【掌編】真夜中のテディ
あれも童謡と言うのだろうか、『もりのくまさん』という歌がある。
高校時代、訳あって数ヵ月の入院を余儀なくされた俺は、その歌を毎日のように聴かされる羽目になった。病院のすぐそばに保育園だか幼稚園だかがあり、それに面した窓際のベッドをあてがわれたものだから、幼児の歓声が連日蝉しぐれのごとく襲ってきた。中でも特に耳ざわりだったのが、オルガンの伴奏に合わせて届いてくる『もりのくまさん』だった。
あるぅひ♪ あるぅひ♪
もりのなっか♪ もりのなっか♪
くまさんに♪ くまさんに♪
であぁった♪ であぁった♪
いわゆる輪唱形式、二班に分かれて追いかけっこをするその歌声たちは、次の「はなさくもっりっのっみっちーっ♪」で合流し、一際大きく膨らむ。一番キーが高くなるパートで、幼児たちのテンションも最高潮だ。中には合唱と大声コンテストを履き違えたがなり声も混じっており、優雅なBGMとはとても言えないものだった。
だが、五月蝿いのは構わない。むしろ慣れない入院生活に疲弊していた俺にとって、その活力に満ちた無邪気な声はありがたかった。問題は選曲である。
『もりのくまさん』。
俺はこの歌が、怖い。
かく言う俺も元は赤ん坊としてこの世に生を受けたわけで、成長の過程で彼ら彼女らと同じく幼稚園なるものに通っていた。そこでのカリキュラムにもやはり合唱は組み込まれており、当然のように『もりのくまさん』もラインナップされていた。早い話が、俺も声を張り上げてこの歌を歌った時代がある。
だが、声を張り上げられたのは、最初だけだ。
『もりのくまさん』は全部で四番からなり、ストーリー仕立てで歌詞が展開されていく。ある日森の中で出逢ったお嬢さんとクマが、最終的には共に歌ってハッピーエンドに至る。
その中で、当時から得心がいかない一幕がある。
二番。花咲く森の道で出逢ったお嬢さんとクマさん、その後の場面。
くまさんの♪ くまさんの♪
いうことにゃ♪ いうことにゃ♪
おじょうさん♪ おじょうさん♪
次だ。
―おにげなさい。
同じ不可解を抱いた者も多いのか、後に調べたところ、この歌詞の解釈には諸説飛び交っているらしい。
何故クマはお嬢さんに「逃げろ」と言ったのか。
しかも続く三番以降、クマはお嬢さんを追いかけ、拾ったイヤリングを手渡し、あまつさえ歌って踊って話は終わる。まったくもって脈略が無い。どうせ追いかけるのに、「お逃げなさい」と告げる必要がどこにあると言うのか。
子供ながらに腑に落ちなかった俺は、オルガンを弾いていた保育士にたずねてみた。「おもしろいことに気付くねぇ、のっくんは」。弱った笑みではぐらかす保育士に、裾を引っ張り食い下がる。「どうして」、「どうして」。そのまま解決せずに家に帰るのは、気持ちが悪かった。
しかし、保育士が苦し紛れに出した解答は、結果として今日に至る恐怖を俺に与えた。
「くまさんはねぇ、おなかがすくと人間を食べてしまうの。だから、お嬢さんあぶないですよ、はやくにげてって言ったんじゃないかな」
背筋が凍った。
おそらく寒気と言う感覚を体感したのは、そのときが初めてだったろう。体が金縛りにあったように強張り、しばらく口がきけなかったの覚えている。
おなかがすくと人間を食べてしまう。だからせっかく知りあったお嬢さんを、遠ざけなくてはならなかった。
どうして。自分がそうしなければ、お嬢さんは食べられることもないのに。
そうか。
くまさんは、おなかがすくと、お嬢さんを食べるのをがまんできなくなるんだ。
暗闇の中で俯き、佇んでいるクマの姿が思い浮かんだ。「自分の凶暴性を制御できないが故に、誰にも触れられずにいる、孤独な姿」。今でこそそんな注釈を添えることができるが、当時の俺にはただ、さびしい、かなしい、そんな印象を感じることしかできない。そしてそのさびしさ、かなしさを受け止めることで精いっぱいだった。
