今更ながら『ハイパーインフレーション』にハマった話
0 『ハイパーインフレーション』1巻にハマってなかった頃の話
体感数年前(オジさんの体感時間を安易に信用してはいけない)に流行したマンガに『ハイパーインフレーション』というものがある。私も例に漏れず流行に乗って書店で単行本1巻を購入してみた。1巻を読んで面白かったら2巻以降も購読しようと思っていたのである。だが、1巻だけを読んだ個人的な感想は、「自分にはあまり刺さらない話かなぁ」だったのである。たしかに生殖能力と引き替えに大量の紙幣(精巧な偽札)を射精ならぬ「射幣」出来るようになった主人公ルークが「精巧な偽札を大量に生み出す能力を駆使して国を買って大好きな姉上を取り返すぞ」とまるでどこかの『銀河英雄伝説』のラインハルト・フォン・ローエングラム公のような野望を実現しようとするアイデアは独創的で面白いなとは思った。ただ、それ以上に「なんかちょっと絵が上手な『ギャグ漫画日和り』チックな作風の『経済』をテーマにしてる感じがどうにも肌に合わないなぁ」と思ってしまったのである。
おまけに第1巻に登場した「ダウー」という野生児のほぼ裸同然の長身女性キャラクターを登場させているのが「『読者はこういうキャラが好きなんだろ』的な作者の安易な驕りが見えてしまう」ような気がして、結果的に当時は『ハイパーインフレーション』は自分の人生には刺さらない作品だなと早々に切り捨ててしまった。当時の私は『ハイパーインフレーション』という作品の面白さを・真髄を見誤ってしまったという意味で、間違いなく当時の私の価値は0ベルク=無価値であったことをここに告白しようと思う。
1 私が『ハイパーインフレーション』にハマった転機~現在紀伊國屋書店では『都市伝説解体センター』特典を頒布中です。この情報は無料です~
そんな私が数年越しに『ハイパーインフレーション』という作品を一気に全巻購入するきっかけが数日前に起こった。何気なく近所の紀伊國屋書店に赴いた時である。紀伊國屋書店入り口近くに期間限定で『都市伝説解体センター』とのコラボフェアを実施するというのである。特に目を引いたのが「期間中に書籍・文房具等を1000円以上お買い上げ毎に『都市伝説解体センター』特製栞をプレゼント」というものである。本を1000円買う毎に『都市伝説解体センター』の特製栞が無料で入手できるというのに私の理性は我慢できなかった。貴重な『都市伝説解体センター』グッズが手に入るまたとない機会だったからである。
ここで『都市伝説解体センター』とは何か御存知でない方のために簡単に解説をしようと思う。『都市伝説解体センター』とは2025年に販売されたアドベンチャーノベルゲームのことである。今時珍しい「ドット絵」でゲーム画面が構成されているが、これが一周回って「新しい」感覚を味あわせてくれる。また、タイトルに「都市伝説」とあるように、古くからのオカルトや超常現象、ホラー・ミステリ要素に加えて「SNS調査」という現代チックな要素も加えた、物語やキャラクターに親近感や身近さ・リアリティを感じられる「仕込み」がなされている。何より、ストーリーがプレイヤーの度肝を抜く衝撃の展開が待っているのである。『都市伝説解体センター』という物語のあらすじは、過度なネタバレを避けるために必要最小限の情報を公式HPから引用することにする。
怪異、呪物、異界などの調査・解体を行う『都市伝説解体センター』。主人公の福来(ふくらい)あざみは、『都市伝説解体センター』のセンター長であり国内屈指の能力者である廻屋渉(めぐりやあゆむ)とともに、「都市伝説」絡みの依頼を解決していくことになるが…
…などと偉そうに語ってみるも、実を言うと私は『都市伝説解体センター』をプレイしたことはなく、VTuberによる『都市伝説解体センター』の実況プレイ動画を視聴したことのあるだけのにわかも同然なのである。ガチのファンからは怒られるかもしれない存在である。
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さて、そんな『都市伝説解体センター』の貴重な公式グッズとも言える栞を実質無料で手に入れるためにはそれなりに書籍を買いあさる必要がある。そこで目に付いたのが、上述の1巻で挫折した『ハイパーインフレーション』なのである。丁度1冊ずつ全6巻が販売されていたのでまとめて買い上げることにしたのである。
2 『ハイパーインフレーション』は超・闇鍋エンターテイメント漫画である!
