巳 歌舞伎座 『義経千本桜』Aプロ 「渡海屋」「大物浦」「木の実」「小金吾討死」「すし屋」<白梅の芝居見物記>
政争からの解脱と救い
本年三月より歌舞伎座において、松竹創業百三十周年の特別企画として三大名作(『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』)が通しで上演されてきました。
今月はその最後を飾る『義経千本桜』の通しで劇場が大変賑わっています。
初段の堀川御所などを省いていますし、通しでなくとも二、三、四段目とも見取り狂言として確たる地位を気付いている作品です。
昭和の「モーレツ」の時代を象徴するような澤瀉屋によるエネルギッシュな通し上演を堪能してきた者にとって、あらためて本作を「古典歌舞伎」として通しで上演する意味が実際には見いだせないでいました。
夏バテからまだ立ち直れず、久々に1日中劇場にいる選択をしたことに当初は後悔の念もあったのですが‥。
拝見し終わってみれば古典を通し上演することの意味を感じないではいらえませんでした。
三大名作の中で本作が最もよく出来た作品である考える方がおられます。
本作を語るときに「ファンタジー」という言葉を使う方もいらっしゃいます。
権力闘争における勝者ではなく敗者にスポットが当てられた本作ですが、四段目から五段目にかけて心温まりつつ大団円に向かう構成は、確かに見物にとっては喜ばしい感覚で打ち出されることは確かであることを実感しました。
中堅を柱にベテラン勢が脇をしっかりかためてはいるのですが、先の二作品よりさらに若手中心の座組で、若手勉強会のような趣もあり、当初はどんなものかとも思いました。
しかし蓋を開けてみれば、作品自体の底力に助けられ、先人達が積み上げてきた型をしっかり学ぶことが出来る場面の連続ということも奏功しているのだと思います。
古典に取組むお一人お一人の思い入れの強さと相まって充実した舞台を拝見することが出来ました。
渡海屋
こうした場は若手にはまだ荷が重い部分がありますが、中堅どころがしっかりと舞台を支えます。
幕開きから細部にまでしっかり目が行き届いていることが伝わる舞台でした。
脇の方々も張り合いをもって出番は少なくともそれぞれの役所をしっかりとつとめているのが伝わってきました。
脇に至るまでの役者の芝居が如何にいい作品を作り出すためには欠かせないものか。
そうしたことを実感させられる舞台でした。
今回は、片岡孝太郎丈が存在感を発揮していました。
欲を言えばお柳としての芝居がさらに大きな見せ場となるような芸の工夫を望みたいところですが‥
孝太郎丈の典侍の局はこの役がどれだけ本作において大切な役所であるかを再確認させていただけるものでした。
大物浦に続く幼い安徳帝の言動を導き出すような、どのようにこの幼子を育ててきた乳母であるのか。
本作における立女方の役所として如何にこの役が大切なポジションにあるのか、そうしたことを教えて下さる舞台でした。
惜しむらくは、為所のない伏し目がちに舞台に存在している時に立女方というにはあまりにもこじんまりと人物として小さく見えてしまうところがとても気になりました。
例えば今回の「すし屋」において、中村魁春丈の園生の前は下々のあつらえで他の役者の邪魔にならないように座っているだけであっても維盛の正妻としての格はしっかりと感じさせられます。
もう少し経験を積み上げなければならないのか、役としての性根の持ち方にまだムラがあるのか私にはわかりませんが、今後に期待したく思います。
尾上松緑丈の丹蔵、坂東亀蔵丈の相模。ベテランの味わいで見せる方向性に挑むのではなく、若い銀平役者に負けじと若々しさで勝負している姿が微笑ましくもあります。
大物浦
中村隼人丈の知盛が若者ならではの真摯で熱のこもった芝居で魅せます。
片岡仁左衛門丈の作り上げてきた「知盛」を演じ継いでいこうという一途な姿勢が舞台の充実につながっていることは間違いないでしょう。
修羅道にもがき苦しみながら恨みを抱いて散っていこうとする知盛が、安徳帝の一言で解脱し深い水底に沈んでいく姿。
そのドラマティックな武人としての潔い最期が見物の心にしみじみと伝わってくる。
非常に説得力のある丁寧な芝居が展開されます。
歌舞伎座の広い間口をいっぱいに使うのではなく義経も安徳帝も典侍の局もいつもより知盛にかなり近づけての芝居となっています。
人と人との間に生まれる思いがより鮮明に浮かび上がってくる演出であることは間違いないように思います。
本作の物語性がより強調されて大変心に響いてきました。
坂東巳之助丈の義経が台詞がさえすっきりとしたたたずまいに品格があります。
鳥居前から四の切につながる流離の貴公子として、緊張感をもった芝居で本作のタイトルに相応しい存在感がありました。
長男の守田緒兜君が初お目見えで、安徳帝をつとめています。
初お目見えでこの大役ですが、渡海屋も含めしっかりとした芝居で重要な役所を演じきっている姿は頼もしい限りです。
四天王の大谷桂三丈、中村吉之丞丈、市川男寅丈、中村玉太郎丈が舞台にいい緊張感をもたらしています。
中村橋之助丈の舞台に大きさが増し男臭さがお父様の路線を感じさせるようになってきていて今後がさらに楽しみです。
