【長編】山猫軒のオーダーシート(13)
「いや、わざわざご苦労です。
大へん結構にできました。
さあさあおなかにおはいりください。」
◆
残課題がひとつ。黒川のこと。
『リンクス・プロダクション』の動きは早く、俺たちが家に帰り着く頃には、新しい仕事が決まった旨の連絡が、黒川のもとに来ていた。
黒川はあの後すぐに眠りから覚め、しかし事情がわからず、困惑した状態で待ち続けていたと言う。
「瀬野君が村井君に何かしたんじゃないかと心配で。家を出たかったけれど、鍵を開けっ放しというわけにもいかないから。三科君に連絡したけれど、繋がらないし」
ごめんよ、ごめん。涙目で謝り倒し、無事でよかった、と胸を撫で下ろす。実際、瀬野はじめに連れ出され、多少なりとも危険な目に遭った。それは黒川に売られたせいでもあり、立場上、文句を言っても構わないはずではある。が、特に責め立てる気は起きない。とにかくひどく疲れており、すぐ風呂に入って寝てしまいたかった。
「代理交渉中に本人から連絡が来たら台無しだからな。機内モードにしていた」
ツクルはポケットからスマートフォンを取り出す。交渉に使用していたものと同じ、カバーも何もついていない、剥き出しの端末。何か通知が来ていたのか、復活させた顔認証でロックを解除し、操作を始めた。
「旧い端末じゃなかったんだな」
「その発想はなかった」
「動画の無い状態で、よくあいつらを騙せたものだ」
「俺もそう思う」
口八丁で信じ込ませたのだろう。意外と大雑把なプランで挑んだようだが、しかし、今日の連中の様子を見ていれば、それもあり得る話かと思えてくる。
社長である【ママ】の存在から窺えるように、あの事務所の体質や体制は異常なものだ。"雇用と従業"の皮を被った"支配と隷属"。世間では通用しない不文律が蔓延り、盲目的に守られ続けている。
そして異常であることを自覚してもいるのだろう、それが露見することへの危機感に煽られ、盲目に拍車がかかった。霧がかかった森を草木をかき分け進むように、ひとつの明かりが見えたなら、それに向かって猛進する。そんなきらいがあった。
視野が狭く、思考も単調。故に誘導しやすく、騙しやすい。
まぁ、それを言えば俺も今回、色々と騙されたわけだが。
瀬野に。ツクルに。そして、
「黒川」俺は呼びかける。「何故、人を殺したと嘘をついた」
唯一解けない、最大の謎。ツクルですらまだ知らない理由。
それを当人に向け、俺は問うた。
家のダイニングに、静寂が流れる。三人とも立ったまま、誰も座ろうとはしない。テーブルには食べ散らかしたピザや紙皿の類が、俺が連れ出されたときと変わらぬ様子で残っている。
黒川は質問には答えず、おもむろにそのテーブルを片し始めた。
「事情は全部、比留間さんから聞いているよ。新しい仕事、ありがとう」まだ手をつけていないピザをひとつにまとめ、まとめた箱に蓋をして。「次はアニメの端役だって。多分台詞は少ないけれど、とても嬉しい」
まさかこんな形で仕事が手に入るとは思わなかった。手を動かしながら、そう続ける。
「質問に答えてくれるか」俺は言う。しかし、黒川はこちらを一瞥しただけで、話題を変えずに語り続ける。
「瀬野君とは、アナウンサー学校から同じなんだ」今度は紙皿を集め始め。「彼、とてもすごいんだよ。芝居に嘘っぽさがなく、ナチュラルで。それでいて表現力もある。社長からも、とても気に入られていてさ」
そこで手が止まる。
つっかえた何かを嚥下するように、黒川の喉仏が動いた。