1巻は既に昔読んだことがあるので、2巻から読むことにした。海上でのガブール人とグレシャム商会との対決が大まかな見所であるが、ガブール人の中でも主人公のルークと実は帝国のスパイであるレジャットの裏の駆け引きがあったりして細かい頭脳戦が見過ごせない。そして、ルークはただ敵を出し抜き勝利するのではなく、自分が「商売をしよう」と思った根本的な理由を思い出し、敵対するグレシャムも一緒に「勝てる」選択を与えようとするのがただの頭脳戦漫画ではないと思ったのである。そして、こうした頭脳戦のスパイスに「海上保険」や「通貨偽造罪」、「小売業者」や「卸売業者」といった現実の社会や歴史にも関係のある知識も身に付けられる物語ということが判明して、気づいたら私はすっかり『ハイパーインフレーション』という物語の虜になっていた。最初に『ハイパーインフレーション』1巻だけを読んでハマらなかったのが嘘のような変わり身である。それから一気に3巻、4巻、5巻と読んでいき、気づけば最終巻の6巻まで読んでしまった。
『ハイパーインフレーション』という作品は6巻という短さとは思えないほどに情報量が多い作品であるから、1日で一気に読めるのは2冊が限度であった。それでも、購入から3日もすればもう全巻を1周は読めて、気になった部分は繰り返し読み込むようになっていった。
この『ハイパーインフレーション』という作品を全読んで気づいたことがある。それはこの作品が「エンタメの闇鍋」ということである。公式で「闇鍋ウエスタン」と名乗っている作品として『ゴールデンカムイ』(野田サトル・集英社ヤングジャンプコミックス全31巻)が挙げられるが、『ゴールデンカムイ』が好きであれば『ハイパーインフレーション』も高確率で楽しめるという確信がある。『ゴールデンカムイ』の面白さを分析すると、①アイヌ文化を自然と学べること、②大きく3つの陣営に分かれた金塊を巡る頭脳戦が繰り広げられること、③個性や癖の強い・魅力的な登場人物(一部変態を含む)が多数登場すること、④各陣営の敵・味方の関係がめまぐるしく変化すること、⑤時々「愛」に関するやり取りが見られること、⑥各陣営の登場人物の思想・哲学・信条を通して「人間賛歌」が描かれていること、⑦登場人物達が出会いや経験を経て人間的に成長していくこと…といったように『ゴールデンカムイ』にはまさに「闇鍋ウエスタン」と称されるのも納得の様々なエンタメ成分が含まれているのである。そして、これらエンタメ要素は『ハイパーインフレーション』にも見られ、しかもこれらの要素がよりコンパクトに濃縮された形で見事なマリアージュを醸し出しているのである。
また、(偽造)紙幣製造や商品流通、(海上)保険の施像過程の説明や仕組みの解説パートの面白さは『Dr.STONE』や『瑠璃の宝石』、『チ。ー地球の運動についてー』、あるいはマニアックなテーマを扱っている際の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(『こち亀』の原作者である秋本治先生の最新作である『TimeTuberゆかり』も同様だろうか)に通ずる面白さがあると思っている。誤解を恐れずに言えば「読者である自分だけがこの世の真理や裏側の秘密を味わえている」と感じさせてくれる気持ちよさを味わえると言うべきだろうか。こうした現実社会にも活きる豆知識が得られるのは、作者が相当数の資料・図書を読み込んだ上で、これら資料の内容を読者にわかりやすく噛み砕いて説明できる日本語読解力・論理的思考力の高さがなせる業であると思われる。
