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巳 歌舞伎座 四月大歌舞伎 昼 『木挽町のあだ討ち』『黒手組曲輪達引』附リ 彦山・無筆ダブルキャストバージョン <白梅の芝居見物記>

 木挽町のあだ討ち

 直木賞作家である永井紗耶子氏の小説を原作とした新作歌舞伎。
 元服をひかえた若者が心ならずも仇討をしなければならない境遇となり心に矛盾を抱え苦悩しながら周りの助けを得て仇討ちをなしとげる。仇討物語というより、若者が様々な人に出会い世の中というものを知りながら成長していく物語‥、と言えるようです。
 原作は未見での感想になります。

 直木賞種の作品としてお家騒動的な世界を用いながら大衆向けの心温まる小品となっています。
 とはいえ、要所要所で芝居巧者のベテラン陣に支えられて、芝居としてはとても面白く拝見しました。

 今時のそれも「女性」目線で江戸時代のあだ討ちに対する考え方を様々な登場人物の目線から考えようと試みた意欲作ではあるかと思います。
 「仇討ち」というものをどう捉えたらいいのか。
 現代人の視点ならではの疑問を投げかけながら、作者なりの思いが込められた作品と言えるのでしょうか。
 青くさささえ感じられるところにかえって作者の真摯な思いが滲んでいるようにも感じられます。

 事の発端が一国の政権中枢における腐敗の是正を目指しながら挫折せざるを得なかった忠臣が、その是正を息子に託そうとする‥。
 お家の一大事に対して元服前の年端もいかない少年と小者の下男一人に後事が任されるというのは‥。
 いくら安易なお家騒動物に慣れ親しんだ歌舞伎の見物にとってもかなり乱暴な主筋であるかとは思います。

 ただ、木挽町の芝居に関わる人たちの生き様、人情、思いというものがよく描かれており、それがこの芝居の眼目と言えるのでしょうから、そうした突っ込みは庶民感覚の芝居とすれば余計なことかもしれません。

 武士の道を貫き通すことに期待を寄せる元武家である中村又五郎丈の立師与三郎。人間らしい情に溢れそれが物作りに表れる坂東彌十郎丈の小道具方久蔵。子を失った女性の庶民感情をストレートに描く中村雀右衛門丈の久蔵女房与根。
 ベテラン陣の芝居により、こうした登場人物が重ねて来たであろう人生の年輪が滲み出てくるような芝居はやはり見応え十分です。

 松本幸四郎丈の篠田金治。多くの役柄ばかりでなく多くの役目を次から次へとこなしていらっしゃいます。この役をふくらませる余力を望むのは見物としても控えざるを得ません。

 市川中車丈の下男作兵衛は書き物ということもあるのでしょうが、この仁の強みが出て芝居を面白くするのに一役買っているかと思います。事件の発端における芝居が歌舞伎の舞台に違和感なく馴染んでいて説明的な芝居だけに終わっていないところに歌舞伎役者としての成長を感じます。菊之助に討たれる役所を悲壮感ではなくその一途さゆえにかえって喜劇味をかもしだすような芝居は、ともすれば暗く沈んだものになりかねない作品にいい味付けとなっているように私には感じられました。

 市川染五郎丈の菊之助は、元服を控えた若者としてはすでに少し大人び過ぎているきらいがないでもありません。若衆の心の切羽詰まった葛藤というところまで芸の力によって表現するまでにはまだ至っているとは言えません。現在の染五郎丈の等身大の菊之助ではあります。ただ、さすがに久蔵宅の場では雀右衛門丈弥十郎丈というベテランの力をかりたこともあり、若者らしい純粋さが効いて心うたれるものがありました。

 若き染五郎丈を中心に、中村壱太郎丈、中村種之助丈、市川猿弥丈、澤村宗之助丈、中村吉之丞丈などもしっかり脇を固めて、芝居小屋に生きる人々を活写しているのが印象的な芝居となっています。

 黒手組曲輪達引(クロテグミクルワノタテヒキ)

 「黒手組助六」の初演は安政5年<1858>3月江戸市村座。『江戸桜清水清玄』の二番目狂言として上演されました。
 「清水清玄」の世界に「助六(曽我)」の世界を配したもので、芝居の口上にも「世界結由縁頭巻(セカイヲムスブユカリノハチマキ)」と謳っています。
 この二つの「世界」を結び付けることに大きな意味がある芝居です。

