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【短編】花咲かずして、春を待つ。

僕ら五年一組は総勢三十一名。
サッカーが上手くて、プロチームのジュニアにいる小海君や、ダンススクールに通い、テレビコマーシャルへの出演歴もある絵本さん、金髪にピアスという出立ちで、林田先生によく呼び出しをくらっている村井君に、成績優秀、すでに有名私学の合格圏内にいる藤井さんなど、学年有数のタレントが何人も揃っている。全校集会の時など、僕ら一組だけあからさまに煌びやかなオーラがあり、同学年の子からクラス分けの公平性を疑う声もちらほら聞こえてきたほどだ。
そしてそんな中でも、一際異彩を放っているのが、三科君である。

異彩を放つ、と言ったものの、三科君は特段目立つタイプではない。目鼻立ちにこれといった特徴はなく、小柄で色白、口数が少なく大人しい。成績も中の上で、運動もそこそこ。正直、このクラスでは、影が薄い方だと言っていいだろう。
だが、クラス替えがあって間もない頃から、僕は三科君に目をつけていた。きっかけは、ある日の国語の授業で、彼が教科書を読むよう指名された時だ。
起こったことは至極単純である。
名前を呼ばれた三科君は立ち上がり、指定された文章を読み上げ始めた。途中まで淀みなく進めていたものの、ふとそれが止まった。三科君は教科書に向けていた顔をすっと上げ、「すみません。漢字が読めません」と申告した。
以上だ。
なんだそんなことか、と思われるかもしれないが、僕は密かに感動した。
確かに漢字が読めないことなど、強く咎められるものではない。しかし普通、読めと言われたものを読めない事態が生じれば、多少なりともバツが悪そうにしたり、それを苦笑いでごまかしたり、そういう仕草が表に出てしかるべきではないのか。それを何一つおかしなことなどないように、堂々と申し出たのである。
この子は、何かが違う。そう思った。それ以来、僕は陰ながら、三科君の動向を気にかけるようになったのである。
三科君には、他の面々とは一線を画した雰囲気があった。落ち着きというか、気品というか、そういうものを身に纏っている。休み時間になれば我先にと運動場へ駆け出す男子、授業中に手紙を回してお喋りに興じる女子が集う教室で、彼の周りだけバリアが張られたように、淡々と時が流れているように感じるのだ。
しかしながら、先ほども述べたように三科君は目立つタイプではない。派手な挙動を見せることは、そうそうなかった。そもそも、彼がアクションを起こすこと自体、極端に少なく、また誰かと接点を持つことも稀である。授業中はもちろん、移動教室や給食中、休み時間に至るまで、クラスメイトと談笑する姿すら皆無と言ってよく、観察者の僕としては代わり映えしない光景が続いていた。
そんな中、一度だけ例外があった。
あれは確か、五月の大型連休が明けた頃。今度は算数の授業中だった。黒板に小数の割り算の問題が出題され、クラスのみんなはそれをノートに書き写し、筆算を使って解いているところだった。
縦方向に、微かな揺れを感じた。それが徐々に大きくなり、教室の何人かが手を止め、顔を上げ始めた。「地震?」と誰かがこぼしたのと同時に、大きな横揺れがきた。僕たちの教室は四階で、みんながノートに立てていた鉛筆が、進行方向を狂わされるほどの振動だった。
クラス一同が騒然とした、と続けるのが順当な描写なのだろうが、そうはならなかった。
がたりと音がして、クラス中が音のあった方を向いた。揺れにより何かが落ちたのかと思ったが、そうではない。三科君が椅子を引いた音だった。
教室中の目線を一身に浴びつつも、三科君は表情を変えることなく立っていた。と思うと、すん、としゃがみこみ、身体を横にして机の下に潜り込ませた。そのまま教育用のDVDにできそうなほど無駄のない動きだった。僕が「あぁ、避難訓練でやったやつだな」と呆けた顔でそれを見ていると、誰かが同じように椅子を引き、机の下に潜り始める。そこから、ポツポツと降り始めた雨が驟雨に変わるような速度で、クラス中に同じ動きが広がり始めた。慌てて僕もその群れに加わった。
余談だが、この時僕がなかなか机の下に潜らなかったことを、クラスの誰かが密告したらしい。僕は林田先生にこっぴどく怒られた。林田先生は学年主任も務める厳しい先生で、その場で僕はなかなか言い返せなかったのだが、その実「あれは三科君が早すぎる」と思っていた。緊急時に皆が皆、あそこまでの対応ができるだろうか。あの地震で、他のクラスでは棚に飾っていた花瓶が落ちて割れたらしい。それほどの揺れだった。三科君が先陣きって冷静な行動をとったおかげで、みんながパニックにならずに済んだのだ。
帰り際のホームルームでは、各々が連絡事項などを伝える時間が設けられている。僕はそこで、思い切って三科君の行動が素晴らしかったことを発表した。しかし、周囲を見渡しても、ピンときている様子は見当たらない。そういう、誰かが称賛された際にいつも起こる拍手も、この時はまばらだった。当の三科君も、嬉しそうにも悲しそうにもせず、「ありがとうございます」と頭を下げただけだった。
どうやら三科君のすごさに気付ける人は少ないらしい。そう気付いたのはこの時だった。