ただ、幕切れの引っ込みで法螺貝を吹き知盛の霊を鎮める重要な役所を担うのですが‥。感動的な舞台の幕切れとしては‥。まだ慣れておらず仕方ないかと思ったのですが‥。劇場を後にする見物の中に非常に怒っている方がおられました。やはり、感動的な舞台の幕切れにその雰囲気を壊されてはたまらないという見物の思いを代弁する必要はあるでしょう。ご自分できちんと吹けないのであれば黒御簾からの援護を頼んだ方がいいように思われます。
木の実
尾上松緑丈のいがみの権太。
音羽屋型ですがお祖父様とも七代目尾上菊五郎丈ともちがう、江戸前でありながらスッキリというより苦み走った男臭さのある権太が松緑丈の持ち味でしょう。その苦みという点ではお祖父様ではなくむしろお父様に似ているように私には感じられます。
先輩役者に似ているとか似ていないとかということは、芝居のドラマ性としてはどうでもいいように感じられるかもしれません‥
ただ、江戸前の芝居ではまずその役者の色合いを楽しむということが優先されてきたように私は思います。
そういう点で、松緑丈にしか出せない男臭い江戸前の権太に磨きをかけていくことが江戸前のやり方であり魅力でもあると私には思われます。
小せんを中村種之助丈がつとめます。種之助丈は何をやっても無難にこなして来ますが‥。権太を骨抜きにしてしまうような色町にいた女性としての色を望むのは酷でしょうか。
小金吾討死
女方としての道をひたすら歩んで来たであろう坂東新悟丈が、若衆の役どころに苦戦していらっしゃるようです。
例えば音羽屋のように兼ねる役者として違和感なく女形も若衆や二枚目の役も自然に演じておられるので、若衆としての身のこなしが女方のそれとは根本的に違うものであることに、恥ずかしながら今更実感させられました。
新悟丈は非常にさっぱりとした嫌みがなく芯のある役どころに持ち味や魅力が出る役者さんのように私には感じられます。
女方から路線変更をする必要もないと思いますが、まだ若いのですから歌舞伎役者としての技術を幅広く習得することにも貪欲であって欲しいとの期待が役を割り振る側にもあるのだろうと思います。
「色」が前面に出てこない清潔感のある若衆が他の役者さんにはない一つの魅力となっていく個性の持ち主であることは間違いないかと思います。
すし屋
すし屋でまず印象に残ったのが、中村萬壽丈の弥助実は維盛です。
世話がかった弥助から時代の維盛に性根が変わるところが鮮やかです。
ベテランの芸の充実の一方で、十代の尾上左近丈と並んでも違和感が出ないのが歌舞伎役者の不思議で今更ながら驚かされます。
左近丈のお里は「時分の花」というものは確かにあるのだと思わせる魅力があります。
芸の巧拙ではなく初々しい女形の魅力というものが確かにあるのだということ。それは大ベテランの先輩方の中にあっても引けを取らない魅力があるということを実感しました。
すし屋の権太の死に関して捉え方に関しては、昨年夏、仁左衛門丈の大阪松竹座公演の感想を書いた際、詳細に書かせて頂きました。
松緑丈の権太の死に関しての捉え方とかなり違う視点かと思います。
また、松緑丈は愛情深い権太を描き出します。
父に認められたいというより、母にわかって欲しい息子の姿が印象的です。
松緑丈の物事の捉え方として我が子を犠牲にする役どころにどこか納得し切れていない部分があるのではないかと、私などは推察します。
そこで今回は、この三段目が心の曇るだけの芝居ではない、権太の妻子は悲劇的な最期を迎えていないであろうという、仮説に言及してみたいと思います。
『義経千本桜』は「義経記」の正解を扱っていますが、歴史上の源義経の物語とはなっていません。
それは本作の大序でしっかりと暗示させられています。
「八十一代の安徳帝。八島の波に沈み給へば。‥」
歴史上の安徳帝は「壇ノ浦」で入水したのであり、また、都落ちする歴史上の義経は九州へは下っていません。
ここでは詳細に踏み込みませんが、安徳帝を連れ九州へ義経が落ちる設定にしてあるのは本作が歴史的事件の何を暗示しようとしているかに大きく関わります。
正史では語られない歴史の裏側が暗示されているのです。
人形浄瑠璃や歌舞伎等の近世演劇は、もっぱら天下統一の過程で起こったことが物語られる作品群と言えます。
歴史上の源頼朝であれば、権太の妻子は当然処刑されると捉えても不思議ではありません。
しかし、近世演劇における頼朝はこの妻子を身代わりとして処刑することはないであろうという暗黙の了解の上に、物語は成り立っていたであろうと私は考えます。
江戸時代に日本社会に深く根を下ろした「放生会」
それは天下統一の過程で大切にされた考え方が一般庶民にまで浸透していったことの表れであったろうと私は思います。
「討っては討たれ、討たれては討つ」を繰り返す、そんな争いを止めるための手立てとして使われた知恵であったろうと私は考えます。
善政を施した平重盛の子である維盛の命を守ろうとする親の忠義を全うさせるために働いた権太の行いや、妻子の献身は、顕彰されこそすれ、犠牲をよしとする考え方にはつながらないでしょう。
それが近世における一般庶民の自然な感覚だと思います。
あぶれ者として終える人生ではなく、妻子にとって誇るべき夫であり父の生き方として後世に「物語」られていく。
それは現代にあっても同じ思いで物語られていくものであると私には思われます。
萬壽丈をはじめ、魁春丈、市村橘太郎丈、中村又五郎丈、市川齊入丈がというベテラン勢が舞台を盛り立てています。
2025.10.5
