アンチAIと道徳心理学
心理学上の研究対象としての「誰にも迷惑をかけていないが悪だと感じられる行為」について読んだとき、私はこれが「アンチAI」の心理をうまく説明してくれるものだと感じました。問題はどこにあるのでしょう?
生成AIを嫌悪する人、その理由がわからない人
みなさんは「自分はどうしてこんなにも生成AIが嫌いなのか」と考えたことはありますか?
…って、今これを読んでくれている方が全員AI嫌いであるかのような書き出しですね。なので、逆にAIが好きな方や、好きというほどでもなくても嫌悪感は持っていないという方がいましたら、これを次のように読み替えてください。
どうして世間には、生成AIをそこまで嫌悪している人が一定数いるのでしょうか?
よく引き合いに出されるのは、学習データの著作権という観点です。「ただ乗り」と言い換えてもよいです。違法にコピーされた海賊版データが学習に使われたというのは明らかにアウトな話ですし、権利者にお金を払って入手したとしても、これまでの時代の作家やアーティストというのは「機械的な模倣の素材にすること自体が目的」という形で作品が購入されることを想定していなかったと思います。当然、従来の法律もそれを想定していないはずです。
これはこれで重要な話ではあるのですが、私はそうした分野に詳しい専門家ではないので、憶測で適当なことを書くのは控えましょう。タイトルにもあるように、今回は心理学に関係した話になります。もっときちんとお断りするなら、私は心理学についても学術的な意味での専門家ではないのですが、人の心と生き方の話題を扱う書き手としてそれなりにやってきているので、ここに対して多少なりとも新しい視点は示せるのではないかなと思っています。
今回の記事は「なぜAIは悪なのか」という主張ではありません。そもそも、生成AIというのは単なる情報処理装置であって、正義とか悪とかの主体にはならないものですからね。ペンや包丁がそれ自体では善でも悪でもないことと同じです。
それでも、「どうしてAIは嫌悪の対象になるのか」については一定の説明が可能だと思われたので、今回はその言語化を試みることにしたわけです。
心理学的な説明としての「神聖性」
これは実は、先月書いた記事の続きのようなものです。「副業記事だのAI生成記事だのうんざりだから、自分の思ったことを思ったように書いてくれ」という話でした。
最近自覚したのですが、私はこの「思ってもいないことを言う(書く)」ということを相当に強く嫌悪しているようなんですよね。
私が今読んでいる本で「社会はなぜ左と右にわかれるのか:対立を超えるための道徳心理学」(ジョナサン・ハイト)というのがあるのですが、ちょうどこの本の議論の中に、私の感情をうまく説明できそうな視点が含まれていることに気がつきました。道徳心理学の分野において、「誰にも迷惑をかけていないが悪だと感じられる行為」に注目した研究の話です。
たとえば、美容整形やタトゥーというのは、合理的見地からすれば成人が自分の意思で行う分には何も問題がないように思えます。簡単に言えば、本人がそうしたいと望んでおり、それが他人に危害を加えたり不利益を与えたりする行為に当たらないなら、人はそれをする自由があります。しかし、少なくない割合の人々はそこに「人の手を入れてはならないものに手を入れてしまっている」という感覚を覚えるようです。私も個人的には、強く同意するというほどではないにしても、ある程度まではそのように感じます。
こうした行為が「よくない」と言おうとしているのではなく、この話はあくまで「それをよくないと直観的に感じるような心理学的な傾向が人々には存在する」ということを指摘しているのがポイントになります。ハイトの用語を借りると、ここには「神聖性の原理」というものを見ることができて、日本人だったら畳に土足で上がることとか、普通に食べられるおにぎりをその辺のゴミ箱に無造作に捨てるシーンを想像してもらうとわかりやすいかもしれません。