確かに、どこがどうすごいのかと言われれば、うまく説明するのは難しい。それほどエピソードがあるわけでもないし、あったところで胸躍るドラマや意外性を感じさせる類のものではない。共感を得ることは困難だろう。
それでも僕なりの考察を続けさせてもらいたい。
冒頭、彼の纏う雰囲気を「落ち着き」や「気品」と表現したが、核心はそこではない。三科君が持つそれらの根底にあるもの。それは「強さ」ではないか、と思う。
「強さ」。「確かな自分」と言い換えてもいい。漢字がわからなくても、大きな地震が起こっても、揺らぐことのない自分。三科君はそれを持っているように思われる。
そこに思い至ってようやく、何故こうも三科君に目を引かれてしまうのか、合点がいった。多くの人が着目しない中、こうして彼のすごさに気付けたのは、僕がそうした「強さ」を持たない、彼とは真逆の人間だからだ。
昔から、僕は自分に自信がない。自分の行動が正しいものなのかどうか、確信が持てない。
例えば、「勉強を教えて」とお願いされれば、ここはこうであそこはああでと、解答までの道筋を答えることができる。しかし、「相談に乗って」と言われれば、途端に口ごもり、途方に暮れてしまうのだ。どこをどう考えればいいかわからないし、よしんば何かしらの結論にたどり着いても、それが果たして有効なのものなのかわからない。それが申し訳なくて、世間一般に言われる当たり障りない見解や文句を引用し、お茶を濁してしまうこともしばしばだ。
林田先生はよく、僕のことを優秀だと言う。そして、だからもっとクラスを引っ張るような役割を、と求めてくる。きっと前段の「勉強ができる」という僕の側面をとらまえてそう言うのだろうが、しかし、リーダーに求められる素養は、そんなものではきっとない。答えのない問題にぶつかって、それを乗り越えていける人じゃないと、到底無理だ。
三科君は、きっとそれができる人だ。
対して、僕はそうではない。
だから、クラスでいじめが起こっていたとしても、何も行動できずにいるのだ。

僕たちのクラスには、いじめが存在する。いじめられているのは黒川君で、いじめているのは誰だかわからない。
黒川君は九月から僕らの学校にきた転校生で、そして何も話さない子だった。初日、黒板の前に立った時もただ頭を下げただけで、よろしくお願いしますの一言もなかった。話さない、というのはやや不正確で、黒川君は話せないらしい。林田先生から彼の紹介があった時に、その説明が簡単にあった。どうやら黒川君のそれは精神的な疾患によるもので、物理的に声が出ない、というわけではなく、ただ自分の殻に閉じこもっている、そうすることで自分を守っている状態なのだ、と林田先生は言っていた。
黒川君はいつもよれよれの服を着ていて、目が細く、唇がとんがったような形をしている。なんとなく陰気で、不機嫌そうな印象を与える風貌をしていた。加えて何も話さないのだから、クラスに溶け込めるはずもない。転校当初、幾人かがコミュニケーションを試みたものの、一週間も経たないうちに、彼に寄り付くクラスメイトはいなくなっていた。
当初、それは優しさや気遣い、思いやりの類から来るものだったように思う。黒川君の異様さからは、彼がなんらかの事情を抱えていることがありありと伝わってきたし、それらは小学五年生の子供の手に負える代物ではないことも容易に察せられたからだろう。
自分たちが気軽に話しかけたぐらいで彼の心の扉は開くことはない。にも関わらず、執拗にそれをノックし続けるのはナンセンス。彼が内側から扉を開けようとするまで、気長に待つことにしようぜ。
誰が言葉にしたわけではないが、そんな暗黙の了解と達観が僕らの教室には漂っていたように思う。
幸いなことに、僕らのクラスはそんな思いやりが芽生えるに足りる、豊かな土壌を備えていた。しかし、その新芽を育てて開花させるには、誰かが水をやり続けなくてはならない。
その誰かが名乗りをあげるのを待たずして、新芽は枯れゆくことになる。
事の発端は御園さんが泣いてしまったことだった。
御園さんは、一言で言えば「お嬢さま」な女の子だ。髪は栗色で長く、いつも白いブラウスを着ており、態度は控えめ、口調もおっとりしている。ピアノを習っていて、音楽の時間によく伴奏を担当するのだが、他にも腕が立つ子がいる中で彼女が選ばれるのは、偏にピアノを弾いている姿が様になるからだ。そしてそんな優遇に、誰も文句を言うことはしない。慎重に、丁寧に。その生まれ持っての雰囲気からか、誰もが、まるで雛人形を扱うかのような配慮を御園さんには向けていた。
そんな御園さんの席は、黒川君の一つ前だった。正確に言うと、御園さんの後ろ、空いていたスペースに黒川君の席が設けられたのだが、とにかく、この二人が縦一列に並ぶことになった。
僕は、図画工作の時間で使う筆洗を想起した。すでに筆で汚された濁った水と、まだ筆が差し込まれていない透明な水が、プラスチックの仕切り一枚挟んで隣接している様子。御園さんと黒川君の並びは、そんな危うさを感じさせるものだった。
黒川君が来て、二週間ほど経った頃だった。授業中、御園さんが急に泣き出した。漢字の書き取りのプリントが配られ、各々がそれを解いている最中だった。鉛筆の音がさざなみのように響く中で、すんすんと鼻をすする音が聞こえる。誰かが「御園さん、大丈夫?」と声をかけたのをきっかけに、それまで押し殺していたのであろう嗚咽が、彼女の口から漏れ始めた。