そして、何より忘れてはならないのは、『ハイパーインフレーション』は『ゴールデンカムイ』や『DEATH NOTE』、『嘘喰い』や『ジャンケットバンク』『カイジ』といったような頭脳戦・命を懸けたギャンブル勝負にも勝るとも劣らない駆け引きが見られるところが面白さの最大の特徴である。『ジョジョの奇妙な冒険』第2部の主人公「ジョセフ・ジョースター」は「勝利を確信したとき、そいつは既に敗北している」という名言を残しているが、『ハイパーインフレーション』では何度もある陣営が「勝った」「相手を出し抜いてやった」と思っても残された別の陣営は「それを見越して別の策を用意していたぜ」ということがしょっちゅうあるので、最後まで読者は気が引けないのである。日常生活ではまず味わえないであろう脳髄の緊迫感を最後まで楽しんで欲しいと思うのである。
3 個人的に『ハイパーインフレーション』で印象に残っているシーン・台詞紹介
『ハイパーインフレーション』という漫画がオススメされる理由としてよく取り上げられるのは「『ハイパーインフレーション』は経済や通貨のことがよく分かる」からであり、「教育マンガ」としての側面のあるマンガと紹介されることがある。たしかに「教育」の側面はあるだろうが、それ以上に「凶育」であり「狂育」の側面も強くなかなか人に勧めづらい作品ではあるとも思われる。それでもあえて私が進めようと思ったのは、大きく分けて2点どうしても知って欲しい知識や哲学がこの『ハイパーインフレーション』と言う作品には溢れているからである。
(1)経済史・通貨史・紙幣史的側面
これから私が引用する部分は、中学の公民や高校の政治・経済・倫理の授業の参考図書として是非引用して生徒に説明して欲しいと思う部分である。著作権法上は授業・教育目的であれば引用の際のハードルはだいぶ下がるはずなので、『ハイパーインフレーション』で学べるところは是非学んでほしいところである。
まずは経済や通貨・紙幣といったものの基本を理解できるシーンを引用しようと思う。私はこれ以上にわかりやすい説明を知らない。下手な経済の解説書や参考書を読むより100億倍頭に入るのである。
ヨゼン「コレットよぉハイパーノート(筆者注:偽札のこと)をバラまかれるとそんなにヤバいかな。たしかベルク札って帝国銀行で金貨と兌換(交換)できたよな?」
コレット「ヨゼン、それは金本位制というの。ベルク札にはこんな文言がある。『この紙幣を持参した方に額面と同じだけの金を支払うことを約束します』」
ヨゼン「ハイパーノートが出回ったらみんなベルク札を信用できなくなって金貨にするだろ?帝国銀行の窓口で番号が同じハイパーノートだけは金貨と兌換しなきゃいい。そうすりゃ本物のベルク札だけが一万ベルク金貨と入れ替わってハイパーノートは使えませんって宣言して終わりだろ?」
コレット「それには三つの問題があるわね。一つ目。ハイパーノートを受け取った被害者を救済できない。そしてその人間が本当に被害者なのか、ハイパーノートを安く買って使おうとしている加害者なのか判別不可能。二つ目。ハイパーノートの兌換を断れない可能性がある。ハイパーノートはおそらくこの世界のどこかにある本物の一万ベルク札の完全な複製。大量に持ち込まれるハイパーノートの内、どれか一枚は本物かも知れない。『俺の持っている紙幣は本物だ』。『偽札である証明をしてみろ』。そんなことを言われたらどうする?大量に偽札がありながら、そのどれもが偽札であると証明できないの。まあ……実際には偽札である可能性のほうが高いから兌換を断るでしょうね。三つ目の問題……兌換したくても金が足りない」
ヨゼン「えぇッ!?」
コレット「帝国銀行の外で流通しているベルク札は4500億ベルク。一方、保有している金は3800億ベルクしかない」
ヨゼン「700億ベルクも足りないじゃん!!なんでコレットはそんなこと知ってんだ!?そんな秘密知ってたら消されるぞ!!速く逃げろッ」
コレット「帝国銀行が毎週公表しているのよ。ちなみに流通の9割が1万ベルク札。だいたいベルク札が金より多くても何の問題もないの。通常みんなが一斉に兌換することなんてないんだから!!兌換がある程度進めば兌換停止。金の裏付けを失ったベルク札は価値を大きく損なうかもしれない。過去に大きな戦争があった時も兌換請求が殺到し兌換は停止されインフレが起こった。戦時のことだから一概に比べられないけれど……兌換が停止され自分の持っているベルク札の偽札も作られるおそれのある状況なら、ベルクの価値が下落する可能性は大いにあるでしょ」
