもそも仕事自体も、調子のいい時は案外気晴らしの側面すらあった気がする。
しかし、人生を徐々に重ねていくとそれらの効用が明らかに鈍ってくるのを感じる。
単にわたしが飽き性なだけなのかもしれないが、世間一般的なストレス解消はあまり意味がなくなってきた。すでにやったことだったり、結果が見えていたり、変にメタな視点が入ってきて虚しくなったり、費用対効果を鑑みると面白みがないと天邪鬼に思ってしまうことが多い。
そんなニヒリズムの荒波を超えて、近頃わたしの中で密かなストレス発散方法として確立されつつあるのがこの「小さな背徳行為」なのである。
小さな背徳のススメ
仕事帰りに息子を連れて居酒屋で食事をする、街の隅でベイプを咥えて煙を燻らせる。当てもなく夜の街を歩いて、見つけたその街の銭湯に入る。平日なのに家で2缶も飲酒して、最後にお風呂で炭酸水をキメる。
そういう自分にとっての「小さな背徳」を、とにかくスピーディーに実現する。
周りからしたら全くもって子供の遊びのように見えるだろうが、どれも今のわたしにとっては物凄い背徳感がある行為である。脳から興奮作用のあるホルモンがドバドバ放出される感じがするし、何よりこの思いつきをその日その瞬間に、そのまま実行した時の高揚感は筆舌に尽くしがたい。
大人になると、少しずつ「思いつき」に手をつける気力が減っていく気がする。
出しかけた手を引っ込めるたびに、そんな腰の重い自分に辟易して勝手に落ち込んだりもする。そういう何気ないセルフ自傷へのささやかな抵抗運動として、わたしはこの「小さな背徳」に勤しんでいるのかもしれない。
素行の悪い友人のノリに秒で「いいぜ」と返すように。舐めんなよ、とあえて口を悪くして。
そういう素のクソ餓鬼みたいな自分が顔を出してくると、わたしの中の淀みは知らないうちに希釈され、排水溝にベシャベシャと流れ落ちていく。どれも根本治療ではないのだろうが、そもそもの根本自体が見当たらないし、複雑で捉えようがないない。なので、わたしにはこういう日々の荒療治が必要十分なのだと思う。
頼んだ焼きそばと山盛りのポテトが届くと、息子は目を輝かせて口へ運んだ。小さな口の周りは一瞬でケチャップまみれになった。わたしは彼の嬉しそうな顔を酒のつまみに、リュックにしまい込んでいたヨレかけの文庫本を手に取った。酔いかけているので文字が目の上を滑ったが、おかまいなしにページをめくった。
気がつくと夜はふけ、その日は2時間ほどその居酒屋で時間を過ごした。
そそくさと会計を済ませると、わたしは上機嫌で息子を抱え、鼻歌を歌いながら家路についた。彼も謎に乗り気になって、一緒になって大合唱を始めた。不審者として通報されないかと一瞬脳裏をよぎったが、それはそれで面白いから良いかと考えるのをやめた。
今日は最悪で、最低で、最高の夜だった。
わたしはポカポカの息子を抱えながら、もう一度「ザマアミロ」と頭の中で暴言を吐き捨てて、長い夜の闇に身を預けるのだった。
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言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