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巳 国立劇場 六月 歌舞伎鑑賞教室『土屋主税』―忠と義と風流― <白梅の芝居見物記>

 近代的歌舞伎『土屋主税(ツチヤチカラ)』

 東京ではあまり上演機会がない演目です。
 私も久々に拝見しました。
 今回、歌舞伎鑑賞教室ということで、演目と非常によく連動した「歌舞伎の見方」が付いていることにより、作品への考察をより深められ、大変充実した見物をすることが出来ました。

 『土屋主税』は初代中村鴈治郎(安政7<1860>-昭和10<1935>)が自身の当たり役とした作品「玩辞楼十二曲」の一つです。

 近年、林又一郎氏旧蔵のフィルムで初代中村鴈治郎丈のいくつかの作品の断片を見る機会があり、その近代的感覚を有した芝居に初めて触れることが出来てはいました。
 今回、初代が如何に近代的感覚の上に芝居をしていたのかを改めて再認識することとなりました。

 明治10年代後半演劇改良運動に加わり、明治19年には大阪演劇改良会さえ組織していたということを、今回初めて知りました。
 初代鴈治郎というと、古風な上方歌舞伎の味わいで魅せる役者であると漠然と思っていたので、認識が大きく変わりました。

 本興行では初代の曾孫である中村扇雀丈が主税をつとめています。
 主税だけがクローズアップされるのではなく、一幕二場の登場人物すべてが作品の重要な要素を担っている芝居であることを実感しました。
 似たような題材である『松浦の太鼓』のように役者の芸や魅力がもっぱら見所になっている作品とは違い、作品の屋台骨に近代的テーマをしっかり据えた作品であることを今回の公演によって気付かされました。

 社会劇としての側面を持ちながら、この芝居の本当の面白さはその作品テーマがある意味でかすんでしまうくらい、主税や其角を中心に演じる役者の上方歌舞伎らしい芸の味わいが重要であることは間違いないように思います。
 その面白さがあってこそ上演を繰り返してきたのではないかと私は感じます。

 何故そう思うのかというと、初代の音声を拝聴したからです。YouTubeで聴くことが出来ます。
 それを聴くと役者の味わいあってこその作品であることが実感できます。

 作品のテーマとしては全く別物であるにも関わらず、役者の味わいという点では『松浦の太鼓』の面白さに近い。
 一方、例えば真山青果作品ような近代的史劇、社会劇としての側面がありそこのところも見逃せない。
 心理劇的芝居においては得手ながら、役者の味わいで魅せると言う点ではとても難しい芝居なのだとも思います。
 その分やりがいはあるでしょうが‥。

 今回の舞台も、上方歌舞伎の真髄を見せていただくにはまだ若干距離があるように感じてしまいました。今後に期待です。

 二君に仕えることは不忠か

 今回の「歌舞伎の見方」はとてもよく工夫されていてとても面白いものでした。
 ただ、上演する側の作品解釈にも深く関わることであるかと思いますが、芝居に対する解説の中で、私にはいささか違和感を抱かずにはいられない点がありました。

 それは「二君に仕える」ということの解釈です。
 解説では、「二君に仕える」ことを現代的に言えば職場を変えることと同じようなことであると単純にとらえていました。
 また、近世においてはそれが人々に軽蔑される行為であったと殊の外強調し、現代人には理解しがたい面があることを前提として見物するように促す解説がなされました。

 私はその点に大きな違和感を持ちました。

 もしその解説が正しいものであるとしたら、本作が「古典」として命脈を保つ意味、テーマが見いだせなくなるのではないかとさえ、私には思われます。
 時代を越えた普遍性が見いだせるからこそ「古典」として成り立つのではないでしょうか。

 今を生きる生身の人間により上演される舞台芸術です。
 今を生きる観客に直接見せる「古典」芸能なのですから、尚更そこに時代を越えた普遍性を見いだせなければ命脈を保てるとは私には思われません。

 「二君に仕える」ことに対してどんな時に人々の拒否反応が出るのか。
 そこをはき違えてしまっては本作のテーマを正しく捉えることは出来ないだろうと思います。
 この作品を鑑賞する視点を正しく伝えることが出来なければ、古典、ひいては歌舞伎に対して大きな誤解を招くことにもなりかねません。
 そうした意味で今回の解説は、『忠臣蔵』を私怨による復讐劇と捉えてしまうのと同じくらいのはき違えがある、と私には思われてしまいます。

 近世における忠臣蔵物は、直接幕府のご政道に対して命を賭してまで物申した「赤穂事件」を一つの題材とした作品群です。
 それゆえ創作する側にとって直接的に描くことが出来ない事は多く、受け取る側にも暗黙の了解がなければ、本来の主旨が伝わらないということは当然あります。

 時代が変わり誤解や誤読、本来の主旨が見えなくなってしまっていることは舞台芸術に限らず古典的作品にはままあることでしょう。

 『土屋主税』は明治四〇年大阪角座で初演されていますが、それは世界規模の帝国主義的勢力がぶつかり合う中で日本も生き残りをかけていた時代です。
 日露戦争に勝利したばかりの時代であり、国家に対する「忠誠」が庶民感覚でも当然のこととして認識され、求められ、賞賛された時代であったろうと思います。

 主君=国家への忠誠が理屈抜きに受入れられた時代。
 近世に成熟した「忠義」を尽くすという考え方に違和感を持つこともなかったでしょう。

 そうした感覚が太平洋戦争に破れ辛酸をなめた日本人が、「忠義」や「忠誠」という言葉に対して拒否反応を示すようしむけられた教育を半世紀以上続けてきた今の日本です。
 今、取り立ててそうした精神を賞揚しようとしているわけでは、もちろんありません。

