巳 歌舞伎座 秀山祭大歌舞伎 『菅原伝授手習鑑』Aプロ昼 「加茂堤」「筆法伝授」「道明寺」 <白梅の芝居見物記>
通し上演の醍醐味
松竹創業百三十周年として、東京歌舞伎座で三大名作(『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』)の通し上演が行われています。
中でも、通しで見ることによってより作品の理解が深まるのがこの『菅原伝授手習鑑』であることを実感します。
AプロBプロと配役を大幅に変えての上演であり、同じ月に異なった配役で拝見するのは、観客にとっても教えられることがとても多いです。
懐には優しくありません。時間的にもかなりきついです。
にも関わらず、まだ全ては拝見しているわけでもありませんが、とても充実した芝居見物をさせていただいています。
本年の三大名作の通しは、若手から中堅、大ベテランまでが揃っての上演が謳い文句です。
今回の配役が発表された時には驚きの方が大きく、また今の歌舞伎界の現状を反映している苦肉の配役でもあるかと思いました。
ただ、舞台を拝見しているとどれだけ考え抜かれた配役であるのか‥
興行側の「歌舞伎愛」、役者さんとともに観客も「歌舞伎見物」として成長していける配慮が非常にあることが推測できます。
加茂堤 Aプロ
中村歌昇丈の桜丸。坂東新悟丈の八重。中村米吉丈の斎世親王。
何故この配役なのか‥。
それぞれの個性から少し逸脱した配役となっており、拝見していて歯がゆさを禁じ得ませんでした。
すでに十代二十代の役者が活躍する中、手の内の役柄に安住していては成長はないでしょう。
役を自分に引きつけるのでもなく、役柄としての古典の基礎をしっかりと勉強してもらう機会が与えられているのは間違いないように思います。
短い興行期間ですがどこまで自分自身を育てられるのか。
歌舞伎役者として成長していくにはまだ足りないところだらけであることを、通し上演の中で役者さん自身が気付くことが出来るのか。
そうした自覚があるかないかで、今後の成長度合いに大きな差が出てくるであろうと私には思われます。
尾上左近丈の姫は動きにぎこちなさがありますが、道明寺につながる健気な姫を初々しく演じています。
坂東亀蔵丈の清行がいい味わいを出しています。どちらかと言えば四角四面の無器用さのある芸風と感じていましたが、こうした役どころに味わいが出てきているのが嬉しい限りです。ただ、惜しむらくは同じ端敵でも公家になっていないところが残念です。台詞術なのでしょうか。市村橘太郎丈の希世から盗むべきところは大きいと感じます。
筆法伝授 Aプロ
道明寺へつながる一幕というだけでなく、芝居の一幕として独立した面白さを十分に与えてくれる舞台だと思います。
片岡仁左衛門丈の菅丞相の神々しい存在感は言うに及びません。
通しで拝見すると、源蔵の菅丞相への畏敬の念が寺子屋の行動につながっていくことが自然と伝わってきます。
歌舞伎芝居は理屈を越えたところに大きな魅力があるものであり、理屈ではないところで納得させられる芝居であることを実感します。
歌舞伎役者の肉体もそれを拝見する見物もこの芝居を自然に受入れさせる仁左衛門丈の存在感。
この物語の核として、寺子屋の終わりまで菅丞相の存在がこの作品に息づいている芝居であることをあらためて実感させられました。
そうした舞台を拝見出来る喜び。
言葉ではなかなか表現出来ません。
松本幸四郎丈の源蔵に大きさがあります。
ただ、Bプロで菅丞相を演じていることもあるからでしょうか。また座頭としての責任意識がひときは大きくなってきたためもあるのでしょうか。
寺子屋の「せまじきものは宮仕え」と言ってしまう人物よりは菅丞相に近い肚が感じられ、芝居としては源蔵の仁(ニン)を越えてしまっている感は否めません。芝居というものの難しさを感じます。
中村時蔵丈の戸浪。
立女方を指向されている役者さんだと思います。戸浪のような役どころはどうしても食い足りないところが正直あるのではないかと推測します。
