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巳 歌舞伎座 三月大歌舞伎 仮名手本忠臣蔵 Bプロ <白梅の芝居見物記>

 歌舞伎は史劇か

 Bプロに関して感想を書く前に少し歌舞伎という演劇に関してコメントしたいと思います。
 「歌舞伎とは如何なる演劇か その四」で、以前『仮名手本忠臣蔵』に関して書かせて頂いているので、そちらも参照していただけたらと思います。

 本作の四段目「跡」の場の通称を「城明け渡しの段(場)」と言います。人形浄瑠璃においても同じです。
 合理的解釈をすれば扇谷上屋敷の場を去るのにこうした呼び方をすることに違和感を覚えるのも仕方がないことなのかもしれません。

 ただ、こうした一見誤りと思われる表現に近世芸能の本質が潜んでいることを理解していただけたらと思います。

 評定から由良之助が館をあとにする場面では、やはり赤穂における城明渡しの時の思いを舞台を作る側が描こうとしているからこう通称が生まれたのでしょう。
 見物もそれを疑問なく受入れいるため、こうした称が一般化するのだと思います。
 こうした事例は、近世芸能、近世演劇にはままあることです。

 今私たちが持っている一般的な知識によって作品を合理的に解釈しようとすると、近世芸能は不合理のオンパレードになってしまいます。

 元禄の赤穂事件において、大石内蔵助は浅野内匠頭の死に目にはあっていません。歴史を少しかじっていれば常識といえることです。
 そもそも江戸城の松の廊下における刃傷の原因が、吉良上野介の内匠頭の妻に対する恋慕に起因すると考える史家は皆無でしょう。
 そういう意味では、本作が元禄赤穂事件を扱った「史劇」であるとは決して言えないという考えも成り立つことは事実です。

 それにも関わらず、この作品は紛れもない日本の「史劇」であると、私は考えます。
 なぜなら、本作が天下統一から近世を通じて日本人の心に根ざしていった精神の源を描いているからです。

 『仮名手本忠臣蔵』は「元禄赤穂事件」を題材の一つとして、四十七士の思いを描いていることは間違いありません。
 ただ、それを是とする世の中の価値観の元になっていく出来事を本作は主筋としているので、実際の赤穂事件にはない内容が多々含まれています。
 それについてここでは深く触れる余裕はありませんが‥。

 「日本人の精神」にまで昇華させていった思いの集積。
 それを本作が背負っており、背負い続けてきたからこそ、生きた古典として今もなお舞台に上がり続けていることは、紛れもない事実だと思います。 

 近世演劇を鑑賞する場合、近代的、合理的な解釈はいったん脇に置く必要があります。
 もしそれを追求したいと思うのであれば、一朝一夕で出来ることでないことは心に留め置いて頂きたいと思います。
 私としては是非お誘いしたい世界ではありますが‥。

 大序 鶴ヶ丘社頭兜改めの場

 今回Bプロを拝見した際、Aプロを拝見した時より全体的にずっとこの通し狂言にふさわしい、緊張感と荘重性を感じさせるものになっていました。

 足利直義は江戸において座元が主に務めてきた役です。大序の中心を担う品格が求めらえます。為所のある役ではないのですがその存在感がこの作品の崇高性を体現するくらい高い意識が必要な役所だと私は思っています。理で芝居をする中村扇雀丈には当初どうかと思われましたが、いい直義になってきていました。こうした役所に歌舞伎役者としての真価、存在感が出てくると昨今、私は強く感じるようになりました。

 中村芝翫丈の師直の舞台が大きく、一筋縄ではいかない老獪な大役を好演。存在感を示す役者に成長されているのを実感しました。

 尾上菊之助丈の判官に手堅い存在感が出てきていました。華もあり美しくやはり当世の判官役者としての責任を負っている方だと思います。

 中村時蔵丈の顔世、古風な美しさで大序に華を添えるには申し分ありません。ただ顔世という役は、理で芝居を積み上げていく役者さんにとっては余計、難しい役所であることを痛感させられます。
 実をいうと、私はまだこれぞと思う大序における顔世に出逢ったことがありません。芝居心が前面に出たり心理表現を変に持ち込んでもいけない役だと思います。にもかかわらずこの作品の世界観を示す貞女の品格や武家の妻としての矜持が感じられるべき大切な役だと私は思っています。