ヨゼン「ハイパーノートがヤバいのは充分に分かったぜ」
コレット「でもこれはまだマシなシナリオかもしれない」
ヨゼン「まだあんのかよ!!」
コレット「帝国中の銀行には合わせて2兆ベルクの預金がある」
ヨゼン「預金って俺たちがコインとベルク札を銀行に預けてるあの預金?」
コレット「そう」
ヨゼン「……え?2兆!?ちょい待ち!!流通してるベルク札が4500億ベルクで流通してるコインは……」
コレット「2400億ベルク」
ヨゼン「合わせて6900億ベルクってことは……なんで現金よりも、預けてる預金の方が多いんだよ。物理的にあり得ないだろ!!」
コレット「それは銀行が保有している現金以上に預金を無から創造して貸し出しているからよ」
ヨゼン「勝手にそんなことしちゃダメだろ……みんなが一斉に預金を引き出そうとしたら現金が足りなく…………は!?」
コレット「通常そんなことはないのだから問題がない」
ヨゼン「やっぱり~!?」ボンッ
コレット「もしハイパーノートがバラまかれたら、2兆ベルクの預金に火がつく。人々はベルクの価値が下落するのを恐れて預金を引き出し我先にと金貨と兌換しようとする。銀行は次々と破産。その影響は世界経済に及ぶ」
ヨゼン「あれ?これって銀行が悪くない!?だってそうだろ?銀行が好き勝手預金を生み出すから被害が拡大したんだ。これは詐欺だ!!陰謀だ!!だいたい好き勝手カネを生み出せるなんてズルいだろ!!」ブンブン
コレット「それは違うわ。まず第一に生み出せる預金には法律で制限がある。第二に預金を生み出すってことは借り手に現金を引き出す権利を与えるってことだから銀行にとっては負債なの。銀行が本当の意味で儲けるには利子を付けてそれを回収しなくちゃいけない。だから銀行は本当におカネを返してくれるか審査するし担保をつけさせる。つまり新しく創造される預金は借り手の返済能力によっても制限される。借り手からみれば将来自分が生み出すであろう付加価値を前借りしているようなもの。借りたおカネで事業を行って儲けてみせる!!おカネを借りて勉強して価値あるものを生み出してやる!!今は苦しいけれどこのおカネで必ず這い上がる!!世界を!!人生を!!豊かにしようという人間の覚悟だけが!!この世界におカネを生み出すの!!」
引用が長くなってしまい、やや読みづらくなってしまったのは申し訳ないと思う。だが、このシーンは「何となく世間の常識だろう」とボンヤリごまかしていた、「銀行が紙幣を発行する仕組み」や偽札作りが何故良くないことかという理由を、分かりやすく理論立てた説明を加えてくれる上に、おカネを通した「人間賛歌」が謳われている名シーンであると思われるから紹介した。
ついでに、単行本限定のエピソードも紹介しようと思う。「おカネの正体」についてより深掘りした内容となっている。ヨゼンが極東の島国(後期の江戸時代の日本をモチーフとしていると思われる)出身ということを考えると、昔の日本人も相当頭が良いということが窺える。日本史を勉強していると何となく言葉の意味をより深く考えることなく暗記していた用語の意味もここでようやく分かるような感覚を味わえる。現実の「貨幣史」の概要を学ぼうと思うとそれなりにコストがかかると思われるが、この『ハイパーインフレーション』という作品にかかれば紙の単行本換算にして3頁で学ぶことが可能なのである。是非単行本も購読して確かめてみて欲しい。
おまけ 『帝国の おカネの歴史』
ヨゼン「コレットさ~、今の帝国のおカネって結局なんなの?」
コレット「それを知るにはおカネの歴史を振り返らないとね。昔は金属や貝・布・穀物・塩などを交換に使ってたの。そのうちいくつかの国では主に金属が交換に使われるようになる。特に金や銀は希少で美しく保存に優れていたから重宝された。それでね……200年くらい前、帝国には金匠と呼ばれる金を保管・加工する業者がいたの。とりあえずグレシャムみたいなヤツを想像して。彼らの元には金を保管する設備が整っていたので、資産家は金を盗まれないように彼に金を預けて代わりに預かり証を受け取った。預かり証を金匠のところへ持っていけばいつでも金と交換できる」