以来、俺はあの歌が、怖い。
馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、件の歌詞に思いを馳せる度、あの日感じた悪寒のレプリカが背筋を撫でる。
*
そんなことを今、この時になって思い出すのは、どういうわけだろうか。
照明を切った部屋の中、床に転がせたスマートフォンをタップして、明かりを灯す。暗闇にくっきり浮かび上がったアクアブルーの待ち受けに、時刻表示が見える。
一時三十二分。
とっくに日付、回ってやがる。
ベッドに持たせ掛けた背を、ずるずるとスライドさせる。首元を縁にかけると、美容室の洗髪台のように、頭が上を向いた。毎晩見上げている自分の天井に、不可思議な光の模様が描かれていた。
六畳の1Kという典型的な学生アパートの一室。窓から入り込んでくる街灯の明かりは、部屋全体を青白く染め、まるで水族館の魚になった気分だ。
すうぅ、と音を立てないように息を吐く。それほど飲んでいないつもりだが、アルコールが混じっているのが匂いでわかった。
酔った体で肉体労働をしたせいか、いつにもまして頭が重い。床に寝そべりたい気分だが、ここ数日掃除機をかけていないので、どんな塵芥が積っているかわからない。やや首が疲れるが、このまま寝てしまおうかという想いが過る。
ベッドがあるのに、ベッドの縁に首を持たせて眠っている。その心は。
俺以外の先客がいるからに他ならない。
「んぅん……」
布切れの音とともに、頭部の向こう側で、そいつが動く気配がした。眠りに落ちかけていた頭が、はっと現実に引き戻される。身を起こし、首を捻らせて様子を見た。
タオルケットに包まれた小さな背中が、暗がりの中でなだらかな輪郭を描いている。
しばらく息を顰めていたが、別に目が覚めたわけではないらしい。体勢を戻し、部屋を満たす静寂に、再び身を委ねる。
よかった。もしここで起きられると、いろいろと説明が面倒だ。今日は疲れ切っているので、これ以上のイベントは勘弁して欲しい。
そのまま目を閉じたが、やはり首が疲れてきたので、思い切って床になだれ込む。もともと酒は強い方ではない。そんなところに、小柄な女子とは言え、人一人背負ってここまで連れてきたのだ。しかもその間、何度揺り動かしても起きやしない。体力、気力共に今日の分は使い果たしてしまった。
床の硬さが、接触した頬を鋭利に刺激してくる。腕を伸ばした位置にクッションがあるはずだが、それを取ることすらも面倒くさい。腕枕で代用する。
じりじりとレム睡眠の波が意識を浸食してきた頃、まぶた越しに光の明滅を感じた。続いて、低い振動音何して、薄目を開ける。
振動音は小刻みに続いて、止まない。いつの間にか眠りこけ、朝のアラームが鳴ったのかとも思ったが、周囲はまだ暗がりのままだ。おそらく電話の着信だろう。床に直置きしてあるため、反動音も一際大きく、酒に酔った頭に響いた。
「んん……」
ベッドから呻き声。
まずい。このままだとあいつが起きる。
俺は半身を起こして通話ボタンを押した。
「はい」
声が掠れる。一度送話口を話して咳払いをした。
「あ、出た。もしもし?」
「亜由美か」
先ほどまで飲んでいたサークル仲間だ。外で歩きながらかけているのだろうか、空気の流れる音が背後で聞こえる。
「寝てる?」
「起きてる。けど何時だと思ってんだよ」
「さぁ。とりあえず、終電は無くなった」
とっくにねぇよ。
「今まで飲んでたのか、お前ら」
答えながら、重い腰を上げ立ち上がる。ベッドの人物を起こさぬよう、忍び足で扉の向こうへと移動した。玄関へと繋がる廊下兼キッチンは、やはり夜の闇に包まれ静まり返っている。