プリントに向き合っていたクラスの面々も、御園さんに顔を向け始めた。「具合が悪いの?」「どうしたの?」と声がかかる。御園さんは肩を震わせ、「ごめん」「ごめん」と首を振るばかりだった。
一時騒然としていた周囲が、訳がわからず途方に暮れ始めた頃、ようやく御園さんが口にした。

「黒川君が......怖くて......」

その後、御園さんがしゃくり上げながらも漏らした言葉を繋ぎ合わせ、要約すると、次の通りだった。
①無口で無表情な黒川君が、初めて見た時から自分は怖かった。
②そんな黒川君が自分の後ろの席に来た時は、どうしようかと思った。
③黒川君が後ろの席になってから、いつも背後から睨まれている気がして不安を感じていた。
④席が近いから、必要に迫られて話す機会もあるが、そんな時でも黒川君は無反応で、悲しかった。
⑤そんな気持ちのまましばらく過ごしていたが、今日も黒川君の前の席に座ると思うと、だんだん学校へ来るのも辛くなってきた。
⑥先ほど、前から回ってきたプリントを私は黒川君へ渡そうとしたのだが、受け渡しが上手くいかず床に落ちてしまった。私は謝ってそれを拾おうとしたが、黒川君がそれを奪い取るように持ち去っていった。
「私、わざと落としたんじゃないのに……そんなに怒らなくても……」
最後にそう溢して、御園さんは口元を押さえながら席を立ち、教室を出て行った。御園さんと仲のいい斉藤さんが「つぼみちゃん」と彼女の名を呼んで追いかけて行った。
よくなかったことが二つある。
それは、御園さんが皆が聞いているその場で自分の思いを吐露したこと。
そして、その思いを聞いてもなお、黒川君が無表情で無反応だったことだ。
教室の中で渦巻いていた御園さんを心配する空気が、段々黒川君への憤りに姿を変えていくのがわかった。
「何だよ、あいつ」「御園さんにあんな思いをさせて、何とも思わないのか」「何とか言えよ」「大体、何であいつに気を遣わなきゃいけないんだ」「何様だ」
そんな心の声が、ゆらゆらと陽炎のように、教室に揺らめき出したようだった。
そしてそれは、やがて行動になって現れ始めた。
体育の時間、男女に分かれてドッジボールをしていた時だ。猿渡君が黒川君に、至近距離から強い球を投げつけた。
男子のチーム分けには偏りがあり、金髪の村井君や大柄な猿渡君など、運動神経の良い面々を擁するチームが有利にボールを回していた。内野から外野、外野から内野と往復する送球に、対するチームの男子達はコート内を縦横斜め、思い思いのベクトルで逃げ惑っていた。そんな中、黒川君はいつもの無表情のまま、走るとも歩くともつかない速度でうろうろしていた。
外野からのボールを、猿渡君がコートの真ん中でキャッチ。ちょうどその真正面に、黒川君が半ば背を向けた形で、ひとり逃げ遅れたようになっていたところだった。
猿渡君は胸を大きく反らせ、一メートルほどの距離もない黒川君に向け、ボールを持った腕を振り下ろした。
ばちん、と言う破裂音と、どご、という鈍い響きが混じった音がした。黒川君に当たったボールは地面を叩き、それでも勢いを殺せずコート外へと飛び出していく。流石の黒川君も腕を押さえて、蹲った。顔は見えなかったが、あんな球を喰らって表情を変えずにいられる訳がない。
試合は自ずと中断となったが、かがみ込んでいる黒川君に近づく者はいなかった。隣のコートの女子たちも手を止め、こちらを見ていた。
しばらくして、黒川君はボールが当たった部位を押さえながら、立ち上がり、黙って外野へと歩いて行った。冷ややかな沈黙の中、黒川君の靴音が鳴る。たまらなくなって、「黒川君、大丈夫?」と僕は声をかけたが、返事はなかった。
「猿渡、強烈過ぎ」村井君が言う。猿渡君は、「悪い。強く投げすぎた」と吐き捨てるように返した。軽く手を挙げたものの、黒川君の方を見向きもしなかった。
あくまで体育の授業中のアクシデントとも言え、猿渡君を真正面から責めることはできない。しかし、そこに悪意があったことは明らかだった。否、明らかだと思わせるに足る険悪さがあった。
あの日を皮切りに、それまで燻っていたクラス中の憎悪が、事あるごとに噴出するようになった。それは、最初こそ休み時間のひそひそ話であったり、給食の時に机をくっつける際の距離感だったりの目立たぬものだったが、次第にクラス会議が開かれるほどの大ごとに転じていった。
ある日の昼休み。黒川君の机が、水浸しになっていた。給食後の掃除時間が終わり、みんなが思い思いに午後の授業までの時間を過ごしている中、黒川君だけが席に座れず立ち尽くしていた。まるでそこだけスコールでも降ったかのように、黒川君の机の板が濡れて黒々と輝き、端から滴る滴が辺りの床を濡らしていた。
周囲の席の子(ちなみに、すでに御園さんは席替えで黒川君から離れていた)は自分が濡れないよう、少し机を動かしながらも、我関せずといった風に談笑に興じたり、次の授業の準備をしたりしていた。僕が教室に戻った時にはすでにその状況で、皆が平常を装っている中、一人だけ眉ひとつ動かさずに棒立ちでいる黒川君の姿が、異様さを際立たせていた。