ヨゼン「あれ……金と交換できるってベルク札っぽいな」
コレット「やがてこの預かり証は資産家や商人の間で支払いに使われるようになる」
ヨゼン「やっぱり!!それがベルク札の始まりってわけか!!」パチンッ
コレット「話はここで終わらない。みんなが金を交換しにくるわけではないので金庫には常に金が余っている。そこで金匠はこう考えた……。預かっている金以上に預かり証を発行してもいいんじゃないか?預かり証を余分に発行して利子を付けて貸し出そう!!これなら利子の分儲けが出る!!」
ヨゼン「すげえ発想だな……。錬金術だ」
コレット「この話は象徴的なだけで発想自体はありふれたもの。ずっと昔から色んな地域で同じ仕組みは考えられていたの。特に財産を保管する立場にあった王室や寺社・銀行・倉庫業者は、金属や土地などの預かり証を余分に発行して流通させていた」
ヨゼン「そういや……俺の国でも米を保管する蔵屋敷が米切手っていう預かり証を発行してたな!!保管している米よりたくさん発行してたけどあれも似たようなもんか!!」パン
コレット「え!?あるの!?」
ヨゼン「米切手で将来の米まで取引してたぞ」
コレット「それって先物取引じゃない……」
ヨゼン「話を戻すと金の預かり証が紙幣になったんだよな。でも俺たちはその預かり証である紙幣をさらに銀行に預けてるってことは……ん?」
コレット「紙幣を銀行に預けて私たちが得るのは何?ただ通帳の数字が増えるだけでしょ?おカネは金属から紙に……そしてただの数字になった。かつて金匠がやったように銀行は預かっている現金以上に数字を増やすことができる。帝国で一番多いのは数字だけのおカネ。つまり今の帝国のおカネの正体は共同幻想……。どこにも存在しないの……」
★怖い話の終わり方!!
この「おカネの正体は共同幻想」という事についてより深く知りたいというのであれば、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』上巻で紹介されている「認知革命」に関する部分だけでも読んでみて欲しい。人類は現実には存在しない空想上のイメージを享有する能力=認知革命を経たことで宗教や紙幣、そして国家という多くの人間をまとめ上げるための共同体(共同幻想)を生み出し、そして維持することに成功したのである。
さて、次に紹介するのは、作品のタイトルにもなっている「ハイパーインフレーション」という現象がどのようなものか説明しているシーンである。学校の社会の授業で単語だけは聞いたことがあったり、社会科の資料集で札束がレンガのように積み上げられている写真を見たことはあるかもしれないが、より生々しいハイパーインフレーションが起こるとどうなるかということを端的に、分かりやすく説明した名シーンであると思われる。
一応作中のシーンについて補足説明をしておくと、主人公のルークがある計画を実行する前に、仮に計画が予想外の方向に進んでしまったらどうなるかということを仲間のフラペコに尋ねているシーンである。フラペコは元々とある国の貴族階級の人間であったが、革命と暴動により貴族という身分を手放さざるを得ず、政府が紙幣を乱造したために今まで「紙幣」として使っていたものが「紙切れ」になった惨状を経験した結果、「金」も「国家」も「法律」も「正義」も、何もかも信じられなくなった人間である。これだけの過去を聞くとスゴイ性格のひねくれたキャラクターのように思えるかもしれないが、フラペコは作中1,2位を争うほどの「聖人」キャラである。控えめに言っても、少年であるルークを大人の立場から守ろうとしたり、「ガブール人」という被差別民族出身のルークのことを舐めてかからず対等な立場で接している「ちゃんとした」大人である。
