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あなたが最終的に何者になるのかの話

去年書いたnoteの中で、ときどき見かける「努力か才能か」みたいな発想に対して「質問としてめちゃくちゃ雑だよね」という指摘をした部分があります。

ちょっと長くなりますが、そこだけ引用しましょう。冒頭の質問に対しては、以下のような指摘が可能です。

・努力と才能はそもそも排他関係ではなく、同時に存在しうる。「努力なしに才能のみで成功した」も「才能がないのに努力だけで成功した」も両方とも説明として不自然であり、成功者もそうでない人も含め、現実世界で競争しているのは「一定の才能を持ちながら、一定の努力をしている人間たち」である(→これに類似した悪い質問:「健康になるためには、肉と野菜とどちらを食べるべきでしょうか?」)

・ここに「ある/なし」ではなく「量」や「程度」の概念を導入すると多少はマシになりそうだが、そもそも「努力」も「才能」も測定することができない。仮に測定できたとしても、それはおそらく単位が違うので、結局のところ単純な比較はできない(→「ゴリラとサメはどちらが強いですか?」)

・努力は自分の力でしたりしなかったりできる(らしい)が、才能は変えられない。変えられないものについて議論したところで、何か得るものがあるのか(→「今から自力で宝くじの一等を当てられたとして……」)

・成功に関係する要因は努力と才能だけではない。他に重要な要因が無数にあり(環境、タイミング、人的な出会い等)、通常はこれをひとまとめにして「運」ないし「ご縁」と呼ぶ。この影響はとても無視できないほど大きいのに、当初の質問には含まれていない(→「モテるためには身長と収入とどちらが大事だろうか」)

事実よりも「信じる」「主張する」を優先する人々について (2024.8.31)

一応、ここで指摘したような誤解さえなければ、「努力」や「才能」といった考え方は「現実に対して完全に的外れな概念」というわけではありません。そういう言葉を使ったほうが話がすんなり通じる場合もあります。

今回はこの「才能」というものについて、また別の短い考察と、新たな視点の提示をしてみたいと思います。

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仮に、あなたが植物を育てるとします。

まず、何をするにもその分野の知識というのはあったほうがよいですね。当然、園芸にも専門的な知識というものがあって、土壌のつくり方だとか、個別の植物ごとの性質、病気や害虫への対策といったものが考えられます。単に気持ちの上で「大切に育てよう」と思うだけでなく、その植物のことを実際に大切にしていくためには、客観的で専門的な知識というのは必要なものです。

次に、何かを育てていく以上は、当たり前に時間と労力がかかります。土をつくって種を植えるということから、毎日の水やり、ときどきの肥料、それから健康状態のチェックなどです。そして、手間をかけるということが必要ではあっても、植物は人の手で無理矢理引っ張って伸びるようにはできていないので、植物自身の成長を「待つ」ということも、育てるという過程の一部になります。

知識と技術を習得して、時間と手間をかける。このようなことの全体が、最初に挙げた言葉を使えば「努力」に当たるものです。

しかし、最後にどのような果実が収穫できるのか、どれほど美しい花が咲くのかというのは、あなたのコントロールの範囲外にあります。それは種子の内側に宿っていた性質であり、人間の力で左右できるものではありません。

おそらく、これが「才能」という言葉が指し示しているものの一部です。

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そこで、あなた自身が「最終的に何者になるのか」という話をします。

植物の例を頭に置いた上で、改めて整理してみると、それは次のような形になるでしょう。

  • あなたは磨けば光るだろう

  • あなたが輝きたいのなら、あなたは自分自身を磨かなければならない

  • それは手間がかかることだし、時間がかかることだが、とにかく何らかの結果は出るだろう

  • ただし、磨くと何色に光るのかを自分で選ぶことはできない

この光が「才能」と呼ばれるものです。あなたにそれが「ない」というのはたぶん誤りで、それはあなたの内側に「ある」のですが、時間と労力をかけることなしにそれが花開くということはあり得ないし、最後に何が実るのか、何が咲くのかという点も自分で選択することはできません。それは時間と労力をかけたあとで判明します。

最初に引用した指摘のように、才能というものを「ある」か「ない」かの対立事項として議論するのはあまり意味のないことです。しかし、「努力ではどうにもできないもの」が存在するのではないかと言われれば、それは否定できないでしょう。私たちは努力することができ、努力ではどうにもできないことも確かにあるので、できる範囲でできるだけのことを行います。

そうして「やれるだけのことをやった」としても、最後に何が待っているのかという点については、私たちの予測とコントロールの範囲外にあります。

環境的な偶然、タイミングや出会いの偶然という要素を差し引いたとしても、それは常に想像と計画の内側にはないのだということです。

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少し個人的な話をすると、私は今でこそ著述と出版の仕事をしていますが、元々は新卒からずっと長いことITエンジニアをしていました。

10代や20代の頃、私は将来の自分がこのような仕事をしていると想像したことはありませんでした。「そうなるのが夢だけど難しいかもなあ」といった話ではなく、交通事故や大地震の被災みたいに、本当に「全然頭になかった」のです。この「予想外のなりゆき」の話は過去の記事で何度か書いているので、詳細は繰り返しません。

いずれにせよ、自分の中に「長い本を何冊でも書くことができる」という種子があったことに私が気づいたのは、30代も後半に入ってからのことです。

個人的な実例はもう一つあります。私は趣味で楽器を10年以上続けていて、どうやらあまり才能がなさそうだということが「続けたあと」にわかりました。

私は演奏関係の活動や付き合いから非常に多くのものを得たし、そこに相当な時間を割いたことも全然後悔していませんが、とにかく育てた結果はそのようなものでした。

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才能に対する短い考察と、私自身のちょっとした実例は以上のようなものです。

そこで、今のみなさんはどうしているのでしょうか? これまでの人生で、無事に期待どおり咲いたものがいくつかありましたか?

咲かなかったものがあって、咲いたけれど期待外れだったものがあって、そういう失望が山ほどあって、それでもまだ何かを育てようとしていますか?
 

関連書籍

今回扱ったテーマは、この春に出した書籍「人生の意味のつくり方:正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」でも詳しく論じたものです。

心の話題がメインではありますが、職業選択とキャリアの再考のような具体的な話をしている章もしっかりあります。分厚い紙書籍の通常版と、Kindle向けでお財布にやさしい「分冊版」上下巻が発売中ですので、チェックしていただけたら嬉しいです✨

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