古典の役柄として魅力を感じていないのかとも思います。
とは言え、菅丞相にまみえることが出来ない悲しさを夫にぶつける姿など今時の女性が夫に愚痴をぶつけるように見えてしまうところは見物としても残念に思われます。
元来女性特有の考え方や情の機微に興味を持つことはない役者さんなのかもしれません。が、そうであったとしても、古典を自分に引き寄せるよりまず形からでも古典に近づこうとする謙虚さがまだまだ必要なように私には思われてなりません。
筆法伝授の面白さに厚みを増しているのは、橘太郎丈の希世であることは間違いありません。
脇をささえる役者さんによって如何に芝居が面白くなるか。
橘太郎丈の最近の芝居の充実が、希世でもさらに味わい深さが増していらっしゃり見物としても嬉しい限りです。
道明寺 Aプロ
『菅原伝授手習鑑』の二段目をいつから「道明寺」と言うようになったのでしょうか。今回それを調べる余裕はありませんでした。
太宰府に左遷される道真が道明寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね別れを惜しんだとされる故事がこの芝居に反映されていることは確かです。
二段目切は土師の里の覚寿尼の館が舞台ですが、実際の道明寺に伝わる道真自刻と伝える像は十一面観音であり今回の自刻の尊像とは異なっています。
本作の大序では、唐土の徽宗(キソウ)皇帝が日本の帝の姿を画に写し持ち帰るよう渤海国より来朝の僧が命じられている設定になっています。
徽宗(1082~1135)は北宋の第八代皇帝であり、その悪政に人民は苦しめられ『水滸伝』のモデルとされる乱があった時代の皇帝であるようです。
『水滸伝』は江戸時代には広く知られていましたから、わかる人には本作が遣唐使を廃止した歴史上の菅原道真を描いていないことはすぐにわかったであろうと思います。
学問の神様としての天神信仰は、平安時代の道真に対する畏敬の念もさることながら、そうした精神を今の世につなげるだけの思いをもって生きた人々が、千年以上この列島にいつづけたからこそ続いてきた信仰であろうということは容易に想像ができます。
この天神信仰が単に知識を得ることだけではなく、今では死語にさえなりつつあるように思われる「修身」をもかねた学問であろうこと。
それを、片岡家の菅丞相が今の時代に私たちに教えて下さっているのは間違いありません。
現仁左衛門丈のお祖父様の時代から、菅丞相を演じる際は「精進潔斎」をして臨まれてきたとおっしゃっています。
その思いは、もっと昔から続いてきたものと推測します。
その高潔を目指した、生きた舞台を拝見出来ていることの奇跡を私は感じないではいられません。
前回拝見したのはコロナ禍直前の5年前です。
その時は高潔な神々しさが俗人とは別次元の近づきがたい人物として見る者に迫ってきていたように記憶します。
それが今回は、どこにでもいるような人間らしさ、人間の情をかもしだしながらも、尚高潔な神々しさのある菅丞相になっていらして、自然と涙がこぼれました。
そうした高潔な神々しさの中に人間らしい情を溢れださせていた菅丞相が、花道の引っ込みで、すっと前をしっかり見つめ毅然と次の一歩を踏み出していく姿に私はこの上ない感動を覚えました。
その姿の美しさ、挫折に負けず前向きに生きていこうとする意思。
目の前で見せて頂いている、人としてのその生き方に憧れずにはいられない。そんな思いでいっぱいにさせて頂きました。
この大舞台を、覚寿の中村魁春丈、土師兵衛の中村歌六丈、宅内の中村芝翫丈、竜田の片岡孝太郎丈、宿禰太郎の尾上松緑丈、輝国の八代目尾上菊五郎丈が、しっかりと支えていらっしゃいます。
苅屋姫の初々しさ健気さ、片岡松之助丈の味わいが舞台に花を添えています。
2025.9.7
※道明寺に関する記載で誤認が有りましたので一部訂正しました
2025.9.19