これも別に畳やお米がとても神聖だと真顔で主張しているわけではなく、(特に西洋的な価値観においては)自分の所有物であればそれを汚すことも捨てることも個人の自由なのかもしれませんが、とにかく日本で生まれ育った大多数の人々には「そうしてはならない」と感じられるわけです。それは私たちにとって疑いようもなく、客観的にではなく主観的に「そのように扱ってはならないもの」であるからです。
この「神聖だから神聖なのだ」というのはトートロジーのようですが、感覚というのは別に理由と根拠に基づいたものではないですからね。整形やタトゥー、あるいはドラッグのようなものが「悪い」と感じられるのも、人の身体がそういう意味での神聖さや尊厳を持っているからだと考えることができます。
ちなみに、道徳心理学の研究の場面だと、ここで「よくないことだ」と答えた被験者に「誰にも不利益は与えていないし、本人にとって健康上や安全上の問題もないと客観的に判明していますよね」と「理性的な説得」を試みたとしても、「それはそうかもしれないが、とにかく間違っているような気がするんだ」といった返事になって、証拠とロジックによって本人の直観を覆すことは容易ではないのだそうです。
「お米の一粒一粒にも神様が宿る」というのはなかなか日本的で面白い発想ですが、もっと面白いことに、キリスト教圏も含めた宗教全般の話題を科学的に語るならば、神が現実にいるかいないかに関係なく、人は「そのようなものを感受する心理的な傾向を備えている」と言えるんですね。そこに神学のような理論が生まれるのは、先に「そう考えさせるだけの実感」があるからです。そこから出てくる思想は、科学的な観点からは多くの間違いが含まれているかもしれませんが、少なくともその動機は心理学的な理解が可能です。
当然、この感受性の強さや方向付けには個人差があります。絵画に感動する人もいれば、全然感動しない人もいるように、これはそれなりの振れ幅を持ちます。
自己への冒涜とコミュニティへの冒涜
以上の話を踏まえて、私個人の感覚の話をすると、さきほどリンクを貼った前回記事によって抗議した「思ってもないことを言う」というのは、私とってはっきりと「自己への冒涜」に当っていると思うんです。
なぜかというと、私にとって私自身の自己は神聖で、友人や知人の自己というものも神聖で、顔も知らないような別の誰かの自己もやはり神聖です。「その人が、その人自身の言葉で、その人自身が感じていることを話す」という行為についても同様です。だからこそ、儲かるならゴミでも構わない方式で生み出された数々の情報発信に対して「そんな浅はかなもので君自身の言葉を汚すなよ」と感じるわけです。
つまり、前回例に挙げた詐欺的な副業情報やAIスロップ(AI出力の低品質な情報)の氾濫が「社会にとって有害である」といった観点とは別に、私はまったく個人的に、そこに対する「個人的な許せなさ」を感じているのだということです。私は世間的に見ればかなり「アンチAI」寄りの人なのだろうと思いますが、きっとそこには自発性とか、創意とか、個性とか、そういう個人の持ち物に対する神聖さの感覚を強く抱えているからなのでしょうね。
仮にAIが生成した文章をnoteに載せるにしても、冒頭に「この記事はChatGPTが出力しました」の一文さえ添えられていれば何も問題ないんです。しかし、A氏がA氏の名前で開設したnoteアカウントがあり、そういう注釈なしにAI生成記事を載せて、まるで本人が書いたかのように振る舞うなら、それは「個人が個人として、自分の意思で発言する」ということを貶める行為でしょう。これはどちらかというと、AI出力を借りてしまった本人の尊厳というよりも、「自分の言葉で語ろうとしているそれ以外の人々」を踏みつけているものと感じられます。
コミュニティにはコミュニティの価値観があって、おそらくこの行為はnoteというコミュニティの一般的な(全員ではないにしても過半数の書き手の)価値観に反しています。少なくとも私はそう考えています。
どうして動物や死者に喋らせて喜べるんだ?