 『東海道四谷怪談』が『仮名手本忠臣蔵』の世界の「裏表」をなす作品であることを決して見過ごしてはいけないのと同様に、本作も「清水清玄」と「助六(曽我)」の世界を結び付けた作者の意図を考えなければならないはずですが、ここでは踏み込みません。
 ただそれを暗示するような助六の衣裳が今回用いられているのは、原作の意図を大切にしようとする姿勢と受けとめていいのでしょうか。

 「黒手組助六」の上演史を調べ直していないのですが、助六の浅黄に桜模様の伊達男の形や、藤の花をあしらった黒小袖というのは前からあったのでしょうか。今回初めてであるならば、どういった意図からそうしたのかとても気になるところではあります。

 高麗屋の定紋は四つ花菱なのでしょうが、襲名披露の時には幸四郎丈と白鸚丈の裃には、菱と銀杏と浮線蝶を合わせて図案化したような紋を使っていらっしゃいます。浮線蝶を松本家の裃に用いるようになったのは先代の白鸚丈からとのことですが、先代白鸚丈の岳父初代中村吉右衛門丈に対する思い入れから始まったものなのかどうなのか‥。
 今回の桜模様といい大柄の藤の花の模様といい‥、私としては気になるところではあります。

 話がそれました。
 「助六」は現白鸚丈の幸四郎襲名披露で拝見して以来、華やかな舞台として若き花形役者の門出としてはふさわしいと感じてきましたので、十代目の襲名披露の時に何故披露狂言として現幸四郎丈が選ばなかったのか私には不思議に思われていました。
 もともと現幸四郎丈は市川家の助六より、この黒手組の方に興味がありやってみたい演目であったのでしょうか。

 現幸四郎丈が若い頃、目標とする役者が十五代目市村羽左衛門であると聞いたように記憶します。
 何故弁慶役者を目指していないのか私としては疑問に思っていましたが、十五代目への憧れの延長線上にこの「黒手組助六」があったのでしょうか。
 今回の番頭権九郎と助六の二役、特に権九郎はさらなる研鑽が必要であるかと私は思うのですが、この二役に幸四郎丈が目指してきた方向性があるであろうことは間違いないようにも思います。

 ただ、今回の舞台を拝見していて今の幸四郎丈がどういった方向に大成しつつあるのかは歴然としていて、それは決して十五代目の芸系とは言えないようにも思います。
 白鸚丈演じる紀伊國屋文左衛門に諭されるがゆえに余計に際立つのでしょうが、今回の舞台で非常に印象に残ったのは辛抱する助六の姿です。
 新左衛門やその子分に辱めを受けながらも辛抱立役のような佇まいで絶える姿が新鮮な助六でした。

 今回、やはり白鸚丈の紀文の存在感が辛抱する助六を際立たせたという意味でも、役者の大きさによって芝居がどれほど違ってくるかということを実感させて下さる舞台でした。

 中村芝翫丈の新左衛門は、先月の師直に続き舞台の大きさが際立ちますが、対する助六に辛抱立役の大きさが出てきているので、師直とはちがった、大敵としての肚の悪の強さがもう少し出てくればと感じられました。

 今回のような台本ではせっかく揚巻に中村魁春丈を配しても生きてこないのが気の毒でした。
 市川高麗蔵丈の三浦屋女房といい、市村萬次郎丈の遣手といい適材適所で芝居に彩りを与えていました。
 白酒売は代役で市村橘太郎丈がつとめられていましたが、長台詞も朗々とこなし代役とは思えないほどで芝居を充実させていらっしゃいました。

 黙阿弥の原作を一読するだけでは、白玉の人物像は今回の中村米吉丈のようになってしまっても仕方ないようにも思われます。
 ただ、原作から現行のように改変されている黒手組では、揚巻が色添え程度の描かれ方である分、白玉があばずれのように描かれてしまってはこの作品の大切な部分がゆがめられ芝居の面白さも半減してしまうように私には思われます。
 やはり白玉は周りが見えなくなるほど傳治を思う一途で純な新造でなくてはこの芝居の本質も面白さも出てこないのではないか。