「新入生歓迎会だろ。新入生抜きの二次会で終電逃してんじゃねぇよ」
扉を閉めたことを確認し、少しボリュームを上げて、言う。
「あんたがカナちゃん連れて帰っちゃうからでしょう」
「潰れた後輩送ってくのは当然だ」
そして潰したのはお前らだ。
「アルコールは飲ませてないわよ」
「嘘つけ。素面であそこまで寝入るわけがない」
「寝入る?」耳ざとく反応して、亜由美は続ける。「ちょっと待って。カナちゃん、ちゃんと家帰った?」
言葉に詰まる。
あれこれと打算めいた考えが頭を巡るが、どれもうまくない。結局俺は、正直にありのままを告げることにした。
「今、俺の家にいる」
今度は相手が答えに詰まる番だった。背後の音も止まる。
目一杯、間を開けた後、亜由美はやや低めの声で返してきた。
「今から言う質問にイエスかノーで答えて」
「イエス」
「電話、切った方がいい?」
「ノー」
答えつつ、口元がゆるむ。一番目の問いにこれを持ってくるあたり、いかにも亜由美らしい。
質問は続く。
「カナちゃんは起きていますか」
「ノー」
「あなたの家に来るまでに、起きたことはありますか」
「ノー」
「カナちゃん、どこに住んでたっけ」
「知らねぇよ」
なるほど、大体わかったわ。電話の向こうで、頷く気配がする。
「彼女も大学生。何があろうと自己責任かと思うけれど、散々はしゃがせて潰したのはあたしらだからね」
よって、助太刀いたす。
そう言って「佐伯昇」と俺の名を呼ぶ。
「私を失望させるなよ」
電話が切られた。残された俺の世界を無機質な電子音が満たす。スマートフォンを耳から離すと、通話終了を知らせるディスプレイが、まぶしい光を放っていた。
その明かりを切り、音を殺してドアを開け、部屋に戻る。
青白い暗がりの中、『カナちゃん』は先ほどの体勢から一ミリも動いていない。
失望させるなよ。
相変わらず、あいつは人の弱いところを熟知している。どう言えば、俺が動けなくなるか、楔の打ちどころを心得ている。
だが、さすがの亜由美も知らない。
釘を刺されるまでもなく、俺はこの酒に潰れた新入生に手を出せないことを。
無抵抗な女相手に卑劣な真似はできない、というのはもちろんだが、そういう意味ではない。たとえば今ここで眠っている彼女の態度が演技で、実は自分のことを誘っているのだとしても、俺は手が出せない。
あぁ、なるほど。
亜由美のおかげで思い至った。
だから『もりのくまさん』か。
お逃げなさい、だ。
昔、恋仲になった相手を『食べた』ことが、俺にはある。
理由はわからない。『食べた』からには、腹が減っていたのだろう。だが自分が一体何に飢えていたのか。時を置いた今となっても、本当のところはよくわからない。
だが、確かに、俺はそれをした。
約束の時間に遅れるよりもずっと、誕生日を間違えるよりももっと、他の女と寝るよりもきっと。
世の恋人が為す裏切りの数々、それらと同一直線上に並べることすら憚れる所業で、俺は彼女を食らった。食ったものが皿から無くなるのと同じく、当然のように俺は彼女を失った。
失望した。自分で、自分に。
それと同時に恐怖した。
ほんの少し加減を間違えただけで、粉々に砕けてしまうものがこの世にはある。そしてそれがどれだけ大切なものであれ、粉々に砕いてしまう牙を自分は持っている。
お逃げなさい。
あのとき浮かんだ、暗闇に佇むクマの姿に、今の自分を俺は重ねているのだ。
「酒を飲むと、ろくなことがないな」
自嘲気味に呟いて、俺はベッドサイドまで近付いた。
一週間の体験入部を経て、この度正式にサークルに入ることになった『カナちゃん』は、中学生と言っても通るような幼い容姿をしている。喋り方も舌足らずで、行動や言動も子供っぽい。その愛らしさで、すでに部内の妹的ポジションを勝ち得ている。