「だから朗読のオファーが僕から瀬野君に変わったときも、仕方がない、と思った。その場の勢いで歯向かってしまったけれど、正直、内心では諦めていた。仮に事務所を脅し動かせても、仕事先の意向まで覆すなんて無理がある。こんな面倒を起こしたタレントを、雇い続けてもくれないだろう。意外と狭い業界だから、他の事務所にも噂は入る。初めての仕事だけでなく、この先の未来まで失った。もうおしまいだ、そう思った」
紙皿、ケチャップの袋、ペーパーナプキンにポテトの空箱。散乱していたゴミをビニール袋にまとめ、口を縛る。グラスとペットボトルを引き寄せ、ひと所に。ウエットティッシュを取り出し、テーブルの上、空けたスペースを拭き始める。
「でも、声の仕事に就くことは、どうしても諦められなかった」か細い声。「こうなったらもう、仕事じゃなくてもいい。取り戻したこの声で、世界に働きかけたい。人の心を動かしてみたい。それができるのか、試してみたい。そう思った」
だから、嘘をついたんだよ。
小さく呟き、黒川はテーブルを拭き終える。
そして、背筋を伸ばし、首を傾けて、こちらを見た。
口元に、薄い笑み。
「本当、馬鹿みてぇに騙されてくれたよな。お前ら」
耳を疑った。
今、鼓膜を震わせた声が、どこから発せられたものなのか、わからない。
一方で、明らかにそれと連動する動きをした黒川の唇が、目の前にある。
ツクルを見る。
メガネの奥、いつも冷たく静かに動かぬ両目が、丸く見開かれ固まっている。
「そっちにはそっちの都合があったみてぇだけどよ。いきなりやってきて、人を殺した、なんて言うやつのこと、信じるか普通。それをあまつさえ、協力するだとか。騙しといて何だが、相当やべぇぜ、お前ら。どうかしてんじゃねぇの」
違和感。それまでの高く柔らかな声音とは対照的に、低く刺々しい無骨なそれが、黒川のものであると受け入れられない。
声だけではない。話すスピード、息継ぎの間。姿勢や物腰、表情に至るまで、それまで相対していた黒川のそれらと、まるで違う。
黒川は再びテーブルに向き合う。何を思ったか、ゴミをまとめたビニール袋の口を開け、中に入れた紙皿や箱を取り出し、拭いたばかりのテーブルへと戻し始めた。
「キャラ変した状態で、どこまでお前たちを信じ込ませることができるか、試してみたんだよ。人を殺して逃げてきた、なんて話はミスリードのつもりだった。ほらよくあるだろう、すぐにバレそうな嘘をつくことで、本当の嘘から気を逸らす的な。それをまさか、両方素直に信じてくれるとは。とんでもねぇ上客だ」
逆再生の動きを続けながら、黒川。
「楽しかったなぁ」
邪気のない、それでいて邪悪な笑み。
つい数時間前、『リンクス・プロダクション』の事務所に入った際、同じ言葉を吐いた瀬野はじめの姿と重なる。
エチュード。即興演劇。俺たちは何百回とこれをやっている。そう、瀬野は言っていた。
「同時にムカつきもした」グラス、ペットボトルも元の配置に置き直し、ピザの箱を開ける。「どんだけ平和ボケしてんだこいつら、って。親の脛かじってベンキョウしている学生さんは違う。こっちは身ぃ削って必死に生きながらえてんのに、片やこの程度の危機感でやっていけるなんざ、心底うらやましい、と思ったよ」
あぁ、こういうやつらに俺、いじめられたんだな。
そう思うと、ムカっ腹が立って仕方がなかった。
目を大きく開き、黒川は俺たちを見る。
「忘れてねぇぜ」
まとめたピザを、素手で持ち上げ、紙皿へと戻す。
「プリント受け取っただけで泣き出され、白い目で見られたこと。ドッチボールで至近距離からボールを当てられ、いい気味だと笑われたこと。上靴がなくなったこと。机を水浸しにされたこと。転校に追いやられたこと」
一枚。一枚。一枚。元の皿に置いていく。