 尾上右近丈の若狭之助が口跡もよく形も綺麗で好演しており若い役者の魅力を存分に発揮していらっしゃいます。ただ、スタンドプレーとも思えるような所や雑な面が時折顔を覗かせるのが私としてはとても気になります。若いうちは許されても年齢を重ねると大きな欠点になってくるように思います。特にこうした古典作品は熱演や勢いよりきちんと丁寧に演じていく心がけが芸の年輪を重ねていく上で、何より必要であるように私には思われます。

 三段目 足利館門前進物の場 松の間刃傷の場

 進物の場では、市村橘太郎丈が江戸式の伴内で魅せます。Aプロの片岡松之助丈の上方式との違いが面白く、芝居好きとしては両方楽しまないではいられない、今回のダブルキャストの強みだと思います。

 刃傷の場では、芝翫丈がこの場を引張るのに十分な大きさと強さが光りました。老獪でやることは卑劣であるにもかかわらず下卑たものにもならないところが、大歌舞伎の面目躍如と言えるでしょう。

 菊之助丈の判官は手堅いのですが、彼が指向する心理描写では如何ともし難い役であることを見物として強く感じます。例えば「師直公にはご酒機嫌か‥」のくだりの難しさを今回感じました。これが若造の上司に対する口答えになってしまわないところが音羽屋の判官であるように私には思われます。お祖父様以前の判官を私はしりませんが、お祖父様の系譜にある判官は肚にその思いが深く深く沈静しつくしていくものでした。「無念」が単に私怨をこえた歴史的背景の重みを無意識に感じさせるものでした。
 どんなルートで登っていってもいいのだとは思います。
 ただ、日本の古典芸能の究極は理屈を越えたところにあることは確かであるように私には思えます。

 橘太郎丈の軽快な身のこなし、間の効いたうまい芝居が、この場を大いに盛り上げるのに欠かせないということ、芝居運びの妙というものを感じさせてくださ舞台です。
 右近丈もこうしたところでは切れ味の良さや芝居のセンスの良さが光ります。 

 四段目 判官切腹の場 城明渡しの場

  判官切腹の場は、各々の役者の皆さんが今の力を精一杯出しての真摯な芝居で見せてくださり、それだけで見物の皆さんには満足出来る場になっているのではないかと私は感じました。

 評定においてもいい緊張感があり、尾上松緑丈の由良之助も台詞にやはり課題は残りますが、若侍を束ねる風格が感じられるまでに成長されていることは確かでしょう。

 ただ、評定から城明渡しにかけての由良之助の心情として「恨み」という言葉を観客の心に深く印象づけてしまうことに、私は少なからず違和感を持たずにはいられません。

 同じ台詞であっても松嶋屋の台詞や人物像からは、師直に対して判官の恨みを晴らす、仇を討つということが殊更印象づけられることはありません。
 仁左衛門丈の由良之助には、判官の胸に刻まれた「無念」を晴らさなければならないという強い思いが滲み出ます。ただ、「恨み」と「無念」は似て非なるものです。
 この「無念」が何を象徴しているのかはこの作品における最大のテーマですが、ここでは踏み込む余裕がありません。

 ただ、ここで言えることは、由良之助が「復讐」を心に誓っていては、本作の真価を観客に伝えることは出来ないであろうということです。

 人形浄瑠璃の四段目には「恨み」を晴らすという文言はありません。
 「主君の仇を報じる」という言葉が十一段目などには出てきますが、おそらく四段目を担当した作者は「仇討」「復讐」という解釈の上にこの段を書いてはいなかったであろうと私は思っています。
 歌舞伎の演出が肥大させていった部分においてもそれは変わらないのではないかと思います。

 「赤穂事件」の起こった背景として、松の廊下における内匠頭の刃傷に対して武家社会における「喧嘩両成敗」という御定法を破った裁きが公議によってなされたことが上げられると思われます。
 何故そうした裁定を下したかということに関しては、ここでは踏み込めませんが公議側にも十分すぎる理由があります。
 一方、公議に対して喧嘩両成敗を求めずにはいられないだけの思いが内匠頭にあったことも事実だと私は推測します。