そんなフラペコの苦労エピソードこそが、「ハイパーインフレーション」が如何なるものかということに繋がるのである。それでは、フラペコの過去=「ハイパーインフレーション」をご覧あれ。
ルーク「……フラペコがカネを信用しないのは昔、カネが紙くずになったのを見たからだよな……。どんな状況だった?」
フラペコ「……グレシャムさんと会う前の話です。私の祖国は敗戦と革命によって景気が悪化……。政府はおカネが無かったので大量の紙幣を刷りました。アルムというおカネです。本来はベルク札のように金と兌換(交換)できる紙幣でしたが、金が不足していたので兌換は停止。政府は無制限にアルムをすることが出来たのです。」
ルーク「そんなことをしたら大混乱になる……」
フラペコ「意外に思われるかもしれませんが景気は回復しました。市場に大量のアルムが出回ったのでアルムの価値は下がりました。アルム安のおかげで輸出が伸び、外国人がたくさん遊びに来て買い物をします。経済は活性化。倒産件数が減って失業率が低下し株価も上がりました」
ルーク「なあんだ。いいことばかりじゃん」
フラペコ「ええ……おカネの量が増えると景気が刺激されるようです。しかし、ただでさえ敗戦と革命によってモノが不足しているところへ、紙幣を刷りすぎたので物価が大幅に上がり続けました。物価全般が持続的に上がり続けることをインフレーションと呼ぶ学者もいるようですが、まさに急速なインフレが起こったのです。物価が上がれば売り買いにたくさんの現金が必要になります。銀行では現金が底をつきそうです。どうしますか?」
ルーク「まさか……」
フラペコ「政府はさらに紙幣を刷りました!!」
ルーク「だから~~それをすると、また物価が上がっちゃうじゃん!!」ああああ
フラペコ「そうです!!しかし!!国民は全く逆のことを考えました!!『物価が上がっているのだからもっと紙幣を刷ってくれなきゃ困る!!』」
ルーク「はあ……?」
フラペコ「もしルークさんが社長にこう言われたら?『ウチの会社儲かってるけど、銀行に預金が足りなくて預金を下ろせなから賃金の支払いはまた今度ね』」
ルーク「ストライキだッ!!暴動だッ!!火ィつけたる!!」
フラペコ「結局のところこのサイクル(物価が上がる→紙幣が不足する→紙幣を刷る→物価が上がる→以下同文)からは抜けられないのです。自分の尻尾を追いかける犬のように。しかもインフレの要因はほかにもたくさんありました!!みんなが紙幣を受け取ると物価が上がる前にすぐ使おうとするので需要が拡大!!農家による作物の売り渋り!!税率の大幅な引き上げによる脱税の増加!!紙幣で貯蓄していても意味がないので貴金属・外貨・不動産・生活必需品の買い占めが横行!!紙幣不足を補うための商品券の増発!!どれもインフレを促進します!!おまけに当時敵対していたヴィクトニア帝国はアルム紙幣を偽造してバラまきました」
ルーク「帝国ゥゥ!!」
フラペコ「激しいインフレ下では月給制の労働者は悲惨です。賃金の引き上げ交渉に成功しても、それが支払われるときには価値が無くなっているからです。やがて賃金は一日2回払うように要求しました」
ルーク「でも儲かった人もいるんだろ?」
フラペコ「はい。大企業・買い占め人・投資家……彼らは儲けを外貨に換えて国外に隠します。税金を取られないように。農家も儲かります。彼らの家には高級家具やピアノがズラリと並びました。どれも都市生活者が作物と交換するために持ってきたものです。もっと先見の明がある人はインフレする前に限界まで借金をしました。工場を買って労働者を雇いそのあと価値の低下した紙幣を返済したのです」
ルーク(「ハイパーノートを帝国中に売ってベルクの価値が下がったとしても、うまく立ち回れば儲けることが可能!!」)
ルーク「それで……!!アルムはどうなったの!?」