さすがにこれはアクシデントでは済まされない。そのまま午後の授業が始まることはなく、クラス会議が開かれる運びになった。
どうして黒川君の机だけびしょ濡れなのか。
誰がこんなことをしたのか。
当然の糾弾が始まるも、しかし全員が全員、口をつぐんで話し出そうとしない。「○○君はどう思う」「○○さんは何か知らないか」。名指しで問いかけられても、「わかりません」「知りません」という答えが返るだけだ。一ミリも真相に迫る気配がない。僕も、遅れて教室に入った身であるから、一体どういう経緯でこうなったのか、見当がつかなかった。ドッチボールの時と同じく、猿渡君あたりがまた悪さをしたのではないか、と想像するほかない。だが、猿渡君も他のみんなと同様に、そ知らぬ態度でいるばかりだった。
結局、誰も口を割ろうとはせぬまま、埒が明かない状況となり、「こういうことはよくない」「このままやり過ごして許されると思ったら大間違いだ」「こういう時に素直に謝れるかどうかは、大人になってからも重要になる」「逃げることを覚えてはいけない」という本来の趣旨とは外れたお説教のもとで、クラス会議はお開きになった。
一連の光景に、僕は背筋が凍る思いだった。犯人が見つからなかったことに、ではない。それを誰も明るみに出そうとはせず、クラス中のみんながだんまりを決め込んでいたことが怖かった。こうなった時点で、誰がやったかを見つけ出すことに意味はないのではないか、とも思った。もはや誰が黒川君の机に水をぶちまけていてもおかしくない。そんな異常事態にまで、僕ら五年一組は陥ってしまったのだ。
僕たちのクラスにはいじめが存在する。いじめられているのは黒川君で、いじめているのは誰だかわからない。
わかってもわからなくても大差ないほどに、誰しもに負の感情が伝播してしまっていた。

そこで、三科君である。
そこでというのもおかしな話だが、しかし僕にとっては、ここは三科君しかいないところだった。
あの揺るがぬ自己を持つ三科君であれば、この異常事態においても正気を保っているのではないか。三科君であれば、何かしらの光明をもたらしてくれるのではないか。そう思った。もっと端的に言えば、「いじめはよくない」という至極真っ当な正論の旗を、臆病風に吹かれることなく掲げてくれるのではないか、と期待していた。
黒川君へのいじめが常態化してしまってからというもの、僕の目はいつも以上に三科君を追うようになっていた。
三科君の態度は、良くも悪くも「普通」だった。
お通夜のようなクラス会議の最中においても、三科君は真面目な顔をして黒板の方を向いていた。休み時間、何人かが黒川君の方を見ながら嫌な笑みを浮かべている時も、一人黙って本を読んでいた。理科の実験で誰かが黒川君にぶつかり、彼の持っていたフラスコが割れてしまった時も、遠巻きにそれを見ていただけだった。
それを「普通」と称してしまうことの是非はともかく、三科君は何ら目立った行動を示そうとはしなかった。沈黙を破って犯人を告発することも、陰口を注意することも、割れたフラスコの片付けを買って出ることもない。その他大勢と同じく、我関せずの素振りを続けるだけだ。
誠に勝手ではあるが、僕は何だか拍子抜けしてしまった。どうした三科君。まさか君とて、この状況を良しとしているわけではあるまい。真っ当な倫理観を持ち合わせていれば、黒川君へのいじめが深刻化していることに胸を痛めているはずだ。そしてそれを甘受しているクラスの雰囲気を憂いているはずだ。その真っ当さを失わない強さを備えているのが、三科君、君という人ではないのか。

「怖いからです」

僕の問いかけに対して、三科君はそう答えた。
ある日、痺れを切らした僕は三科君を呼び出した。
同じクラスになって七か月が経とうとしているが、三科君とちゃんと話すのは、これが初めてだった。これまで離れた場所からその一挙手一投足を眺めていた彼に、ようやく僕は一対一で相対する機会を得たのだ。積もる思いもあってか、声をかけるときは、まるで有名人にサインをお願いするような緊張と高揚があった。
対する三科君は、突然の依頼に眉ひとつ動かすことなく、「わかりました」と二つ返事でそれに応じてくれた。彼からすれば、僕に声をかけられることなど、何の感慨もないイベントであるようだった。僕が待ち合わせ場所に着いた時も、平然とした面持ちでそこに立っていた。
待ち合わせ場所は、今は使われていない空き教室だった。照明が取り外され、明かりは窓からの採光のみ。掃除も行き届いていないので埃っぽい。予備として保管してある机と椅子が、無秩序に置き去りにされていて、薄暗さと相まり、荒廃的な雰囲気が漂っている。昔、児童数が多かった頃は使用されていたらしいが、僕がこの学校に通い始めた頃にはすでにこの寂れようであった。あまり寄り付きたくない場所だが、だからこそ秘密の会話にはうってつけなのだろう、以前、クラスの女子がここで話し込んでいたのを僕は覚えていた。
本当は、ホームルームが終了してすぐに落ち合う約束だったのだが、僕が林田先生に呼び出されてしまったので、随分と遅れてしまった。それでも、三科君はちゃんと待っていてくれたらしい。ランドセルを背負っているところを見ると、さすがにここに来たのはついさっきのようだが、彼の時間を大幅に奪ってしまったことには違いなかった。
