プレーン顔
先日、妻と娘の見た目がそっくりだということを書いた。ほんとうに似ていて、妻と娘は親子以外の何ものでもないといった感じなのである。
娘が妻の子どもではなくて、ほかにどのような可能性があるのだろうか?と英文直訳丸出しの文章を使ってしまいたくなるほどである。
アズスーンアズポッシブルなどという熟語を必死で覚えていた学生時代を思い出し、直訳英単語を娘と妻に使いたいくらい直接話法である(適当)。
そういえば受験期にあんなに必死で覚えた関係代名詞とか関係副詞とかも今ではすべて忘れてしまっている。
受験期の知識といえば、たまに夜眠ろうとしていて目を閉じていると、トゥール・ポワティエ間の戦いとかタラス河畔の戦いとか、あの頃覚えたワードが頭に浮かんでくることがあるのみである。その戦いが誰によって何のために行われたかはもはや記憶の彼方なのだが、きっとこうして文章を書いている今も、当時学んだことが血となり肉となり私の役に立っているのだろうと捉えることにしている。
無意識下にしまわれている記憶も、きっと私を作る一部になっていると考えるからだ(ポジティブ思考)。
話は大幅にそれてしまったが、息子(5歳)のことを書こうとしていたのだった。
前のアカウントである「しろ」の時にも似たようなことを書いたような気もするのだが、最近、また息子に顕著に見られるようになってきている傾向について記しておこうと思う。
息子はプレーン顔だと思っている。私にもその傾向はあるのだが、プレーン顔とはどこにでもいそうな顔ということだ。
私は何年も生きているが、誰かに似ていると言われたことがほとんどない。
私は何か特徴があるという外見をもちあわせていない。
街ですれ違った人は、一瞬で私のことをすぐに忘れてしまうくらい印象が薄い。
だから、その他大勢のエキストラとか通行人Aとかいう役割があればとても向いている気がする。なんの自慢にもならないが、主役に影響を与えることなく、どんな風景にも自然に溶け込むことができると自負している。
息子もそんな特徴を受け継いでいるような気がしているのだ。
というのも、私の息子は、見る人によって誰に似ているかと感じることが異なっているからだ。
言い換えるならば、息子は見る人のフィルターによって息子の外見が特徴付けられるという性質をもっている。
具体的には、私の両親(息子にとって祖父母)は私の小さい頃にそっくりだと言う。妻の両親は妻の弟(息子にとって叔父)の子どもの頃に瓜二つだと言う。私の祖母(息子にとって曽祖母)は息子は私の父(息子にとって祖父)の小さい頃に似ていると言うのだ。
祖父母などの単語がたくさん出てきてややこしいが、つまりは私と妻の両親、私の祖母など全員が、私の息子は自分の子どもの小さい頃にそっくりだと捉えているのである。
私の息子は、祖父母、曽祖母にとって自分の子どもが小さくてかわいかった頃を見ているような気持ちにさせるような特性があるらしい。
これは祖父母や曽祖母が孫(ひ孫)がかわいいと思う気持ちの表れであると同時に、息子がプレーン顔ならではの現象なのではないかと思っている。
プレーン顔の息子は、祖父母たちによって、どんな顔にも見えてきて、一番身近である自分の子どもがかわいかったことを想起しやすいのだろう。
また息子は、娘(7歳)と違って、わりと愛想があり、祖父母や曽祖母にもよく懐く。
娘は警戒心が強く、小さい頃から私と妻から離れようとしなかったが、息子は祖父母の、孫をかわいがりたいという気持ちに素直に応えるのだ。
我が息子ながら得な性質であるなと思わなくはないが、同じ娘弟でもだいぶ様子が違うのだなと感心している。
しかしながら、私にとっては、二人の特徴は違えど娘も息子も双方ともかわいい存在であるということは真実だと言ってもそれは決して過言ではないだろうと言わざるを得ない(直訳)。
おしまい。