「『ぼくには黒川君を追いやったものが何か、わかりません』」こちらを見て、油に塗れた指で俺たちを指す。「いやいや。いやいやいやいやいやいやいや。お前らだよ、あの頃、俺を追いやったのは」
歯を剥き出して笑っていながらも、目元には悲壮が漂っている。息は荒く、激しい怒りを抑え込もうとしていることがわかる。
「……それが、お前が俺を選んだ動機か」
ツクルが言う。
「あぁ、そうだ。偽の自分で、誰か騙して巻き込んでやるなら。三科、お前みたいな口先だけの偽善者がおあつらえむきだ」
「つまりこれは、復讐でもあった、と?」
「結果的にそうなりゃ爽快だ、とは思ったな。あぁ、村井。お前は別だ」黒川は俺を見る。「お前は俺と同じ、これまで耐えてきた側の人間だ。巻き込むにしてもほどほどに、と思ったよ。まさか瀬野のバカが絡んできた挙句、薬を飲ませてくるなんてな。本当に悪かった。勘弁してくれ」
妹さんを大事にな。
そう言って、目を細める。向けられた視線にまとわりつく憐れみが不快で、俺は黒川から顔を背けた。
ご丁寧に、ゴミ屑の配置まで黒川により再現された、作為的に散らかったテーブルが視界に入る。
「帰れ」俺は言う。
「あぁ、帰るさ」
黒川は答え、壁際のトートバックを肩にかけた。こちらに向かって進み、俺たちの隣を通り過ぎる直前、ツクルを見下ろし笑みを浮かべた。
「感想を教えろよ、三科」
ツクルは答えない。黒川は舌打ちをする。顔が揺れ、その瞬間、額の絆創膏がちらりと見えた。
また黒川が進み始め、ダイニングの扉が開き、その足が廊下へと踏み入る直前、
「黒川」
ツクルが呼び止める。
「感想はない。だが、考えている」
「……何をだよ」黒川が振り向く。
「お前に、どう謝ればいいのか」
「あん?」
「あの手紙でも、謝ろうとした。だけどそれができなかった。それは今も同じだ」
俺たちは悪かったのか。
何が一体、悪かったのか。
それがわからないまま、謝ることはできない。
「俺たちは俺たちでいただけ。ただ、感じ、思考しただけ。それが悪いことだとは、思えない」
「単に、理屈を捏ねくり回しているだけだろうが」
「その通りだ」ツクルは頷く。「理屈が、感情に追いつかない」
「感情?」
「あぁ」
人間を動かすのは、いつだって感情だよ。
ツクルは言う。
「……じゃあずっとそのまま、追いつけずにもがいてろ」
「あぁ、もがく。たぶん一生」ツクルは体ごと黒川に向き直り、言う。「口先だけの偽善者であり続ける。だからまた誰か巻き込みたくなったら、俺を選べ」
数秒、黒川はツクルを睨んだ後、何も言わずに顔を逸らす。再び廊下を進み出し、そのまま振り返ることなく、俺の家から出て行った。
ダイニングに、俺とツクルは取り残される。ふ、とツクルの太い息が、漂う静けさを打ち消した。
「まぁ、あれだ」メガネのブリッジを押し上げ、ツクル。「一杯食わされた、というやつだな」
そこに浮かぶ表情は、いつも通り無味無臭のものだった。
*
残課題がもうひとつ。フミ・ハルコのこと。
瀬野はじめと『リンクス』の女社長が裸で密着している写真。あの場で俺は電話で連絡を取り、謝罪と共に削除を依頼した。
受け入れてはくれたものの、もちろんそれだけで済む話ではない。およそ親密とは言えない、いや、親密であったとしても、異性を相手にそのような画像を送りつけることには、不躾である上に、相応のリスクが発生する。それなりの誹謗中傷を受けることは覚悟していたし、最悪、不法行為で訴えられてもおかしくはない、と身構えてもいた。
少なくとも、フミ・ハルコから強く倦厭されることは疑いがない。
そう感じていたところだったが、