「三科君」
僕の呼びかけに、窓の方を向いていた三科君はこちらを見た。
差し込む西陽に照らされ、白い肌がほんのりオレンジ色に染められている。ポロシャツにハーフパンツ、ハイソックスにスニーカー。それら小学生に似つかわしいファッションとは対照的に、表情は成熟した落ち着きを纏っている。そうそう、これが三科君だ。僕はおかしな感慨を覚える。
僕が立っているからか、三科君も座ろうとはしない。こちらをじっと見つめている。
だが、
「すみません。何ですか」
さすがに訝しく思ったのか、三科君の方から訊ねてきた。僕はすぐに謝り「とにかく座ろう」と目線を外す。緊張からか、胸がざわざわしていた。
三科君はランドセルを下ろし、手近にあった座席についた。僕もその前に椅子を運び、机を挟んで彼に向き合うようにして腰掛ける。
「ええっと、ごめんね。遅れて」
「いえ。大丈夫です」
デフォルトがこれなのか、それとも待たせたことを怒っているのか。やや険のある感じだ。敬語なんて使わなくていい、かしこまらないで、と言っても、この方が話しやすいので、と応じてくれない。彼らしいと言えばらしいが、少しやりづらかった。
「何の話でしょう」
三科君が言う。ちらりと時計を見ると、下校時刻まであと十分もない。確かに、アイスブレイクの時間はなさそうだ。
気付かれぬよう、小さく息を吸って、僕は話し始めた。
黒川君がいじめられている。クラスの雰囲気が悪い。三科君もそう感じていると思うけれど、何も声をあげないのはどうしてなのか。そういう意味合いのことを、やや周りくどい表現を用いつつも伝え、問うた。決して三科君が悪いわけではないので、彼を責めるような口調にならぬよう、心がけた。
「怖いからです」
ひとしきり話し終えた後、三科君は答えた。言葉の中身とは裏腹に、臆することのない口調だった。
「えーっと、怖いっていうのは……」
あまりに端的な返答に、頭が追いつかない。怖い。何がだ。
「黒川君を助けることによって、自分がいじめのターゲットになることが、です。おそらく、みんな同じような理由で、黒川君に加勢しないのでは」
おぉ、と僕は小さな感嘆を漏らした。
いじめを批判すると、自分がいじめられかねない。
確かに、そういうシンプルな理由こそが、誰しもがこの状況を打破できない理由の根幹なのだろう。集団の輪を乱すことへの恐怖。それは異質であることへの恐怖と言い換えてもいい。出る杭は打たれる。特にクラスという閉鎖された環境では、その傾向は顕著だ。
その危険性を否定する気は僕とてない。しかし、三科君が動かぬ理由が、そういう類のものであるとは意外だった。言葉を選ばずにいうと、平凡で意外性がない。三科君がそれを口にすること自体が、意外であるとも言えるぐらいだ。
「三科君は……面白いね」
思わず出た僕の呟きに、「面白い?」と三科君は眉をひそめた。
「あぁ、ごめん」咄嗟に謝る。いきなり呼び出しておいて、面白い、だなんて失礼だ。「でも、意外だったんだ。三科君は、他の人とは違う考えを持ってそうだったから」
「どういう意味でしょう」
訊ねられ、僕はいい機会にとばかりに、三科君に対して抱いていた思いを吐露し始めた。漢字がわからなかった時や、地震が起こった時。揺るがず自分を貫いていた君をすごいと思っていた。だから君の意見が気になって、こうして呼び出してしまったんだ、と。
「地震の時も、すごかったよ。誰よりも真っ先に行動してさ」
「はぁ」
「僕がホームルームで発表したの、覚えてないかな」
本当は、ずっとこうして称賛の言葉を送りたかったのかもしれない。憧れのヒーローに想いを伝えるかの如く、僕は興奮し、口調は熱を帯びたものになった。ひとしきり話し終えた後に、少し息が上がってしまっていたほどだった。
しかし三科君は、今一つピンと来ていないのか、僕の熱弁中、終始ぽかんとした表情のままだった。どうやら、三科君自身も、自分のすごさを自覚していないらしい。彼にとっては、あくまで当たり前の振る舞いをしただけであり、それらのどこが特異に映るのか、想像もつかないのだろう。三科君が三科君でいることは、三科君にとっては無自覚で、何の変哲もないことなのだ。
その様子を見て、僕は思い直す。
先ほどの返答も、考えようによっては三科君らしいのかもしれない。
自分がいじめの対象となるのが怖いから、助けない。それは確かにひとつの真理ではあるが、美徳であるとは言い難い。むしろ、醜い本音だ、と非難されてもおかしくないだろう。
しかし、そんな誰しもが抱える醜さを、三科君は包み隠さず口に出した。そこには恥じらいも打算も見受けられなかった。
そんなこと、彼にしかできないのではないか。
そう。やっぱり三科君は、僕が思った三科君なのだ。
「三科君。君は何で、黒川君がいじめられているんだと思う?」
「え?」
急な質問に戸惑ったのか、三科君は目を丸くする。僕とて、こんなことを訊ねるつもりはなかった。ずっと憧憬の的だった「三科君らしさ」。それを目の当たりにし、もっと彼の思考に触れたい、と思いが先走ったのか。気がつけば問いを口にしていた。
三科君は一瞬困ったように眉をひそめたものの、すぐに取り直し、思案するような顔になった。
「多分、それも怖いからだと思います」