 白玉と同様に、中村橋之助の傳治も単なる小悪党で終わってはいけない役所なのだろうと私は考えます。巾着きりという設定ながら本来は誠実さ義理堅さもしっかり出ていなければならない難しい役所なのだろうと思います。

 幸四郎丈の六助

 『彦山権現誓助剱』、片岡仁左衛門丈とのダブルキャスト。
 松嶋屋の助六と見比べてしまうとその差に見物としても戸惑いを感じてしまうというのが偽らざる感想です。古典芸能の奥深さ、伝統を積み重ね大成していくことの長い道のりと素晴らしさをいやが上にも感じさせられます。

 叔父である吉右衛門丈に習ったものを大切に演じようとしているのでしょうが、その舞台の感触はむしろ仁左衛門丈の舞台の肌合いに近いものを私は感じました。その分余計に足らざるところに意識が向いてしまうのは観客として如何ともしがたい部分ではあります。

 偉大なる先輩方から教えを受け研鑽を重ね、役者ぶりも随分あがって来ていらっしゃると思います。
 これからは、古典芸能の神髄である役所の掘り下げがどうしても求められてくるのだと思います。
 幸四郎丈の人間としての美学をどう役の中に形作っていくのか。
 それが古典の世界に生きる役者さん方の醍醐味であるのでしょうし、見物にとっての醍醐味であると言えるように、私には思われます。

 無筆の出世 坂東亀蔵丈バージョン

 同じ月に同じ芝居を別の役者さんで見ることに興味を持つ見物が一定数は確実にいるのでしょう。幕見席の盛況にそれを感じます。

 新作ということで、芝居自体が日々進化をしているのだと思いますが、今回は親切にも松竹チャンネル(YouTube)で神田松鯉氏の講談を拝聴する機会を与えて下さっていて、拝聴した上で舞台を拝見出来たのが何よりありがたかったです。
 私が松緑丈で拝見した時に感じた違和感は歌舞伎脚本の台詞に配慮が足りていなかったようです。

 講談においては最後の恩を返そうとするくだりで、治助は与左衛門の子息を最初から花形の役職に抜擢するわけではなく、自分に預からせてくれと言っています。自分の手元において育てた上で出世の道が開かれていくことが自然と分かる話の運びになっていると私は受け取りました。

 最初から上に立つ者の縁というだけで花形の役職を与えることが横行しては、組織は健全に機能しなくなるのが世の常でしょう。
 最初から抜擢するのであればその才を見込んでなければならないでしょうし、手元において仕込んだ上でその人物に才覚があれば成長することが出来抜擢も周りが認めることとなるのだと思います。
 小さなことのようですが、そこに深い人間洞察がなければ芝居の人物の掘り下げもなかなか出来る事ではないように思います。

 講談を拝聴した上で再度芝居を拝見すると、やはりとってつけたような芝居の展開と思われたところが(例えば碁盤の前になかなか座れないくだりなど)、講談を歌舞伎芝居にすることの難しさが出る点であることを感じます。

 一方例えば、講談にはない、紺屋職人久蔵に受けた親切を返したいとする治助に受けた親切を他の人へしてやってくれという一言は、江戸っ子の美学がこの作品の底辺に流れることを象徴しているようなくだりとなっていて、芝居に大きな彩りを与える素敵な入れ事であると私は感じます。

 亀蔵丈の治助は松緑丈の朴訥な趣とはかなり違い、江戸っ子らしい粋なところがありつつ誠実な人柄をよく描いていらっしゃいました。さすがに勘定奉行に出世した後の貫禄まではなかなか出るところまではいきませんが、「仇を恩で返そう」とする人間としての誠実さが滲み出て、説得力のある場面となっていました。

 松緑丈の夏目は中車丈とはかなり違って豪快なところが魅力的な人物になっていました。
 この人物の大きさがあってこそ治助を大身に育て上げられたのではないか‥そんな風に思える存在感のある夏目であると感じました。

 中車丈の久蔵は、亀蔵丈が江戸っ子らしい通りすがりの小さな親切が江戸の人情の底流にあることを感じさせるような小気味のいい印象を与えてくれていた分、通りいっぺんの印象となってしまっていたのは惜しいところだと思いました。
                      2025.4.12

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