巳 南座 當ル午歳 吉例顔見世興行 『醍醐の花見』『一條大蔵譚』『玉兎・鷺娘』<白梅の芝居見物記>
八代目尾上菊五郎・六代目尾上菊之助襲名披露
京の町はお隣の大国からの観光客の来訪が激減しているとは思われないほど多国籍の観光客も含め大変な混雑です。
静まりかえった京都の街と紅葉の名所の静寂がSNSでアップされたからでしょうか。
紅葉の見頃はとうに過ぎていますが、SNSの情報源としてのまさに「力」を感じないではいられません。
観劇前、音羽屋所縁の清水寺にお参りをさせて頂きました。
五条坂からの参道は人もまばらで小雪の舞うなか風情ある雰囲気を楽しめていたのですが‥
開門時間前から入場が始まるとアッという間に境内は参拝客で溢れかえりました。
音羽の滝にも若い方々が長蛇の列をなし、心静かに風景や物思いにふけることなど出来たものではありません。
早々に参拝を済ませ、三年坂二年坂をくだって八坂神社へ向かいました。
清水寺の喧噪とはうってかわり澄んだ空気の中で落ち着いてお参りさせていただけました。
八坂神社にお参りすると、数年前からなんとなく色づいた葉を散らす風に祇園を見守り続けてきた先人達の存在を感じるようになっていました。
それでもどこか落ち着くことが出来ない違和感がいつもあったのですが、今年、はじめて八坂さんに受入れて頂けたような心持ちになりました。
祇園の街並みに懐かしさを感じることが少なくなった分、一年の締めくくりとして南座の観劇と八坂さんへの参拝が、自分にとってかけがえのないものになっていることを実感します。
醍醐の花見
平成29年4月歌舞伎座で初演の本作もすでに4回目の上演です。
慶長3年<1598>3月、醍醐寺で盛大に行われた花見を題材にした舞踊劇。
歴史好きとしては首をかしげる部分が多々あるものの、華やかな舞台面で南座の舞台が狭く感じるほどです。
若々しい中村鴈治郎丈の秀吉を中心に、中村扇雀丈の北政所が風格で見せます。利家正室まつの上村吉弥丈、松の丸殿の上村吉弥丈の凜とした佇まい、中村莟玉丈の三條殿がかわいらしく花を添えます。中村鷹之資丈の正則が力強く戦国武将を彷彿とさせます。
ただ、今回10:30開演ということもあったのでしょうが長唄がいただけず、また舞踊としても大味だったのが残念ではあります。
一條大蔵譚(イチジョウオオクラモノガタリ)
松本幸四郎丈の一條大蔵卿。
本作が歴史のどういったことを描いたものなのか、大立役者の「芸」で見せて頂いていた時には私にはどうしてもわかりませんでした。
それが、幸四郎丈の襲名披露における舞台を拝見して初めて紐解くことが出来た、そんなことが印象に残る芝居です。
その時から比べると幸四郎丈の大蔵卿が確実に進化をしていらっしゃるのを感じます。
檜垣では、作り阿呆というより軽いタッチの天然風が芸というよりキャラクターでおしてくるような当代幸四郎丈ならではの阿呆ぶりの舞台となっているように思われます。
こうした芝居に深まっていく方向性が見いだせるのか‥
恐らくファンとしては、花道の引込みくらいは役者ぶりのよさで堪能したいものなのではないかと代弁したい思いにかられます。
奥殿では播磨屋の叔父様の舞台をお手本にしながらも、お父様の行き方も加味されたのか、そうではなく幸四郎丈自身の芝居がより深められていっているのか。
非常に心に残る舞台に成長されているのが印象的です。
心理劇ではない性根で役を演じる芝居になってきており古典歌舞伎の味わいが確かに出てきていることを感じます。
檜垣を含めさらなる進化に期待したく思います。
片岡愛之助丈の鬼次郎。
芝居や役の構築をしっかりなさる役者さんでありどんな芝居や役も無難にこなされます。容姿で見物を引きつける魅力も十分あるでしょう。どの役もそつなく合格点に達し、大きく外すことはありません。
ただ、そうしたところが強みにならないのが歌舞伎の難しさだと思います。
足りないと感じるところを常に自覚出来ていれば、歩みは遅くとも次なるステップへ進むことは出来ます。
そうした目指すべき道が愛之助丈には感じられないところに私としては不満が残ります。
それは、ある意味背負わなければならないものがない自由な立場ゆえの、目的意識の欠如が生み出す視界不良といえるのかもしれません。