しかし、そこは彼女も一人の女性だ。ベッドの上で髪を乱して寝入っている姿は、十分な魅惑と色香を纏っている。
でも、触れられない。彼女に被せたタオルケットのずれを直すことすら、躊躇するほど。
動けない。
一体いつまで、このままなのだろうか。
今までも考えなかったわけではない。だが、眠りこける『カナちゃん』を呆然と見つめている自分の姿に、ふと危機感に似た焦りがわき起こった。
いつになったら、自分は誰かに躊躇うことなく触れられるのだろうか。
あのクマは、どうしてお嬢さんを追いかけたんだっけな。今一度、床に腰を落ち着かせ、ベッドの縁に背を持たせ掛け、考える。
おじょうさん♪ おまちなさい♪ ちょっと♪
落し物、か。
白い貝殻の小さなイヤリング。それを落としたお嬢さんのため、クマは走り出した。彼女のために。
自分の内にある凶暴性のことなど、忘れていたのだろうか。だとしたら、それは根本的な解決にはなっていない。イヤリングを返し、お嬢さんにお礼を言われ、一緒に踊ったところで、クマは彼女を食べるかもしれない。
まったく、救いようがない話だ。
目を閉じる。部屋を漂っていた青白い光の残像が、瞼の上でひゅらひゅらと揺れる。
そのまま深海に沈みこむように、俺は眠りに落ちていった。
*
「なんてことでしょう!」
突然弾けた大声に、強制的に目が覚めた。
いつの間にか伏せっていた床から、慌てて上体を起こす。起こした頭のすぐ真横に、目を見開いたカナちゃんの顔があった。
「っつお!」
思わず声を上げ、身体を引く。ごつん、と勢いよく背中をテーブルにぶつけ、視界に火花が散った。
「あ、先輩。おはようございます」
「……おはよう」
背中をさすりながら、目線を戻す。黄色い朝陽に染められた部屋で、寝ぼけまなこのカナちゃんが周囲をキョロキョロと見回している。
距離が近い。離れなくては。
というかこいつ、いつの間に床で寝ているんだ。
そもそもさっきの大声はなんだ。なんてことでしょう、とは?
起きたての脳に、次々と処理すべきタスクが降りかかる。
「ここ、先輩のおうちですか?」
カナちゃんが俺を見る。
「そうだけど」
「私、どうしてここにいるんでしょう」
「新歓で酔いつぶれたお前送ってこうとしたけど、微塵も起きる気配なかったから、仕方なくここに運んだんだ」
「あぁ、それはご面倒おかけしました」
今一つ実感のこもっていない声音で、頭を下げるカナちゃん。どうやら、まだ寝ぼけているらしい。朝目覚めて応じた覚えのない男の家にいたら、普通そんなものではないだろう。
「西澤」俺はカナちゃんの姓を呼ぶ。「まだ寝ぼけてるみたいだけれど、とりあえず言っておくぞ。俺は何もしてないから、安心しろ」
「ほえ?」
「寝てる場所も、最初からこんな添い寝状態だった訳じゃない。ちゃんとベッドに寝かせたから。いつの間にかお前が落っこちてきてただけだから」
「はぁ」
今ひとつ、返事が心もとない。
「俺の言っていること、わかるか」
「わかりますよ」
「お前、名前は?」
「西澤可奈子」
「一たす一は」
「二」
「水飲むか?」
「あ、どうぞお構いなく」
ちゃんと反応しているんだか、いないんだか。もともとこういう天然なところがあるやつなので、真偽はつかめない。
とりあえず俺は、ミネラルウォーターを取りにキッチンへと向かう。カナちゃんには悪いがまず自分の分をグラスに注ぎ、口をつけた。酒焼けした喉に、ひやりとした冷水が沁みる。
部屋へと目を向けると、カナちゃんは、自身のスマートフォンを取り出し、画面に向き合っていた。
なんだか、一人逡巡していた昨夜のことが、急にばかばかしくなってきた。
まぁ、そのばかばかしさが救いでもあるのだが。
グラスの中身を飲み干し、カナちゃんの分を新しいグラスに注ぐ。それを手に、部屋に戻ったときだった。