『推しからのエロ画像誤爆というワンダフルエラー』
『訓練された我らクラスタにはむしろ供給です』
意味のわからない言語で返され、意味がわからないため、あらためて謝罪すると、
『じゃあ、今度ご飯食べに行こう。村井クンの奢り』
倦厭どころか、接触の機会を設けられた。
オトモダチも一緒に、と昼間言われたことを思い出したが、『タイマンで』とのこと。それで償いができるなら、と二週間後の日付を設定した。
ツクルに話すと、店を予約しろ、と言うので、勧められるがままに行き先を決め、ホームページに記載された番号に電話を入れた。予約が取れた旨メッセージを送ると、また馴染みのない言い回しがトーク画面に羅列され、そのどれもが意味不明ではあったが、とにかく当日を楽しみにしているらしいことは窺えた。
そして、今日がその二週間後の当日である。
集合場所は直接現地、店のテーブルを指定した。ツクルからは怒られたが、そうしない理由がない。先方からも『合点。お忍びスタイルね』と了解をもらった。せめてお前が先に着け、と小煩いレクチャーを受けた。
何をしているのだろう。待ち合わせの十分前、教えの通り先に席につき、相手の到着を待ちながら、不思議に思う。
これが「デート」に類するイベントであることは、さすがに理解ができた。しかし、だとしたら事の発端が特殊すぎる。あの『リンクス・プロダクション』の事務所、痛みと恐怖の入り乱れる現場から生まれた副産物としては、あまりに浮ついていやしないか。釣り合わない深刻さに、ここでこうしていることが、不謹慎とすら感じられる。
「うわ、ヤバ」
時間ちょうどに現れたフミ・ハルコは、両手で口を覆った。
「村井クンと半個室。破壊力やばい」
よろしくお願いします。口から手を離し、そう言って、一礼する。照明が暗いせいか、大学で会う時より少し印象が違う気がしたが、具体的にどこがどう違うかはわからない。
「お店、予約ありがとう」
「あぁ」
「村井クンが選んでくれたの?」
「いや、友達に聞いた」
「え、意外」
「俺がこういう食事に慣れていないから、気を揉んでいるようだった」
答えると、フミ・ハルコはまた両手を口に当てる。「ちょっと待って。鬼シチュ」。相変わらず、意味はわからない。
「座ったらどうだ」
「うん、ありがとう」
メニューを開き、相手に見せる。和食の創作料理の店。お詫びの場だ、どれでも好きなものを、と言い添える。しかし、一向に決めようとはせず、逆に俺の好き嫌いを訊ねては、そのひとつひとつにリアクションを返すため、結果として注文にたどり着くまでに十分近くを要した。
「あぁ、至福」天を仰いで瞬きをする。
「まだ何も食べていない」
「いや、もうかなり満腹です」
そこでフミ・ハルコは息を吐き、顎を引いた。緩んでいた顔を引き締め、真っ直ぐに俺を見つめる。
「ごめんね、村井クン。楽しい席なんだけれど、料理が来るまでにひとつだけ、いい?」
「……何だ」
フミ・ハルコは頷いて、カバンからスマートフォンを取り出し、操作を始めた。背面、スケルトンのカバーの内側に、ポップな絵柄のステッカーが挟まれている。
「これなんだけれど」
ステッカーが裏を向き、光る画面を見せられる。
「…………え」
フミ・ハルコが見せてきたのはネット記事のページで、見出しには、『声優・瀬野はじめ、活動休止の裏にある事務所の闇』との文句が、太字のゴシックで表示されていた。上部に、瀬野の写真。何かしらの登壇時に撮影されたのであろう、宣材写真のような煌びやかな笑みはなく、唇を結び、険しく映りもする表情だった。
端末を借り、記事を読む。
