午 歌舞伎座 團菊祭五月大歌舞伎 夜 『菊畑』『助六由縁江戸桜』<白梅の芝居見物記>
鬼一法眼三略巻(キイチホウゲンサンリャクノマキ) 菊畑
通称「菊畑」は『鬼一法眼三略巻』(松田文耕堂作、享保16年<1731>9月竹本座)の三段目の一部ですが、歌舞伎ならではの様式性に富んだ演出の一幕として度々上演されます。
今回は三代目尾上辰之助襲名披露狂言としての上演であり、虎蔵実は牛若丸を、新辰之助丈。
鬼三太に父尾上松緑丈、皆鶴姫に中村時蔵丈、鬼一に坂東彦三郎丈、湛海に坂東亀蔵丈ら先輩方が脇を固め、劇中にて襲名披露の口上もあります。
「いかにも今時の役者さんの芝居」と言ってしまえばそれまでですが‥
若い世代の舞台を享受する見物であれば、十分な舞台と言えるのかもしれません。
ただ、虎蔵と言えば大立役者の役どころとして素晴らしい舞台をいくつも拝見してきている者にとっては、祝い幕ということを差し引いても、辛口の感想になってしまうのはお許し頂きたいと思います。
今回、新辰之助丈は、『対面』の五郎、『菊畑』の虎蔵という披露狂言の上に、『助六』の福山のかつぎまでつとめています。
三役とも全く違った難しさのある役どころでしょう。
それを一月の興行で挑もうとしている。その向こう見ずとも言えるところは「傾き者」にとって一番大切な勢いなのだろうと思います。
良し悪しは別として、映画『国宝』人気をきっかけに歌舞伎に注がれるようになった世間の注目、また、若い世代を歌舞伎に誘おうとする風潮にあやかっていることも確かでしょう。
非常に恵まれた立場にあることを自覚し、ますます芸道に精進して歌舞伎界の大輪の花として咲き誇る存在となっていかれることを期待します。
その上で、「憧れ」や「奮闘」だけではどうにもならない、客観的に見れば、己の未熟を思い知らされる場になっているのだということも、心に留めておいて頂きたいとも思います。
ただ「大歌舞伎」の舞台で、若い役者を世に出そうとする芝居が、若い役者だけの責任であろうはずがありません。
若鯉を披露しようとベテラン陣が周りをガッチリ支えている芝居の醍醐味は、昼の部の『対面』がしっかりと証明してくださっています。
一方『菊畑』においては、この若い虎蔵を支えるには、松緑丈の戦友世代だけではまだかなり心元ない舞台であることは否めません。
さすがに松緑丈の鬼三太はご本人もお好きな役どころのようで、鬼一よりは鬼三太の役者であることを感じさせます。
ただ、主である牛若から滲み出る存在感の大きさが不足しているとはいえ、それを想像させる苦渋の性根を見物に味わわせてくれるまでには、残念ながらまだ距離があります。
彦三郎丈の鬼一。彦三郎丈だけのことではないのですが。
同世代の役者さんに、鬼一のような役どころの奥深さや味わい、肚の芝居の重要性が、出来ている出来ていないは別として、理解されているとはとても思えないのが、私としては大変危惧されるところです。
今の役者さんの特徴として、たとえば心理表現などを含め、役者同士の間で芝居を作りあげていくことに関して言えば、前代の役者さんたちより長けている部分があるようにも感じます。
一方、役としての存在感そのもので人物を見物に無意識的に理解させる、説得性を持たせる、そうした芝居という点では、ほとんど顧みられていないように私には感じられてしまいます。
映像で芝居を容易に見ることの出来なかった時代、先輩の芸を間近で繰り返し見て無意識に芸を肌で習得していった時代の役者の芸は、大立役者世代以下では今なかなか見られなくなってきているように私には感じられます。
そうした芸の習得に馴染んでいない世代では、意識的に身体表現や性根の在り方を分析し人物を造形していくことが、今後非常に重要になってくるように、私には思われます。
鬼一とはどういう人物であるのか。
花道の出から鬼三太を呼び出すまでは今でも鬼一の独擅場です。
