午 歌舞伎座 三月大歌舞伎 昼 『加賀見山再岩藤』 <白梅の芝居見物記>
加賀見山再岩藤(カガミヤマゴニチノイワフジ)
AプロBプロともに拝見しました。
中村松緑丈のBプロでは、四の五の言わずにゆったりと役者の芝居を楽しめばいいのだろうと、久々にそう思わせてくださる面白さが確かにありました。
周りを固める役者の皆さんの芝居が充実しており、一つの歌舞伎の見せ方であると言えることは間違いないないのだと思います。
ゆるりゆるりと楽しむ芝居であるのなら、欲を言えば、大がかりな大道具を使っての花の山の場では、大入りの見物を前に岩藤には「山門」の五右衞門張りに、絶景を楽しむ役者の大きさや華やかさが見たいところではあります。
が、そこのまで余力は松緑丈をしてもまだかなり距離があることは否めません。
それはさておき、Aプロを拝見していて、脚本の詞章から役作りに入っていく今の若い役者さんを中心とした舞台では、この芝居をどう楽しめばいいのか、迷うところではあります。
正月に国立劇場による『鏡山旧錦絵(カガミヤマコキョウノニシキエ)』をご覧になって興味を持ち、この弥生狂言にも足を運ばれた方がいるとすれば、肩透かしを食らってしまったのではないか、と私は心配します。
何より、「河竹黙阿弥」作と冠に付けられての上演では黙阿弥翁自身が大変お怒りになるのではないか、と私には思われてしまいます。
本作の補綴の問題点と考えられるところを少し書いて見たいと思います。
本作は、安政7年<1860・万延元年>江戸市村座で弥生狂言として初演されました。
安政5年から6年にわたって断行された所謂「安政の大獄」の主導者であった井伊直弼が、この年、旧暦の安政7年3月3日に桜田門外において暗殺されています。
こうした時期の上演であることはこの作品を考える上で、実はとても重要です。
安政の大獄は幕府の政治の行き詰まりを露呈するとともに幕府に対する信頼を失墜させ、井伊直弼の退場によって、紀州閥の政治にとってかわり薩長閥が台頭してくる余地を与える道筋が出来たことは間違いないかと思います。
こうした世相が芝居にどのような影響を与えているかということは簡単に説明出来ることではないのでここでは踏み込めません。
ただ歌舞伎が、のほほんと天明期の芝居を懐かしんで後日譚という形で新作を書いたというようなものではないことは、時代状況として容易に想像がつくかと思います。
このような時代的なバックボーンが分かっていなくても、原作自体を読み込めば、今回のような補綴が原作の意図を大きく損ねてしまっていることは想像出来ることのようにも、私には思われます。
今の上演形態では、望月弾正は最初から明らかな敵役として描かれます。それが一番の問題だと私は考えるのです。
黙阿弥の意図としては、「明らかな悪人」ではなく、善なのか悪なのかわかりかねる、そうした人物像として描き出そうとし、役者にもそうした芝居が本来求められるのであろうと推測します。
善か悪か判じかねる人物に「岩藤」の霊が付いてしまうことによって、大敵になってしまう。
ここのところをしっかりと押さえないと黙阿弥の意図に沿った補綴とはならないだろうと私は考えます。
岩藤の霊が復活して弾正に取り憑く前に、明らかな敵役として弾正が登場していてはいけないのです。
現行の台本では、弾正は『旧錦絵』の岩藤と同じように討取られてしまいます。しかし、原作では討取られることはないまま芝居を終わらせます。
粉々に砕けて跡形もなくなるのは岩藤であり、弾正は滅びる対象ではありません。
原作では望月弾正が、実は泉次郎親衡であると最後にとって付けたような説明がなされます。
弾正として描いている人物が天下取りに敗れ捕縛されながら逐電した人物であることを暗示させたいからだと思います。
近世演劇における「逃げ上手の景清」のモデルと同じ人物を暗示しているのだろうと私は考えます。
『鏡山旧錦絵』において、尾上は名古屋山三や塩冶判官、岩藤は不破判左衛門や高師直と同じ人物をモデルとして描いているであろうことに言及しました。
ただ、本作における尾上は二代目でありお初です。
亡霊の岩藤が打擲するのは、ここでは初代尾上をモデルとした人物ではないでしょう。
『旧錦絵』の尾上で描いかれた人物は、実は本作では望月弾正として描かれているのです。
善人側としていた人物を反対に敵役として描く作品は、実は歌舞伎にはとても多くあります。
古くは安永期の奈河亀輔の歌舞伎『伽羅先代萩』がそうですし、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は『仮名手本忠臣蔵』の裏面として描かれた作品です。
それは、徳川吉宗の将軍就任から、享保・寛政・天保の改革、そして幕末の幕府の迷走といった、紀州閥の政治に対する不審から、そうした歴史の捉え方をする傾向が根強くあり続けたからであろうと私は推測しています。
本作において、お初(二代目尾上)の仏心によって、岩藤は却って「解脱」をせずに悪霊となって復活してしまいます。
その岩藤が、尾上のような清楚な衣裳を着て、満開の絶景の中を蝶と戯れながらふわふわと飛んでいくという趣向を本作は用います。
これは岩藤の願望を象徴させているのだろうと私は推測します。
尾上も岩藤も本作において中心をなす人物ではありません。
本作における本来の敵役は、今の補綴では影が薄いですが蟹江一角です。
また、鳥井又助も本作における山三や判官のモデルとなっている人物を描く役どころとなっています。
佞人の根を断とうと功を焦り、状況判断が甘いまま、弾正(岩藤の意向にそった)の策略にはまって、却って佞人に使われてしまい、我が身の罪を我が身で償わなくてはならなくなってしまう。
又助内の場は人形浄瑠璃にも取りあげられた題材で、芝居として練り上げられていきている分、充実した一幕になっています。
こう見てくると、古典作品を現代に蘇らせていくのは、役者の芸も大切ですがそれに頼るだけではなく、作品自体の意図を如何に的確に捉えて補綴していくかにかかっているようにも思われます。
国立劇場が歌舞伎の脚本を募集していますが、オリジナルの作品に限り、書替えなどを受入れないようです。
代々の狂言作者がそうであったように、先行の作品をどう消化し取りあげ新しい視点を交えつつ、発展させていくか。
人形浄瑠璃も歌舞伎も、先人の作品を参考に何世代にもわたって練り上げる作業を繰り返していくことによって、その時代時代を象徴し、ある面で進化を遂げていく作品を生み出してきたことは間違いないでしょう。
新作に挑戦することも決して悪いことではないと思います。
ただ、国立劇場の仕事としては、如何に古典性を守り維持し人々に提供していくかという方が大切なはずです。
古典を読み直し、それを現代に生かしていく作業をこそ国立劇場には望みたく思います。
一部の人々の間でなく、広くこうした古典の再生を募ることの方が、よほど大切な事業のように、私には思えます。
最後になりましたが、七代目尾上菊五郎丈を筆頭に中村又五郎丈、中村扇雀丈、中村芝翫丈が芝居に厚みを持たせてくださり大歌舞伎ならではの醍醐味です。
尾上役の中村萬壽丈や中村時蔵丈には少し気の毒な芝居であったかもしれません。
坂東巳之助丈が、尾上松緑丈とのダブルキャストで非常に健闘していらっしゃいます。
若手では、中村萬太郎丈の求女とおつゆの中村莟玉丈の頑張りが目を引きました。
また、志賀市の中村種太郎丈が三味線に頼ることなくしっかりと琴を弾ききっていたのが印象的で頼もしい限りです。
2026.3.22