フラペコ「普通に刷っていれば間に合わないので超高額紙幣を乱発。紙幣の発行額を制限するのはもはや紙幣にゼロがどれだけ書き込めるかと印刷所の能力だけ。事態は混迷を極めます。一杯目のコーヒーを飲んだあと二杯目のコーヒーを頼むと値上がりしています。値札には紙幣で払う場合と硬貨で払う場合の二つの値が付いています。紙よりも金属の方が価値があるからです。金貨や銀貨ともなれば貯蓄され使われません。支払いの際は札束で支払います。数えるのが大変なので重さで勘定します。一枚一枚数えようとすれば『野暮なことするな』とみんなに怒られました。あまりに高額紙幣を発行したためにお釣りが足りません。会計の時に大小の石鹸を貰って帳尻を合わせます。財布を落としたら財布が抜かれて中身だけが返ってきました。古いアルム紙幣は燃料や壁紙にします。道端に捨てられた大量の紙幣を集めてそのまま製紙工場に売りに行きました。もう誰も正確な物価を知りません。ついにアルム紙幣は使われなくなって人々は禁止されていた外貨での取引を始めました。結局は政府もそれを認めたのです」
ルーク「その外貨って……」
フラペコ「もちろんベルクのことです。人類が初めて体験した急速なインフレ……。名付けるならば……ハイパーインフレーション」
ルーク「ハイパーノートをバラまいたらそんなことになるかな?」
フラペコ「そこまで深刻な状況にはならないでしょう。大混乱は確実に起こるでしょうが……」
いかがだっただろうか。台詞の部分だけ引用すると長文のように感じるかもしれないが、紙の単行本だとわずか7頁という情報量で収まっているのである。個人的に印象に残ったのはハイパーインフレ下の社会における財布の位置づけである。現代日本では幸運にも財布を落としてしまっても財布もその中身も無事に帰ってくることが珍しくない。通常の海外では財布の中身が抜かれて財布だけが返ってくると言うが、コレもまだ理解は出来る。ハイパーインフレ下の社会ではその真逆のことが起こるというのである。現金よりも財布や他の何か具体的な「物」の方が価値があるとみなされる特異な状況である。ブラックジョークのような話だが、現実にハイパーインフレが起こってしまった社会ではこれが現実なのだろう。
(2)美術・芸術・創作・表現に関する哲学
『ハイパーインフレーション』が経済を扱った頭脳戦であることに影を潜めがちだが、個人的には美術・芸術・創作・表現に関する哲学を謳っているところも重要な『ハイパーインフレーション』と言う作品の面白さを語る上で欠かせない要素だと思っている。
『ハイパーインフレーション』という作品において「芸術論」を語る上で欠かせない人物が二人いる。一人は「偽札殺し」(本名は最終話まで明かされず)。現在のベルク札を製作している人物であり、偽造ベルク札を作成した才能溢れる若い職人313人を処刑台に送った狂人である。彼の紙幣に限らず芸術作品を生み出す際の信条・哲学は「醜い容姿と醜い心を持った人間だけが、本当に美しい作品を生み出せる」というものである。その信念に基づき、主人公ルーク陣営が作り出す偽札のわずかな手がかりを掴んでさらに精巧な紙幣を創ろうと人生を捧げている男である。
もう一人の名は「ビオラ」。ルークの「偽札作り」に協力する芸術家である。「偽札殺し」に対するコンプレックスと失望と羨望が入り交じった複雑な感情から一時は創作活動から離れていたが、ルークの説得により偽札作りに協力することになる。そんなビオラのある種屈折したコンプレックスを爆発させるシーンが個人的に強く印象に残っているので、引用して紹介したいと思う。
ビオラ「紙幣の正解がそこにあった!!一つ一つの技術は見たことあるがその組み合わせ方が秀逸なんだ。これから作られる紙幣はベルク札を真似るだろう!!鮮やかなカウンターパンチをくらった気分だった。『偽札殺し』が政府に協力して偽札を見破り続けたのも自分が新しいベルク札を作るために違いなかった。技術力の高さはもちろん自分の売り込み方まで何もかも格が違うと思い知らされたよ」
フラペコ「それが画家を辞めた本当の理由……」
ルーク「カメラ関係ないじゃん……」