この人物の来し方、肚の深さ、花を愛でる風情‥、
現行では牛若と皆鶴姫のやりとりに重きがあるように思われがちです。
が、実は三段目では鬼一の性根が芝居としては一番の見所であることは間違いありません。
にも関わらず、彦三郎丈の舞台からはそれがほとんど感じられません。
役者ぶりがあがり芝居に大きさは出てきています。鬼一も口跡のよさだけではなく台詞に風格が出てきている、という点では力をつけて来ていることは十分に感じられます。
ただもう一歩、鬼一の性根の捉え方に踏み込んで頂きたいと私としては思ってしまいます。
そういう観点からすると、時蔵丈の皆鶴姫にももっとツッコンだ芸を期待したくなります。
時蔵丈はとてもクレバーな芝居をします。それ故、一通りの芝居ではなく役の性根と様式美とをバランスよく加味した芝居への取組みをもっと望みたくなります。
『鬼一法眼三略巻』の三段目、「菊畑」につながる清盛館における皆鶴姫はとても個性的で光っています。牛若と同じ十代半ばとの設定でしょうが、若くとも父の代理として館に赴いている上に、重盛の父への諫めの言葉を清盛の前で堂々と読上げるという肚の座ったところもある姫として描かれています。そのくせ牛若の前では十代らしい恋心を見せる。
時蔵丈の皆鶴は乙女らしい恥じらいや一途さより、牛若を詰問していくところなど今時の女の子のようで、時蔵丈らしいとも言えるのでしょうが‥
新辰之助丈の相方であればさらに初々しい姫を見せて頂きたいものであるとの欲は出ます。
坂東亀蔵丈の湛海。歌舞伎では道化がかった端敵的役どころだと思っていたのですが‥。今回のような演じ方に関しては云々出来る知見が私にはまだありません。
助六由縁江戸桜(スケロクユカリノエドザクラ)
江戸歌舞伎の面白さを満喫できる芝居です。
一杯道具の一幕物、二時間の長丁場ですが飽きの来ない、江戸の粋がつまった芝居です。
登場人物一人一人のキャラクターが立ち、一人一人に見せ場がある。
面白くないはずはないのです。
市川團十郎丈の助六は円熟味がまし、花道の出端などは逸品と言える域にきているかと思います。
尾上菊五郎丈の揚巻は美しくまた、立女形としての風格も申し分ない域に達しています。
一人一人の役者さんを見ればそれぞれによくやっていらっしゃるのです。
ただ、全体としてのバランス、おさまりの悪さは如何ともしがたいものがありました。
それは、市川男女蔵丈の奮闘にも関わらず、意休役者の存在感をあまり出すことができなかった、ということは大きいのかも知れません。
また、経験不足の役者が多くこぢんまりとした芝居になってしまった、ということもあるかもしれません。
ただ、歌舞伎座の大きな舞台をいっぱいに絵面として使う芝居ながら、以前には感じたことがないような隙間を舞台に感じる場面がいくつかありました。
役者の居所の不安定さというものを感じないではいられない箇所も散見されました。
居所のせいだけでなく、それぞれの役者がそれぞれに役目を果たしてはいるものの、私が見てきた『助六』のような、芝居全体としての緊張感がもしかしたら足りないために、舞台上の「隙」が気になってしまったのかもしれません。
大一座全体を見渡す意識、ご自分でなくともそうした役割を担う方が身近にいればそれでも十分ですが‥
また、大一座をまとめる器量というものもこれから一層主役世代には求められるように思います。
今回の舞台で特筆すべきは、やはり白酒売りの中村梅玉丈でしょう。
菊五郎劇団系のものとはまた違った、江戸和事のつっころばしとも言える味わいで格別な面白さがあり、魅了されてしまいました。
中村雀右衛門丈の満江も存在感を発揮していました。
遣手の市村萬次郎丈もいい味をだしていらっしゃいます。
また、片岡市蔵丈の国侍が思いの他味わいが出てきていて、お父様の舞台を彷彿とさせるもので懐かしく、とてもうれしくなりました。
2026.5.21