「怖いって……今度は何が?」
「黒川君が、です」三科君は答えた。「黒川君は、何も喋らないし、何も感じていないように見えます。僕らからすれば、彼が何を思っているのか、よくわからない」
その通りだ。
何しろ常日頃、表情ひとつ変わらないのである。それでは誰にも、もちろん僕にだって、黒川君の考えは読み取れない。
「自分と同じ空間に、何を考えているのかわからない人がいる。それはどう考えたって、恐怖でしょう。黒川君が自分と同じ場所にいることは、少なからず僕たちにとってストレスだった」
教室に蜂が迷い込んできたところを想像してください、と三科君は言った。ブーン、という羽音が授業中に聞こえ始め、僕らの平穏を乱す様を、思い描いてください。黒川君はそれと似ています、と。
「でも黒川君は人間です。蜂が来れば窓から追い出せばいいけれど、そうは行かない。だから僕らは羽音が聞こえながらも、じっと黙っているしかなかった。でも蜂が誰かを刺したとしたらどうでしょう」
蜂が、黒川君が、誰かを刺す。脳裏に過ぎったのは、もちろん、御園さんの泣き姿だった。
「教室に舞い込んだ蜂に、クラスメイトが危害を加えられた。そうなったら、窓から追い出すだけじゃ済まない。その蜂を退治したいと思うのが自然ではないでしょうか」
危害を加えたことへの、報復。
そして、これ以上の被害を抑えるための、防衛。
「それが黒川君へのいじめの原因……?」
「簡単に言えば、そうじゃないか、と僕は思います」
驚いた。今の話を聞くと、まるで悪いのはいじめている方ではなく、黒川君だってことになる。
「それは、あんまりだよ。だって、黒川君は何も悪いことをしていない」
「その通りです。でも、御園さんは傷ついた」
三科君の答えに、僕は何も言い返せなくなる。
なんてことだ。
つまり、誰も悪くない。これは仕方のないことだ。三科君はそう言いたいのだ。
僕ら五年一組で起こっている悲劇が、誰のせいでもないだなんて。黒川君への憎悪や暴力が、台風や地震のように、避けることのない災厄だとでも言うのか。
そんなの、やりきれない。あまりに黒川君がかわいそうだ。
しかし、どうだろう。もしそれが真実だとしたら、あのクラス会議での沈黙も納得がいく。つまり、誰も悪くないのだから、誰も口を開こうとしない、できないのだ。「こんな台風が来たのは誰のせいだ」と問い質されても、「そんなことを言われても」と困ってしまうのは、当然のことではないか。
いやいや、落ち着け。それは違う。黒川君に危害を加えた張本人は、確かにいるのだ。ドッジボールで剛球を喰らわせた猿渡君然り、机に水をぶちまけた誰かしら然り。彼または彼女らの道徳心がそれらを食い止めていれば、この災厄は起こり得なかった。これは天災ではない。人災だ。
でも。猿渡君だって根はいい子だ。他のみんなだって、決して普段から冷血なわけじゃない。そんなみんなの道徳心を麻痺させてしまうほどの原因がそこにはあった。三科君が言っているのは、その原因こそが避けることのできない天災だと。そういう意味なのだ。
危害を加える者への、恐怖。それを抑えることは、誰にもできない。
「それじゃあ、どうすればいいんだろう」
「……はい?」
「どうすれば、いじめはなくなると思う?」
西陽が強くなり、三科君の肌に浮かんだ陰影が一層濃くなる。心なし、眉根に影が寄っているように見えた。
「そんなこと、わかりません。同じように頭を捻っている人が世の中にはたくさんいて、それでも有効な解決策が見つからずにいるのでは」
にべもない。だけど、言わんとしていることはわかる。さっきの三科君の考察が正しければ、相手にすべきは人が抱く恐怖そのものだ。大袈裟に言えば、古来から人類が立ち向かってきた天敵である。ここで僕ら二人が数分の議論を交わした程度で、それを払拭する糸口が見つかるとは思えない。
「どうしようもありませんよ」
三科君が言う。
「黒川君の性格が劇的に変わって、良好なコミュニケーションがとれるようになればまた別だけれど、そんなことはまず起こり得ない。彼への恐怖心は消えることはないでしょう。となれば、酷な言い方ですが、このままの状態をキープするしかない。せいぜい度が過ぎる嫌がらせが起こらないよう、小さな火種を見逃さないようにするぐらいです」
「でも、僕らは卒業までずっとこのクラスなんだ。そんな状態で、五年生の残りも、六年生の間も過ごし続けるんだよ」
「そうです。そして大事に至らないまま、卒業まで持ち込めれば御の字です」
「そんなの駄目だよ!」
思わず出た大声は、二人しかいない教室にわんわんと響いた。床や天井、四方の壁がその残響を吸い込み切るのを待つような、気まずい間が空く。
三科君は、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。わがまま言うな、仕方ないだろう。そう制されているような気になって、たまらず顔を背ける。
「何か……何か、できることはないの?」
「例えば?」
「例えば、って……」
考える。しかし、何も思い浮かばない。
そもそも、僕の方が三科君に何かしらの答えを求めて呼び出したのだ。三科君から問い質されるなんて、これじゃあ立場が逆じゃないか。
「わからないよ。三科君は、何か思いつかない?」
