午 歌舞伎座 猿若祭二月大歌舞伎 昼 『お江戸みやげ』『鳶奴』『弥栄芝居賑』『積恋雪関扉』 <白梅の芝居見物記>
お江戸みやげ
作者の川口松太郎氏は昭和の新派の代表作を多く手がけられた方です。
私はそれほど新派作品を多く見ているわけではありませんが、本作は波野久里子さんのお辻で拝見したことがあります。
その舞台を思い起こすと、やはりお辻の役は女優かなと私には思われてしまいます。
歌舞伎の舞台として、とても充実していることは間違いありません。
それでも、年配の女性の中に芽生える恋心というよりは淡い乙女心とでもいうものは、女性でないとなかなか表現出来ないものかもしれないと感じます。
お辻のような乙女心は却って今の若い女性にはわからない、もしかしたら持ち得ない感覚なのかもしれません。
1990年代に韓国ドラマの『冬のソナタ』が一世を風靡していた頃のことです。80代の女性が「ヨン様」を追いかけて初めて推し活をすることによって、糖尿病と高血圧が劇的に改善し、お医者様に「ペ・ヨンジュンに負けた」と言わしめた‥そんなエピソードを目にしたことを思い出します。
今、「染團左」の人気がうなぎ登りで、推し活にいそしんでいる中に多くの年配の女性がいらっしゃるかと思います。
そうした女性達の中にもあり得る淡い乙女心のような、そうした心理というものは女優の方だからこそ自然に出てくるものであるのかもしれません。
中村鴈治郎丈のお辻は愛嬌があり純朴な田舎の女性を好演しているのですが‥。
今時の感覚で言えば、若い役者の手を取るところなどはともすればセクハラやモラハラとも感じる行為のようにうつりかねません。
それが、あまり嫌な感じにならなかったのは、坂東巳之助丈の栄紫が贔屓の見物に対して誠意をもって向き合ていたからでしょうか。
巳之助丈は若い役者の色気といい大芝居を目指す役者の品性や清潔感があり誠実な人柄をしっかりと滲ませていました。それがお辻の純朴な行為を昇華させるのに大いに寄与していたのではないかと思います。
鴈治郎丈を中心に、おゆうの中村芝翫丈、文字辰の片岡孝太郎丈、お長の中村梅花丈、紋吉の中村歌女之丞丈、正市の中村寿治郎丈、と周りを固めるベテラン陣が非常にいい味を出していて、とても充実した舞台であることは間違いありません。
鳶奴(トンビヤッコ)
文化年間に江戸で初演された十二変化の所作事の一役を切り取ったものとのこと。8分ほどの小品で尾上松緑丈が奴をつとめます。
松緑丈は役者としての存在感を上げてきていますが、この一幕を歌舞伎座の舞台にのせるのであればもう少し肉付けをした舞踊を拝見したかった、というのが正直なところです。
一つ余計なことを書きますと、松緑丈や指金を使う役者さんが「鳶」が空を飛ぶところを見たことがあるのかな、と疑問に思った点です。
最近では、石橋物における指金の蝶を扱う時、実際の蝶らしい動きを取入れて芝居心で見せて下さる後見がすっかりいなくなってしまいました。
私は田舎育ちのですので、モンシロチョウやモンキチョウがどうのように飛ぶかを見てきています。以前はそれをきちんと描きだす指金使いの後見が確かにいらっしゃいました。
鰹の季節の市井における風物を切り取るのであれば、そうした目に見えない芸の工夫が舞台のさらなる充実につながっていくように私には感じられます。
弥栄芝居賑(イヤサカエシバイノニギワイ) <猿若座芝居前>
猿若祭五十年を寿いだ一幕。
片岡仁左衛門丈を中心に、中村福助丈や芝翫丈、中村扇雀丈や片岡孝太郎丈が舞台をしめ、若手が花を添えます。
立役、女形交互に10人の若手が花道で渡りぜりふを聞かせます。これが思ったより聴き応えがあってこの演し物を楽しいものにしています。見物、特に贔屓筋としては嬉しい限りでしょう。
積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)<関の扉(セキノト)>
歌舞伎古典舞踊の大曲中の大曲。