足りないものが少ない、足りないものを自覚出来ないということは、逆に言えば深まっていく要素を持ちにくいということでしょう。
漠然とながらも、己が何を目指しているのか、どんな美学を持っているのか、そうしたことを自覚出来ていなければそれは役者としてのウィークポイントになってしまいかねません。
今回の鬼次郎も奮闘していらっしゃるのは十分伝わるのです。
ただ、もう奮闘で十分な世代でもないでしょう。
どんな役であっても思いや工夫を施し芝居として深めていこうとする姿勢。それが愛之助丈の今後を大きく左右するように私には思われます。
中村七之助丈の常盤御前。
常磐御前という役が如何に難しいものなのかを実感させられる舞台です。
立女方としての風格や存在感の大きさ以前に、役の性根をしっかりとつかんで演じていらっしゃるように感じられないのが大変残念です。
「猿若祭」を一門で背負っていこうする思いがあるのであれば、こうした芝居に甘んじていてはとても心許なく感じられます。
すでに若女方からの脱皮が求められる世代になってきているでしょう。
どんな芝居で観客に何を感じさせ、何を見せていきたい、どんな感動を与えたいと思っていらっしゃるのか。
漫然と目の前の芝居を消化しているだけでは、深まりがないまま貴重な時間が流れていってしまうように私には感じられます。
中村壱太郎丈のお京。
檜垣におけるお京の見せ場である舞に面白さが感じられなかったのは残念です。現代の武家好み風な能の系譜を意識されすぎているのでしょうか。この舞は歌舞伎の母体となっている狂言舞の系譜ならではの味わいこそが面白さにつながっていくように私には思われます。
鳴瀬や勘解由のような役がこうした芝居にどれほど重要か。
地味ながら市川高麗蔵丈の鳴瀬が存在感を見せました。
玉兎・鷺娘
新菊之助丈の玉兎。
南座の大舞台で一人、半裸に近い状態でごまかしのきかない踊りを見せる、それだけでも立派なことです。
その上、子役が健気に踊っている姿を見せるだけの舞台に止まっていないのです。
非常に魅力溢れる舞台で私は舞台に釘付けになりました。
例えば少年合唱団のボーイソプラノを聴かせてもらうような‥
ある短い年齢の間のみ味わえるような透明感のある舞台。
その上、変化舞踊の俗な題材を洒脱に踊る面白ささえ兼ね備えているのですから。
必見の舞台だと私は思います。
新菊五郎丈の鷺娘。
鷺娘と言えば坂東玉三郎丈の演し物として定着している感が私自身にもあったのですが‥
この舞踊の広がりと奥深さという点において、無限の可能性を秘めた舞踊であることを実感させて下さる菊五郎丈の舞台でした。
古典舞踊という点では、玉三郎丈の幻想性の強い舞台より本道に近いものを感じさせます。
白無垢から町娘に変わってからの踊りが六代目を彷彿とさせ、さらに地獄の責め苦から鷺の精に変わっての幕切れまでとても見応えがありました。
ただ、その分余計に白無垢の間の物足りなさが気になります。
玉三郎丈だからこその演出が、古典性の強い舞踊の前置きとしてはいささか違和感があることは否めません。
別の見せ方があるように私には感じられるのです。
宝暦12年<1762>市村座、二代目瀬川菊之丞における初演時の長唄がこの『鷺娘』に使われているようです。
初演時には引き抜きはなく白無垢に黒帯、綿帽子の出立でずっと踊ったようで、当時を写していると思われる鈴木晴信の画も残っています。
〽ちらちら雪に濡鷺の しょんぼりと可愛らし‥
今回の菊五郎丈の踊りであれば、出だしは幻想的、もしくは寒風吹く人里離れた池のほとりに白無垢姿の鷺の精が現れる、というものではなく別の演出方法の方が映えるように、私には思われす。
菊五郎丈の踊りによって、この舞踊の『娘道成寺』に通底する古典舞踊としての可能性を感じずにはいられなくなりました。
『娘道成寺』と違うとすれば、古典としてすでに動かしがたいほど出来上がってしまっている舞踊ではなく、これから様々な演出の可能性を見いだしていける舞踊であるということでしょう。
こうした既存のなかから復活していける作品の掘り起こし、さらには古典として昇華させていく方向性にもっと貪欲であってもいいのではないか、そうあってしかるべきなのではないか。
そんな風に私には思われます。
2025.12.7