瀬野はじめが所属事務所の社長から性接待を強いられていたこと。
同事務所において、複数のタレントに対し、同様の強要が行われていたこと。
それらが関係者の告発により浮き彫りとなり、心労から体調を崩した瀬野が活動を一時休止すること。
すでにニュースとなっていたのか。それらは既出の情報であるかのように、前段、あらすじめいた形で記されていた。
記事は続く。
芸能事務所『リンクス・プロダクション』の社長は女性で、声優を抱える身である一方、本人は病気により発声が困難な状況にある。
従前はプロデューサーとして活躍し、社長まで上り詰めた仕事人だが、五年ほど前からその病を患い、ほぼ同時期から所属タレントに性的な奉仕を求めることが増えていった。
社長が求める奉仕にはアブノーマルなものも多く、自らを【ママ】と呼ばせ行為に及ぶなど高い異常性が見受けられ、事務所はその事実の隠蔽に数年前から奔走していた。
ライター精神に則り、事実を淡々と。そう見せかけながら、その実、特異性を際立たせ、面白みを煽る筆致で綴られた文章。ページをスクロールし終わるが、記事は次ページにまで渡っているようで、それに続くリンクが貼られている。
「村井クンがこの間送ってきた画像、あれ、このニュース絡みのものでしょう。写ってたの、この瀬野はじめって人だよね」
「……否定はしない」
「村井クン、この件の関係者?」
「関係はしていない。だが、友人がその事務所に所属していて、一度いざこざに巻き込まれた。だが、後腐れなく問題は解決している。あれ以来、その友人も含め、事務所とは接触していない。こんな記事が出ていることも、今初めて知った」
一体、いつ、誰が。気にかかるが、真実はわからない。知ったところで、意味もない。
真顔でこちらを見るフミ・ハルコに対し、俺は背筋をただして頭を下げた。
「すまなかった。お前にあの写真を送ったのも、そのいざこざの一環だ。だが、心配ない。事務所はお前が誰かは知らない。お前に危害が加わるようなことは、ないと誓う」
顔を上げる。安心したのか、フミ・ハルコは少し表情を緩めた。「そっか」と息を吐き、斜め上を見る。心なしか、目が潤んでいるようにも見えた。
「泣いているのか」
「そりゃあ、まぁ、結構怖くて」
無理もない。こんな記事が出ていたのなら、不安にもなるだろう。ただ下劣な画像を送りつけただけでなく、その意味でも悪いことをしてしまった。
悔しくなり、俺は端末の画面を睨んで、次ページへのリンクを押した。そして、目に飛び込んできた一文に、息が止まった。
『女社長が所属タレントの子を身籠り、人工妊娠中絶に及んだケースもあったという』。
一気に、思考が駆け巡る。
黒川が所持していた、手書きで日付の入った避妊具。あいつは【ママ】に迷惑ばかりかける、との瀬野の言葉。そして黒川の部屋で見た母親とのツーショット写真。それらが細い糸で繋がり、想像と疑惑によって、編み込まれていく。
人を殺したらしい。
あの日、あの夜。ツクルから呼び出された、始まりの『嘘』が思い出される。
あれは黒川にとって、本当に『嘘』だったのか。
再会の初日から俺たちに接していた黒川と、別れの最終日に俺たちを裏切った黒川。
どちらが本物で、どちらが演じていた。
『きっと僕より大切なものがある人で、それを大切にするためには、僕が邪魔だったんだと思う』
その時は気にも留めなかった、何気ない黒川の一言が思い出され、俺は口元に手を当てた。
顔に触れ、そこで指先が震えていることに気がつく。
黒川、お前は。
「村井クン、大丈夫?」
フミ・ハルコが顔を覗いてくる。
「あぁ……」
