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ポレポレ東中野と『TRUE KYOHEI SAKAGUCHI SHOW 坂口恭平生活』

ポレポレ東中野と自分の相性

ポレポレ東中野には、先週初めて行ったばかりだった。
初めて行った日は「父と家族とわたしのこと」を観た。

映画の終わりに、監督の島田さんが登場した。いま観た映画を撮った人がここに来ているとは、すごいことのような気もするし、そうあるべきだというような気もした。

映画が終わると身体が冷たくなっていたけど、観に来て良かったと思った。監督さんに何か話したかったけど、やめておいた。
もっと臨床したいし、勉強したいと思った。

初めてポレポレ東中野に来て、この映画館と自分とのマッチングについて、2点の懸念点が発見された。

いずれも前の座席との間隔が狭いことと関連している。

1)かるく前の座席を蹴らないように身を縮めていなければならない
ごそごそしてしまう癖のある私は、座席を蹴りたくないのに、かるくコツンと蹴ってしまった。再発を防ぐために、足を組んで固定し、足の組み替えはかなり慎重に行うようにした。
2)万一トイレに行きたくなったときのために端っこに座る方がいい
抗がん剤の副作用で、たまに急な下痢をする。映画やカウンセリング仕事など、中座したくない予定がある日は、だいぶ時間に余裕を持って薬を飲み、事前に下痢をすませておくか、もしくは薬を飲まないでその予定をすませてから飲むようにするかといった計画が必要になる。それでも突然の下痢発作(という言葉があるか知らないが、なんせ発作的なので)は自分で止められないので、緊急でトイレに行けるようにするには、あの映画館では、端っこの座席を確保するしかない。ちなみに、抗がん剤を処方されたときに即効性のある下痢止めも処方してもらったが、なぜかこの薬が嫌いなので飲まないようにしている。とくに1)は苦痛であり、1回目の映画鑑賞以降、「あの映画館はもう無理かな」と思っていた。

TRUE KYOHEI SAKAGUCHI SHOW 坂口恭平生活を観た

けれども昨日の朝、Xのこの投稿を読んで、観に行こうと思った。『TRUE KYOHEI SAKAGUCHI SHOW 坂口恭平生活』。

私は心理士で、ときどき死にたい人のはなしを聞く機会もある。
聞いていて「死なないでもらうにはどうしたら」と思う。あとで「しかし、なぜ死なないでほしいのか/なぜ死んではいけないのか」とも思う。また自分は「死にたい」と思ったことがないのでは、と少し引け目に感じたりもする。でも最近「なんで生きてるんだろうな」と思うことはあり、これは「死にたい」と似てるのか、違うのか。などと考える。

禿げてきたことを表向きの理由に挙げ、自殺未遂をした弟のことを思い出す。その数ヶ月後に彼は自分ではなく、家族を殺した。
自分の家の中に被害者と加害者がいる。だから私自身の中にも、被害者と加害者がいる気がする。それは自殺したいという気持ちと共通している部分があるのかもしれないと、『TRUE KYOHEI SAKAGUCHI SHOW 坂口恭平生活』を観ていて気がついた。
自分に徹底的に意地悪を言うパーツと、そいつにいじめ抜かれているパーツの話。多くの悩みはまさに、この二つの関係に気がつき見直すことで改善する。それをこの人はどストレートに、いのっちの電話にかけてきた人に、伝えようとする。

映画が終わって監督の小宮雄貴さんと斎藤環さんが出てきた。斎藤さんによると、坂口さんは「人の話を聞いていない、言いたいことを押し付ける」「これは精神医療の常識やオープンダイアログの姿勢とは異なる」「だけど効き目がある、他の人にはできないことだ」というふうに捉えていると話していた。

なるほど、たしかに恭平さんは人の話をきいていないように見えるかもしれない。しかし、電話してくるのは「死にたい気持ちが強くなって、でも死んでしまってはいけないはず、死にたくないと思ってる気持ちの間で助けを求めて」という極限に近い人々のようだ。

そういう人から電話を受けるのは、おそらく事故現場で大量出血している人を目の当たりにしたときのような感覚なのではないかと思う。自分もそれと同じ大怪我をして、自分でなんとかしてきた人が、その電話を受けている。そのため「傾聴・受容・共感」を示す過程はすっ飛ばし、とにかく止血と自分が持っている薬を差し出す、それだけをやっている、という感じなのかもしれない。

映画の中で、恭平さんがなぜいのっちの電話をやっているかについて、自分から電話をかけると迷惑がられるけど、かかってきた電話であれば話したらありがたがられる。ぎりぎりのところでWIN-WINなのだという説を話していた。恭平さんは「自分自身に死ねと言われてそれに耐えなければならない期間がときどきある」という苦労の当事者であり、それはなんなのか、どう克服すればいいのかを研究し続けている。

「まさに今、死にたい」という人々が電話をかけてきたら、自分が元気なときはその電話に出られて、「こうしてみよう、できたらまた電話をかけてきて」と次へつなぐ。自分ひとりとか、いつもと同じ人間関係の中では得られない「現状についての解説・意見」を得ることで、95%死にたい気持ち軍が優勢になっていた「自己内」に別の視点がうまれ、別の軍勢が意識を取り戻すきっかけになる。これは精神医療の常識からは外れているのかもしれないけど、オープンダイアログで起きる変化とは似ていると思う。

映画を観たあとで、坂口恭平さんがこの3月にいのっちの電話をやめたということを知った。謝罪文というnoteが出ていた。

 心理士やカウンセラーなどの技術を学ぶことなく、独自で始めたからこそ、このような間違いを犯してしまいました。
 死にたいと困っている人に対して、私がやってしまった行為は、簡単に許されることではなく、私は今後、知らない方に対する人助け自体、自分に禁じるつもりです。

謝罪文

「知らない人」とはなんだろう。私はけっこうそのことについて、よく考える。「知らない人」について哲学対話をしたこともあるし、知らない人と旅行して、それについてブログを書いたこともある。

臨床心理士の資格を持ってカウンセリングなどする自分は、最も知っている人、自分の家族への支援をすると、ものすごく疲れるし、関係もぎくしゃくしてしまう、という体験をしていて、知らない人だからこそ、枠を使えばなんとか安全に支援できるという感覚がある。坂口さんが持たなかったのは技術ではなく、枠組みだろう。やれるだけのことをやれるときにやりきれば、それでいいという信念もあったのかもしれない。自分がどう生きるか、何をしてよいか、何をしなくてよいかは自分で決められる。「なぜ(いのっちの電話を)やるのか?」とよくきかれるけど、逆に「なぜあなたはやらないのか?」という問いかけが出てくると、坂口さんは書いていた。

この映画を撮った小宮さんは、「人間はどのように助け合って生きていけばいいのか」その問いと向き合いたいと、映画公開のときの挨拶文に書いていた。

自分は「人間は」とまで大きく問う感じを持ってない。ただ「健康をどのように保てるのか、なぜ損なうのか、どう回復するのか」ということはここ数年考えている。結局、それは個人の問題ではなく、どのような社会の中であれば健康が保てるのか、という問いにつながるんだろう。それをずっと前からみんな言ったり書いたりしてるんでしょう、と思いながら、自分はそのような大きな話が苦手だ、勉強してない、考える力が足りないと尻込みしているような感じがする。

結論1)ポレポレ東中野は狭いけど、監督さんが出てくるところがいい。
結論2)やりたいことは毎日やるんだ、最初は大変なんだ、だんだん簡単になってくる、と恭平さんは言っている。自分は書くことをしたいので、むりやり書いてみた。

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