AIが人間と区別がつかないようなイラストや文章や音楽を生み出したとしても、別にそれは構わないと思います。オウムが上手に喋ったとしても、それによって「人間性が冒涜された」だなんて全然感じませんからね。
実際には、我が家の小鳥のふみ子氏を含めたあらゆる鳥はかわいいから何でも許されるのですが、この理由はそうした愛鳥無罪の話とは関係ありません。

一方で、犬や猫や小鳥にまるで幼い子どものイメージ(実際の幼い子どもですらない、かわいらしさの概念)が喋っているかのような「かわいらしい」セリフ音声を当てているAI動画を見ると、私はそれは犬や猫や小鳥に対する冒涜だと感じます。人間にとっての自己が神聖であるように、その動物が「その動物であること」もやはり神聖であるからです。動物の感情は人間よりはいくらか単純なものと思いますが、それは尊厳がないということを意味していません。もう一度言いますが、少なくとも「私は」そのように感じます。
あれで「かわいい」だなんて言える人の感覚は本当に理解できないのですが、まあ今回は「なぜだかそう感じる人もいればそう感じない人もいるようだね、不思議だね」という話なので、そういう人のことを邪悪だとか言いたいわけではないです。今回の記事は「私はそのように感じる」ということを「なるべく他の人にも理解できるようにロジカルに説明しようとした話」であって、同じ感覚をあらゆる人々が持つべきだなどと主張したいわけではないからです。
上に掲げた「オッス 文鳥だぞ」のキャプションにしても、普通に冗談のようなものだとわかると思いますが、もしかしたらこれが「動物に想像上のかわいらしさを投影する」とどう違うのか、感覚的に理解できないという人もいるかもしれません。これも改めて説明してくれと言われると「えっ、説明する必要があるのかよ…」となってしまうのですが、一応言語化してみると、このキャプションは人間の期待する「かわいらしさ」からはかけ離れた現実の文鳥の傍若無人さを面白おかしく表現したものであり、これは「動物がそんな幼い子どものイメージみたいに喋るはずないでしょ」ということを皮肉っているわけです。
最近のニュースで、故人の生前の映像や音声データを利用して「AIで死者を蘇らせる」なんてサービスが話題になったりもしましたね。これもちょっと、私の感覚だと「なぜ人の亡骸をロープで吊るして踊らせてはいけないのかが理解できない人がいることが理解できない」みたいな感じがします。
このニュースと「動物に喋らせる」の例は、最初の「AIの文章を自分が書いたかのように発表する」とはまた別の話ではあるのですが、どうも「尊厳」という観点が両方に出てくるようです。たぶん、これを強く感じる人と全然感じない人というのがいて、そこに「ありえない」と感じる人とそうでない人がいるから議論が起こったりするのでしょう。
というわけで、お互いに感覚の異なる人間同士がわかり合うというのは本当に難しいことなんですけど、ここまでの話で「AI嫌いな人はなぜそこまで強くAIを嫌っているのか」ということの一応の説明はできたのではないかなと思います。
モヤモヤしたときは学ばないとね
なんだかとりとめのない話になってしまいましたが、今回の記事としてはこの辺にしておきます。
最初に引いた道徳心理学の本も、リベラルが正しいとか保守が正しいとかいったことを言おうとしているのではなく、「どうして私たちはお互いに違うことを感じ、その違いをお互いに『理解に苦しむ』と感じるのか」という点を解き明かそうとする流れになっています。
一般に、「神聖性の原理」というのはどちらかというと保守寄りの人が根拠にしがちな感覚のようですが、この世がなるべく平和なものであってほしいのなら、その感覚はリベラル寄りの人にとっても「同意はしなくてもいいが、理解はする必要はある」というタイプの話に分類されるはずなんですよね。
今回これを書くきっかけとなった本「社会はなぜ左と右にわかれるのか」は最近たまたま読んでいただけなのですが、noteの世界でずっとモヤモヤしていて、自分としてもときどき言語化を試みていた感覚の整理がさらに一歩進んだ形となって、かなりのなるほど感がありました。
うーん、やっぱり勉強しなきゃダメだな。もっと本を読まないと。今回のスッキリ感によって、積ん読をやっつけていくためのモチベーションがちょっと上がったので、「2冊読む間に3冊増える」といった状況にストップをかけていきたいと思います。
みなさんも読書中に何か面白い発見があったら、ぜひnoteにご自身の考えをまとめてみてくださいね。
関連書籍
先日出版した「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」でも、相互理解の難しさと「自分が自分のままであるように生きる」ということを関連付けて考えています。よろしくね〜!
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