「今言ったとおりです。どうしようもありません」
「だから、その状況でもできることはないか、って」
「わかりません。どうして僕に聞くんですか」
「さっきも言ったじゃないか。僕は三科君をすごい人だと思っているんだ。きっと君は、もっと違う人、例えば林田先生なんかに相談すべきじゃないかと言いたいんだろうけれど、僕は……」
「そうじゃありません」
「え?」
「僕が聞きたいのは、どうして自分で考えようとせず、僕に聞こうとするのか、ということです」
問いかけに、逸らしていた目線が、三科君に引き戻される。
いつの間にか差し込んでいた陽射しは弱まり、教室は淡い暗闇に包まれ始めている。その中で、三科君の両目は鋭利な光を放ち、僕を捉えていた。
どうして自分で考えようとしないのか。
よりにもよって、三科君にそれを訊ねられるなんて、とても決まりが悪い。
「僕じゃあ、駄目だよ」
「どうしてですか」
静かに息を吸い、気を落ち着けようとする。しかし、鼓動は速くなる一方だった。
「……駄目だよ」
ひとつ唾を飲み込むと、胃がそれを拒絶するように扇動した。嘔吐感に合わさるようにして、言葉がぼろん、ぼろんと溢れ始める。
「試験問題ならいざ知らず、こういう答えのない問題に、僕はてんで弱いんだ。恥ずかしながら、それが何故だか、自分でもわかっている。僕はね、三科君、君みたいにしっかりした自分というものがないんだよ。答えがなければ、自分の考えでやるしかないだろう。でも、大地がなければ花が咲かないように、自分がなければ自分の意見も生まれない」
「よくわかりませんが」
「そうだね。君にはわかりっこない」
「今のが、僕の質問への答えですか」
「そうだよ」
「でもそれは、できない理由であって、やらない理由ではありません」
無理やりに、空気の塊を口の中に押し込められたような。そんな衝撃を喉に感じた。
できない理由であって、やらない理由でない。
「それは……」
「何故、やろうとしないのですか」
もう一度、同じ質問が来る。
「だから、できないからだよ」
「できないというのは、成功しない、という意味ですか」
「そうだ。僕みたいな半端者は、やったところで、失敗する」
「失敗しては、いけませんか」
「いけないに決まっているだろう」
「どうしてですか」
「どうして、って……」
林田先生の顔が浮かんだ。
「だって……失敗すれば、非難される」
いつも僕を叱る、あのしかめ面。今日、ここに来る前も僕はそれを見てきた。
「そう。さっきだって……」
クラスの雰囲気が悪い、と誰かの親から苦情が入った、とのことだった。
娘の交換日記を覗き見たら、特定の生徒への罵詈雑言が連なっていた。どうなっているのか。そんな申告があったらしい。
「一体何をやっているのか、と詰め寄られたよ。何か対策を、と言われたけれど、どうしていいかわからない。答えられずにいると、責任感が足りない、とまた叱られた」
「だから、僕にその答えを聞いてきた」
「……いや、それは……」
「失敗して、非難を浴びたくないから」
急に羞恥心が胸を迫り上がってきて、耐えきれなくなり下を向く。のっぺりとした机の天板が、視界を埋め尽くす。
「僕じゃあ、駄目なんだ……自信がない……」
ほとんど空気と変わらないような、かすれた声しか出なかった。
扉を隔てた向こう側、廊下を幾人かが通り過ぎていく。ランドセルの軋む音と上履きの擦れる音でそれがわかった。
どうやら、いつの間にやら下校時刻を過ぎてしまっていたらしい。この教室はスピーカーが切られているので、チャイムの音が聞こえてこなかったのか。
三科君もそれに気付いたのか、椅子を引き、立ち上がる。
「帰ります」
「うん、ごめん」
ここまで付き合ってくれたのだ。礼を言うべきところなのだろうが、謝る気持ちがそれに勝った。
「きっと、足りないものは、責任感も自信でもない、と思います」
「え」
顔を上げると、淡かった暗闇は黒々と深まり、三科君の肌がぼんやりと青白く浮かんで見えた。
「さようなら、先生。完璧主義もほどほどに、ゆっくりお休みになって下さい」

林田先生が、僕の住むアパートを訪ねて来たのは、僕が体調を崩し、学校を休むようになってからしばらく経った頃だった。その間に年は明け、五年一組は三学期を迎えている。その日は雪がちらついていて、玄関に現れた林田先生の肩には、薄ら白いものが積もっていた。
「ご体調はいかがですか」
六畳一間の真ん中、折りたたみ式の簡易テーブルを挟んで僕らは向かい合った。僕が入れたお茶に口をつけるよりも前に、林田先生は訊ねてきた。
「胃の方は、もう大丈夫です。ただ、出勤しようとすると、まだどうにも……」僕は答えて、頭を下げる。「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「いや、今はゆっくり休んでください」
林田先生は、いつもの低く渋い声でそう言った。角刈りの頭に、深く刻まれた皺、口元の黒髭は相変わらずだが、どうだろう、少し痩せたような気がする。
「クラスのみんなは、元気ですか」
僕が休業に入ってからは、林田先生が五年一組の担任を代行してくれている。
「えぇ、まぁ……」林田先生は、目を逸らして、そこで初めてお茶に口をつけた。一口飲んでから、「すみません。いただきます」と思い出したように断る。らしからぬ慌てぶりだ。