 ただ、『忠臣蔵』物における忠義とは、上の者が主君のために有無を言わせず下の者に身命さえ差し出すことを強要するものでは、当然ありません。
 それは、世界規模の戦乱の中にあった近代において、切羽詰まった状況の中でいつの間にかはびこってしまった捉え方であるかと思います。

 近世にあって「二君に仕える」こと自体が不忠であったとは思えません。
 ただ、今所属している集団において成すべき責任のある者が、目先の利益に左右されその集団に至誠を尽くせないのであれば、現代においてもそれは蔑まれるべき行動と認識されることだと思います。

 「二君に仕える」ことが不忠なのではなく、「二股者」もしくは「背徳」につながる行為があると見做されるからこそ、それが忌み嫌われるのです。それは現代においても同じ事だと思います。
 「現代ではわかりにくい感覚」として片づけるのではなく、古典の中に普遍的テーマをしっかりと見いだし、それを若者に理解できるよう導いていける解説を目指して欲しいと感じずにはいられませんでした。

 とは言うもの、解説の不完全さを補うだけのものが舞台には漲っていたとも思います。
 理屈を抜きにして登場人物の「至誠」に対する強い思いは今回の舞台でも若い観客にしっかりと伝わっているであろうと感じながら拝見しました。

 中村錦之助丈の大高源吾、嵐橘三郎丈の其角、市川青虎丈の落合其月、坂東新悟丈、役者の皆さんの誠を尽くした舞台、芝居によってそれは確かに感じ取ることが出来る舞台であり、若者の心にも届くものであったと、私には思われました。

 風流と洞察力

 本作は、一幕二場の作品ですが主人公の主税は二場になってやっと登場します。
 この役は極めようとすれば本当に難しい役どころなのだろうと思います。
 理で役を作り上げていかれるように私には思える扇雀丈の手の内にはまだ入っていない感は否めません。
 ただ、舞台を拝見している時は、何が足りないのかまではわからないでいました。

 初代の演じた音声を拝聴していて、この主税という役どころは理屈を越えた存在感と愛嬌で魅せる役どころなのだろうと思い至りました。
 其角や其月が源吾に対して直情的な怒りを露わにする中で、一段上から物事を見る大身らしさがまず最も必要とされる役どころなのだと思います。
 その上で、主税が風流人として、物事を深く洞察する人物として、愛嬌ある人物として描写されてこそ本作の本当の面白さが出てくるのではないか、と考えるに至りました。

 源吾が如何なる人物であるか、主税がその人品を見極める力を有する人物であることが理屈でなくわかる大きさがこの役には求められるのではないでしょうか。
 常日頃、人を見抜く力を付けている大身であることが座っているだけでわからなければならないのではないかと思います。

 其角の上の句に付けた源吾の下の句の意味を読み解く洞察力。
 そしてその解釈をめぐり其角と張り合おうとする茶目っ気のある人物として描かれてこそ、この芝居がとても面白くなるのだと私には思えます。

 日本においては、武力を行使する武人が長い間政権を担いました。
 世の中を治めていくためには「武力」というものは好むと好まざるとに関わらず必要不可欠なものであることは間違いないでしょう。
 「軍事力」を持たない国家などというは今の世の中にあってもあり得ないわけですから。

 ただ、国家機関の中で武官は必ず文官の下に置かれるのが世の常です。
 日本のように武人が行政官に変貌していく社会において、武人でありながら武力だけに片寄らない、文官としての能力を身に付けることも求められた世の中であったろうと思います。
 まさに文武両道が武士には求められたのであり、教養人としての嗜みが武家にも必然的に求められました。

 武力や身分に頼るだけではなく、上に立つ者として、臣を束ねる者としての人徳や人を見極める能力も当然ながら求められることになるでしょう。

 俳諧を嗜むと言うことは、自然や人の営みなど多くのことに興味を持ち、観察し、洞察することが求められます。
 「風流」を好むということは、単に趣味的な意味合いだけではなく為政者にとっても欠かすことの出来ない教養を深める手段であったろうことは、日本文化を考える場合見逃せない視点であると、私は思います。

 そしてこの作品が、先に記した武力に大いに片寄った時代に初演されたというところに、深い意味を感じます。
 身分にかかわらず、人物を見極める力、人としての大きさ。
 そうしたものがやはり当時の人々に求められていたのであり、それだからこそ、初代鴈治郎が生涯をかけて演じる意味もあったのではないかと、私には感じられます。

 そして今の時代にあってもそれは変わらないのではないでしょうか。
 そうした為政者こそ常に求められているのだと、私は思います。


 今回の舞台では、錦之助丈の源吾は風流を解する者の品格と社会に対する忠義に殉じる者の清らかさ純粋さがとても印象に残りました。
 其角寓居における橘三郎丈の其角は、其月を制するところの強さに古武士的な者が感じられ、それが役所としてどうなのかは別として私には魅力的に感じました。
 青虎丈の其月は、音響が歌舞伎に適しているとは言えないホール(サンサンパレス)で、一本気な侍の役所を朗々としかもしっかり内容のわかる台詞で聴かせます。その真摯な芝居に学生さんが食い入るように見ておられたのが印象的でした。
 新悟丈は琴もしっかりと稽古され意欲が伝わる誠実の舞台でした。

                      2025.6.15

 

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