顔を逸らす。しかし、逸らしてはいけない、そんな気がして、今一度向き合い、頭を下げた。その場の思いつきで、この無関係な者を、とんでもなく濃く薄ら寒い闇に近づけてしまったことを、自覚した。
「本当に、すまなかった」
「いいよ、もう」
真面目だなぁ。言って、苦笑したように笑う。そして再び斜め上に目をやり、フミ・ハルコは続けた。
「村井クンって、見た目が目立つ反面、無骨でおっかないところあるからさ。実は最初、怖くて近寄り難かったんだけれど、ある時から私は推していて。一回生のとき、食堂で話しかけたことがあったの、覚えている?」
俺は首を振る。いきなり何の話だろうか。
「やっぱり覚えていないか」眉根を寄せ、笑う。「村井クンね、食堂で一人、お昼を食べてたの。そのとき私も一人で、たまたま村井くんの前の席しか空いていなくて。うわぁ、どうしよう村井クンだ怖いな、って思っていたら、先に食べ終わった村井クンが、手を合わせて言ったの」
ごちそうさま、って。
「……普通だろう」
「そうそう、それそれ。あのときも、なんか意外で。一人でもごちそうさま、って言うんだね、って思わず話しかけちゃった。そしたら、普通だろう、って村井クンは返してきて、あぁ、そっか普通だよな、って思って」
当時のことが可笑しかったのか、フミ・ハルコはくすくすと笑う。
「私ね、地方から出てきて、入学してきた当初、新しい環境に馴染むのに時間がかかっていたの。友達もほとんどいなくて、ちょっと鬱入ってたかもな状態だった。でも村井クンの話聞いて、ごちそうさま、ってちゃんと言っていたかな、って我が身を振り返ると、あやしいぞ、ってなって。意識的に言うようにしたら、なんかそれだけでちょっと前向きになれたような気がして……なんか救われた、っていうか」
以来、推させていただいております。村井クンを。
はにかみながら、小さく敬礼をしてみせる。
「だから、私は村井クンを信じる。なんかヤバめなことに巻き込まれちゃった感じだけれど、村井クンが大丈夫って言うなら、信じてみる」言い切って、俺の手からスマートフォンを抜き取る。そしてそれをカバンにしまい、背筋を伸ばした。「以上、この話は終わり。今日はとても楽しみにしてきたの。引き続き楽しませてください」
何やら毒気を抜かれたような。あるいはアルコールを入れるよりも早く、酔いが回ったかのような。
己の無自覚を悔やんだばかりのところに、そんな無自覚に『救われた』などと言われたものだから、素直に受け入れてよいものか困惑してしまう。
受け入れて、よいのだろうか。
このままで、よいのだろうか。
信じてみる。
受け取ったばかりの台詞が、輝いて響く。
それでいいのかもしれない、と思う。
それしかないのかもしれない、とも思う。
店員がやってきて、飲み物を運んできた。フミ・ハルコの手前に赤い甘めの酒が入ったグラスが。俺の前にはビールが置かれる。お通しの小鉢を並べた店員が去り、俺たちは目を合わせる。
グラスを合わせ、乾杯をした。一口飲むと、爽やかな刺激が脳を通り過ぎていった。
「村井クン、お酒強いの」
「多分」
「多分って何?」
「父親が強かった。だから俺もいけると思う」
「え、あんまり飲んだことない?」
「ほぼ初めだ」
強いと信じることにする。そう言うと、「何それ」と口に手を当て笑う顔。それに釣られるようにして、俺も唇の端が緩んだ。
口元におしぼりを軽く当て、フミ・ハルコは箸を取る。美味しそう。小鉢を覗き込み、姿勢を正す。
「食べよっか」
「あぁ」
微笑んだフミ・ハルコは、続けて薄く瞼を閉じ。
そのまま箸を持つ両手を合わせ、俺に先んじて、こう言った。
「いただきます」
(完)