「あまり、状況は変わらないようですね」
「いえ、そうではないのです」林田先生は湯飲みをテーブルに置いて、僕を見た。「実は、黒川がまた転校することになりました」
「え?」
突然の報告に、上擦った声が出てしまった。
黒川君が、転校。
「いつですか」
「二月からです。ここだけの話、何人かの保護者からも要望がありました」
「そうですか……」
何とも言えぬ感慨を覚えながら、僕も自分の湯飲みに手を伸ばそうとした時だった。突然、林田先生が机から体を離し、頭を下げた。
「南先生、この度は申し訳なかった」
「あ、いや、そんな」
頭を下げたまま、林田先生は続ける。
「ほぼ新人のあなたに、あのクラスは荷が重かっただろう。それをフォローするのが私の役目だったのに、私はあなたを責めることしかしていなかった。あなたがその優秀さにかまけて、怠けていると思い込んでいたんだ。それが、まさか一組があそこまで大変なことになっていたとは……」
「頭を上げてください」
「あなたが胃潰瘍で倒れた時から、ずっと謝ろうと思っていた」林田先生は動かない。「挙句、代理を務めた私も、あのクラスを立て直すことはできなかった。黒川は……」
そこで言葉につまり、林田先生はようやく腰を伸ばした。顔が赤く火照っていて、薄ら涙が目に滲んでいる。剣道の立ち会い前のような姿勢で、ふぅー、と太い息を吐く。
「駄目ですな。もう二十五年もこの道にいるが、こういう事態にはとんと慣れない。あいつらにとっても、黒川にとっても、果たしてこれが一番いい結末だったのか。しかし、他に何ができただろう、と思うと、どうにもやり切れません」
「……林田先生でも、ですか」
「はは。私など、経験を積んだだけで、大した器ではありません」ふ、と笑って、また林田先生は真顔になる。「長くやっても、この程度なのです。だから南先生も、どうか気に病まないでください。あなたが体調を崩す前に、それを伝えておくべきだった」
もう一度頭を下げて、林田先生はまた湯呑みに手を伸ばした。
先生の物言いから、何となく僕は違う学校に行かされるのかもしれないな、と思った。
今のところ、復帰は難しい僕だ。となると、このまま今のクラスには戻れぬまま、年度替わりのタイミングで異動となる可能性が高い。
教卓から見る一組のみんなが頭に浮かぶ。そうか、さよならか。
不思議と悔しさはなく、むしろ清々しい思いがした。
「大丈夫です。今回のことで、僕も身の程を思い知りました」
完璧主義もほどほどに。あの日、言われた言葉を思い出す。それをすぐには飲み込めず、悶々と噛み下し、挙げ句の果てに胃に穴まで空けてしまった僕だけれど、どうやら休んでいる間にうまく消化していたようだ。もしかしたら、休んだからこそ消化できたのかもしれない。
時間がかかったけれど、ようやく君の言いたいことがわかったよ。手間をかけたね。そう伝えたい気分だ。
それからしばらく事務的な話を済ませた後、「そうだ」と林田先生は鞄からクリアファイルを取り出した。
「今日、あなたの家に行くと言ったら、子供達の何人かが寄せ書きを書いてくれました」
テーブルに置かれた透明なファイルに、A4のルーズリーフが一枚が入っている。「早く元気になってください」、「先生が帰って来るのを待っています」。十数人分のコメントが、青、オレンジ、ピンク、緑と統一感のない色ペンで書きこめれている。
「みんな、待っていますよ」
「……ありがとうございます」
嘘が下手だな、林田先生。僕のクラスにルーズリーフを使う子はいないはずだ。きっと先生が、何人かに声をかけて無理矢理書かせたのだろう。メッセージを寄せてくれた面子からも、そんな様子がありありと見て取れた。素直で、頼まれれば断れないタイプの子達ばかりだ。
そんな中に、ふと意外な名前を見つけた。三科君だ。
他の面々がカラーペンで紙面を彩っている中、三科君のコメントは黒のボールペンで一行、端的に書かれたものだった。

『地震の時のこと、ほめてくださってありがとうございました』

一瞬、何のことかわからず頭がフリーズする。後にあの日のやりとりが思い出され、じわじわと、可笑しみが込み上げてきた。
なんだ、それ。この場で言うことじゃないだろう。あの時は無反応だったのに、今になってどうして。
「ふふふ」
自ずと、笑いがこぼれた。
今になって、だからかもしれない。僕が時間をかけ、三科君の言葉をようやく消化したように、彼もまた、僕の言葉を。
そう思うと、なんだか悪くない気がしてきた。
「どうしました、先生。何かふざけたことを書いている奴がいましたか」
「いえ」
僕は首を振って、紙を畳んだ。
にやけ顔を誤魔化すように、窓を見る。レースカーテンと結露で朧げながらも、白雪が散っているのがわかる。
「ありがとうございます。元気が出ました」
「それはよかった。やはり児童からの言葉というのは、励みになりますな」
「えぇ」
僕を励ましたものの正体は、林田先生の想像とははちょっと違うのだが、説明はしない。

三科君のすごさを伝えるのは、とても難しいことなのだ。


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