 公議側の事情は表にだせないことであり、内匠頭側には「世間」の同情と行動にたいする賞賛を集めるだけの理があったことは事実でしょう。

 そうしたことをすべて飲み込んだ上で由良之助という人物像は時代を越えて洗い上げられて来ているのだと思います。
 心理劇をこえ、「復讐劇」に終わることのないところまで昇華した「肚」の芝居でないと、その真価が出てこない難役なのだろうと思います。

 道行旅路の花婿

 Aプロの若い役者の道行きとはかわり、ベテラン役者の腕で見せる道行。
 やはり中村萬壽のお軽が、歌舞伎という演劇においてはベテランの味わいが何よりであることを感じさせてくださいます。
 片岡愛之助丈の勘平も味わいまでには今一歩ですが若手にない安定感が魅力です。
 坂東亀蔵丈の伴内。楷書的な芝居のイメージが強い役者さんですが、実はこうした役に味わいが出せる面もあったのだということが印象的でした。道化方の味わいがともすれば軽んじられているのではないかと感じられる昨今ですが、役者としての味わいに深みを持たせ得る役柄だと私は思います。さらに磨きをかけていただきたいものです。

 五・六段目 山崎街道の場 勘平切腹の場

 山崎街道。
 中村勘九郎丈が写実性と様式性をうまく融合させて、音羽屋の味わいとは違う新鮮な芝居を見せてくれています。
 中村隼人丈が定九郎を丁寧につとめています。
 与市兵衛の芝居も含め、この場の状況がよくわかる初心者にも親切な仕上がりとなっていました。

 五・六段目を通じて非常に芝居としての流れにまとまりがあるのが印象的です。このメンバーによる五六段目の最大の強みとなっているように私には感じられました。
 丁寧で隙のない安定感のある芝居作りが舞台としての充実感につながっていることは確かだと思います。

 そこが音羽屋の芝居とは違った、現代劇と同じような感覚で歌舞伎をご覧になる方にもわかり易い芝居となっているのかもしれません。 

 六段目の勘平も五段目同様、非常に様式性と写実性がうまくかみ合っての好演で、時分の華とも相まって芝居に同化させる芝居作りがよい方向に出て観客の心をつかみます。
 芝居の写実性が歌舞伎にとってどこまで欠くべからざる物かという問題はここでは深入りしませんが‥
 この新しい感覚の若き勘平を、お才の中村魁春丈、不破の中村歌六丈、源六の市村橘太郎丈、おかやの中村梅花丈というベテランの布陣で盛り立てます。
 勘九郎丈の心情重視の写実性の勝った芝居の一方で、中村七之助丈のお軽が心情の写実性よりむしろ若く美しくかわいいといった役の造形性に力点のおかれた師匠譲りの芝居を展開します。その芸質の違いがむしろ芝居に良い意味でのバランスを与えていて、配役の妙というものを実感しました。

 七段目 祇園一力茶屋の場

 Bプロの昼夜を通した一番の見せ場であることは間違いないでしょう。
 片岡仁左衛門丈が、四段目の由良之助と並行して演じていらっしゃるためか、いつもの七段目より肚の強さがより強く出ているように感じられました。今一番魅せてくださるベテラン俳優の至芸、味わいというものは絶対見逃せません。

 七之助丈が六段目同様師匠譲りのお軽を見せます。
 この七段目も仁左衛門丈を芯として全体的に細部にまで目が行き届いたまとまりが感じられる舞台で、それが芝居としての面白さを倍増させているように私には感じられました。
 尾上松也丈は、私が想像していたより平右衛門の仁(ニン)の役者さんであることを感じさせました。若い内から変に朧のような悪逆非道な役柄の方に触手を伸ばすより、平右衛門から由良之助に進む芝居を志した方が歌舞伎役者としては道を外さないように、私には感じられます。老婆心ながら‥。

 十一段目 高家討入りの場 引揚げの場

 討入りの場においても、仁左衛門丈がおられるだけで舞台一段引きしまったものになることを感じさせます。

 引揚げの場も短い場面ながら、尾上菊五郎丈の服部逸郎の登場により、大立者二人が相対する舞台はやはり素晴らしい。ここのところ歌舞伎座でもあまり見られなくなっていた大歌舞伎の醍醐味を感じさせられ、贅沢な幕切れを楽しませて頂くことが出来て、感動しました。
                                                                              2025.3.18

 

 

 

 

 

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