【掌編】錨
三十代半ばにして、家を買った。
都心にある勤務地まで、電車を乗り継いで一時間強の距離。妻たっての希望で、庭付きの新築一軒家である。
物件に対し、十分な資金があったとは言いがたい。ローンの返済には、いささか背伸びをしたプランを組んだ。それでも、ちょうど娘が小学校に上がるこのタイミングで、と、春から新居で暮らしている。
『駅前でフレンチクルーラー買ってきて』
これから帰宅する旨のメッセージを送ると、妻からそう返ってきた。引っ越してからと言うもの、週に一度はこうしてお使いを頼まれている。しばらく無駄遣いは控えよう、との誓いはどこへやら、だ。
最寄駅でお望みの品を購入し、ロータリーから繋がる商店街を抜ける。途中、焼き鳥屋の香ばしい煙に誘惑されるが、私まで誓いを反故にしてなるか、と自重。足早に通り抜け、信号を渡ると、一気に周囲の明度が下がった。
ここから先は住宅街。店が放つ煌々とした光に代わり、まばらな街灯、門扉の照明、カーテン越しの淡い窓灯りが足元を照らす。この道を真っ直ぐ進み、右に折れるとすぐ我が家だ。
途中、消えかかり明滅している街灯に出くわす。昨日まではそんなことはなかった、などと思っていると、明滅が止まり、ついには明かりがつかなくなってしまった。
ちょうど更地の区画でもあり、一層濃い闇の中、歩を進める。問題ない。引っ越して一ヶ月も経っていないが、すでに身体がこの道を覚えている。この分だと、目を瞑っても帰路につけるのでは。何十年か先、視力が衰えたとしても、心配はなさそうだ。
何十年か先。
ふと浮かんだそのフレーズに、思いがけず背筋が凍った。
この街。この道。この暗がり。
私はこれらと、何十年も付き合い続ける。
たとえ転勤があっても、海外旅行へ行っても、帰る場所はここ。さらに先、退職した後も、娘が嫁いだ後も、送別会や結婚式が終わればここに戻ってくる。
わかってはいた。終の住処を、との思いで物件選びには当たったし、妻と熟慮した末、この街に住むことを決めた。
しかし、急にその決断の重みが、実感となってこの身にのし掛かってきた。
いつだ。いつからこうなった。
娘が生まれた時。
妻との結婚を決めた時。
就職した時。
あるいはそれよりもっと前。
あぁ、そうか。そこで悟る。
もう自分は若くはないのだ。
前途洋々とした未来に向かい、船を漕ぎ出していた頃とは違う。荒波の危険を知り、飢えの恐怖を学び。その都度、航路を選び、積荷を増やしてきた。もはや引き返すことも、投げ捨てることも出来はしない。
錨を下ろしたのだ、この地に。
もう私が行けるところは、ここからロープが伸びる分だけ。そいつを半径とした円内を、ただぐるぐると漂い続ける。
その円の中にだって、数々の学びや幸せが待っているだろう。進むことでなく、留まることでしか得られないものもきっとある。
ただ、どうしようもなく自分の人生が矮小なものに思え、怖くなった。
もっと違う。もっと相応しい。そんな場所があったのでは。
その可能性を、知らぬ間に閉ざしていたことに、愕然とした。
路地を曲がる。暗闇はましにはなったが、やはり薄暗い印象に変わりはない。
新居の門の前に辿り着き、ひとつ息を吐き出す。切り替えろ。自らに言い聞かせ、玄関の戸を開けた。
「あー、お帰りぃ」
ちょうど真正面に妻がいた。まだ新品に近いLED電球の下、洗濯籠を両手に、半身をこちらに向けて振り返る。
「ただいま」
「芽衣子、お父さん帰ってきたわよぉ」
廊下奥の扉に向け、妻が呼びかける。どたどたという足音と共に、勢いよくそれが開いた。
「お父さん!おかえりなさい!」
「うん。ただいま」
「ねぇお父さん、ねぎまちょうだい」
「ねぎま?」
傍らの妻がくすくすと笑う。
「今日ね、商店街で焼き鳥買ってきたのよ。そしたら芽衣子、何故だかねぎまにハマっちゃって」
「なんだそりゃ」
「あなた用の分から勝手に取ろうとするから、ちゃんとお父さんに聞いてからにしなさい、って」
娘を見る。すでに閉まりかけた扉の縁に両手をかけ、顔だけを覗かせている。
「ねぇ、もらっていい?」
「まぁ、ねぎまなら……」
やった、と叫んで扉の向こうへ。妻と顔を見合わせ、同時に苦笑する。「これ、ドーナッツ」「あ、ありがとう。お風呂にする?」「いや、食う。ねぎま以外も取られちゃ敵わない」「あははは」。
明るい廊下を、奥に向かい進む。扉を開けると、リビングの食卓。さっそく私の串に手をかけている娘の姿。温め直すね。他の串が載った皿を妻が取り上げる。
「ふふ」
訳もなく、笑えてくる。
先ほどまで胸にたちこめていた暗雲は、いつの間にか消え去っていた。
そうか。そうだな。
場所じゃない。
「ありがとう。実は今日、焼き鳥食いたかったんだよ」
私が錨を下ろしたのは、この街でもこの家でもなく。
ここで営むささやかな日常。