天明四年<1784>江戸桐座『重重人重小町桜(ジュウニヒトエコマチザクラ)』の二番目大喜利所作事として初演されました。
初演時の配役は黒主が初代中村仲蔵、宗貞が二代目市川門之助、小町姫・墨染実は小町桜の精が三代目瀬川菊之丞です。
私が歌舞伎舞踊を楽しめるようになったのは、実は見物し始めてから10年も経ってからのことです。それまでは、舞踊の味わいというのがよくわからないまま見物を続けていました。
ただ、最初から心を掴まれた舞踊作品もいくつかはあります。
その一つがこの『関の扉』です。
私は八代目松本幸四郎丈の関兵衛は拝見していませんが、幸いなことに二代目尾上松緑丈、六代目中村歌右衛門丈、十七世中村勘三郎丈でこの舞踊を拝見することが出来ました。
この作品を「古典」とし「読み解く」ことは、そう容易いことではありません。
例えば、一般的に『京鹿子娘道成寺』の詞章は当時はやった唄の断片の寄せ集めに過ぎないと解説されます。が、その詞章には歴史的な事象が大いに暗示されていると私は考えています。
この『関の扉』も舞踊劇として歴史的な事象が大いに暗示されていることは確かです。
ただ、それを説明するには戦国末期から江戸初期の歴史を丁寧に紐解かなければならず、教科書の教える歴史からは想像が出来ない展開ですので、本を一、二冊まとめても説明しきれないほど広範囲に説明していかなければなりません。
それをまとめる余裕もなくなかなか遅々として進まないので、この舞踊に関しても、ここで多くを語ることはできません。
初代仲蔵が『京鹿子娘道成寺』の上演を望みながら本興行では果たせず、代わりに『奴道成寺』の上演に甘んじたことは先月少し言及しました。仲蔵にとってそれと同じくらいの思い入れの強さがこの作品にはあったであろうと、私は推測します。
本作は、常磐津の舞踊「劇」です。
しかし常磐津は、人形浄瑠璃のために書かれた義太夫節とは全く性格
を異にした浄瑠璃です。
しっかりとした骨格を持ちドラマが展開していくように詞章が書き込まれてはいません。
そういった意味では浄瑠璃の詞章の持つドラマ性に頼ることが出来ない作品群と言え、今の殊に若い役者さんにはハードルが高いものになってくるのはやむを得ない面があるかと思います。
ただ、意味がわかっていてもいなくても、その思い入れの強さこそ歌舞伎が古典化していく上では大変重要なことであるのは確かでしょう。
今回の上演にはそうした思い入れの強さを感じることが私にはできず、それはとても残念なところです。
ドラマとしての表現に長けているだけではカバーしきれない面がこの舞踊にあることは否定できません。若いこれからという役者さんに望むにはやはりハードルが高いのだと思います。
「常磐津」の語りにも、若い舞台を補うだけの古典性の味わいや力強さという点でまだかなりの距離があるように私には感じられました。
古典舞踊では、やはり古典的肉体として舞台に存在することが役者さんには求められるのだと私には思われます。
今回のように、幕切れ近い黒主と小町桜の精の若々しく力強い生命力の漲った舞台は、それはそれで大いに魅力はあるのです。
ただ、関兵衛役の中村勘九郎丈、小町桜の精役の中村七之助丈としては魅力があっても、勘九郎丈の関兵衛、七之助丈の小町や桜の精で見物に訴えてくるものがないというのはやはりとても寂しいものです。
その点では、尾上菊之助丈の宗貞は古典的肉体に近づいていることを感じます。例えば、江戸和事系の宗貞とは系統が明らかに違うのですが、それとは違った魅力を持った存在感が出てきていると私は思います。
この三人の芸の到達点が揃っていないと、例えば三人の手踊りのところなども面白さが半減してしまうように私には感じられました。
今回の猿若祭は、ベテラン陣に支えられた若手の奮闘公演と言えるでしょう。
八月納涼歌舞伎とは違って、古典に果敢に挑戦するチャンスの場となっていけば、年ごとに充実していくのではないかと、今後に期待したく思います。
2026.2.13