「ああああああ!」
思わず時刻を確認したのは、アパート暮らしの習性だろうか。七時半。まだ掃除機をかけるのも躊躇われる時間帯だ。
「おい、あんまり大声を出すな」
「先輩、どうしよう」
「あん?」
今頃になって事の重大さに気付いたのだろうか。カナちゃんは眉を下げ、泣きそうな目になってこちらを見上げている。
「コンタクト、したまま寝ちゃいましたぁ」
「……そう」
「どうしよう、目に悪いんですよね。眼科の先生からも絶対取ってから寝なさい、って言ってたし」
どうやらこの度コンタクトデビューしたばかりらしい。
というか、他に叫ぶポイントあるだろう、お前。
「ソフト? ハード?」
「ソフトです」
「まぁ、一晩ぐらいなら大丈夫だろう。洗面所貸してやるから、取ってこい」
「ふああい」
鞄を取り、部屋を飛び出るカナちゃん。しかしすぐさま「洗面所どこですか」と戻ってくる。持っていたグラスを置いて案内し、照明をつけ、ついでにトイレの場所も教えてやる。
ひとり部屋に戻って、ベッドの縁に腰掛ける。頭が重い。このまま横になって、もうひと寝入りしたいぐらいだ。
ふと、そこで足元にスマートフォンが落ちていることに気が付いた。カナちゃんが先ほどまでにらめっこしていた端末だ。
液晶の画面は煌々と輝き、メッセージアプリの画面が表示されたままになっている。
見るつもりなど毛頭ない、にも関わらず文面を目で追ってしまったのは、そこに自分の名前が打ち込まれていたからだ。
内容は二行で済まされた、短いものだった。
『狸寝入り御苦労さま。
でもそれじゃあ、佐伯昇は落ちないよ。』
それを吐いているアイコンは、俺もよく見知った亜由美のものだった。
思考が脳内を巡り巡る。
アルコールは飲ませてない。狸寝入り。早朝の叫びに、画面を表示したままのスマートフォン。
わざと?どこまで?
疑心暗鬼が広がり、両肩をざわざわと羽毛でなぞられたような感覚を覚える。
女って、怖いな。
「先輩、ありがとうございました」
洗面所から戻ってきたカナちゃんが、眼鏡姿で顔を出す。とにかく、スマートフォンには気がつかなかったことにしよう。二度寝に落ちかけていた振りをして、「おう。平気か」と返す。
「はい。おかげさまで」
「とりあえず、水を飲め。何か食ってくか?」
不自然にならぬようのっそりと立ち上がり、足に何か当たったな、という様子で下を見る。「おい、スマホ落ちてんぞ」。そして、そのまま何食わぬ顔でキッチンへ。
すれ違ったカナちゃんが、どう返してくるか気になったが、「あぁ、すみません」と、ただ端末を拾って、鞄に仕舞うだけで、何もない。
「先輩、私すぐに帰りますんで」
「帰る?」振り返る。「大丈夫かよ」
本気でちょっと心配だ。
「お気遣いなく。ご迷惑かけてすいませんでした」
鞄を手に、俺の側を通って玄関へ。昨夜俺が脱がせた靴に、カナちゃんは自ら両足を通す。
「家、こっから近いんだっけ」
俺も玄関に行く。
「はい。自転車を使えば五分程度の距離です」
「一人で帰れる?」
「きっと帰れます」
「あぁ、そう」
「先輩」カナちゃんは、くりりとした両目で眼鏡越しにこちらを見上げる。「ご迷惑をおかけしました。今後ともよろしくお願いします」
なぜだかそこで敬礼をして、カナちゃんは部屋を出ていった。
しばらく待ったが、「先輩、ここどこですか」と戻って来る様子はない。
「狸寝入り、ね」
とりあえず顔でも洗おうと洗面所に戻ると、彼女が剥がしたくしゃくしゃになったコンタクトレンズが床に落ちていた。ゴミ箱に捨てようとして、失敗したらしい。それをつまみ上げて、照明にかざすようにする。
さすがにこれは、イヤリングの代わりになりそうにない。
少し躊躇して、やはりゴミ箱に捨てる。