職人A「だが『偽札殺し』は政府に魂を売ったんだ」
職人B「ベルク札には帝国の女神が描かれている」
職人C「国民国家を作るための政府のプロパガンダだ」
ビオラ「……だがおかげで少なくとも約4500万枚が刷られた。歴史上未だかつて個人の作品がそんなに刷られたことはない」
フラペコ「そもそも一部は機械で彫っているんでしょう。実力じゃないのでは?」
ルーク「それに一人で作ってるわけじゃないしな」
ビオラ「うるせぇ!!貴様らに何が分かるッ!!いいものを作るのに手法なんて関係ないんだよ!!柔軟に新しい技術を取り入れているところとかカッコいいだろうがァ!!」
ダウー「……好きなの?」ドキドキ
ビオラ「大嫌いだよッ。だがアイツのことは俺が一番理解している!!俺以外がアイツを貶すのは許さん!!」ゴッ
ビオラ「大嫌いなのにッ。ブ男なのにッ。クソ~~~ッ!!アイツのやることなすことが、俺の心を動かしやがる……!!」
ビオラ(「毎日一度は好きでもないお前のことを考える!!クソ~~なんで俺ばかり……。不公平じゃないか!!お前ももっと俺を意識しろ~~~~~~」)
ルーク「今回偽造してみてベルク札のすごさがわかったな!!」
フラペコ「そうですね!!」
ビオラ「黙れニワカ共ッ!!貴様らごときにあの作品の真髄が理解できるわけないだろ!!浅い知識で褒められたらバカ向けだと思われてかえって作品の価値が下がるッ」
そして、私がこの「偽札殺し」とビオラの2人がそれぞれ顔を合わせることなく切磋琢磨している最終シーンがとても好きなのでコレも紹介する。彼らは「紙幣作り」に人生を懸けているが、この姿勢はあらゆる創作活動において通ずるものがあるので是非原作も確認して欲しい次第である。
偽札殺し・ビオラ「神様……多くは望みません」
偽札殺し「醜くていい。貧乏でいい。孤独でいい」
ビオラ「馬鹿でいい。短命でいい。変人でいい」
偽札殺し・ビオラ「だからッ!!だからどうか!!これだけは―――!!」
少し話は脱線するが、日本を代表するロックバンド「B'z」のマニアックな楽曲の中に”GUITAR KIDS RHAPSODY"というものがある。この楽曲の中で「自由とは何か」と謳う部分があるのだが、その問いかけに対し「譲れないものが一つあることが本当の自由さ」「束縛されないことが自由じゃない」というフレーズがある。「偽札殺し」とビオラが最後に新しいベルク札の製作者に選ばれるために精魂込めて新しい紙幣を作成しているシーンは、この"GUITAR KIDS RHAPSODY"のフレーズを思い出させてくれる地味ながらも名シーンだと個人的に思っている。この二人の芸術家の人生を、プライドを少しでも理解ないし共感できる人が増えたら良いなと思っている。あるいは、劇場アニメ映画として知名度を上げた藤本タツキ先生の短編作品『ルックバック』にも通ずるところがあるかもしれない。
(3)番外編
『ハイパーインフレーション』はギャグというか台詞回しもなかなか秀逸である。いくつか具体例を紹介しよう。
盗賊A「3人で山分けだ」
盗賊B「一億は3じゃ割れねーぞ」
盗賊C「じゃあお前死ねよ」
これまで頭脳戦を繰り広げていたのが嘘のような知性も品性も感じられない会話劇である。もう一週回って「ちんちん亭」語録のようなテンポの良さが秀逸でもある。「ちんちん亭」が何か分からないという方がいれば自己責任で調べて頂きたい。頭脳戦だけでなく脳の溶けた台詞回しも出来るのが『ハイパーインフレーション』という作品の面白さの一つである。
他にも個人的にツボった現実のパロディ的迷台詞を紹介しよう。
グレシャム「お待たせみんなァ偽札を売るぞォォ!!世界経済をォォぶっ壊ァァ~す!!」
日本のどこかの政党の党首の決め台詞のように聞こえる気もするが、きっと気のせいだろう。こういう小ネタもあるから『ハイパーインフレーション』は抜け目ないのである。
『ハイパーインフレーション』という作品はルークが恍惚な表情をしながら射幣するシーンが下ネタ的なニュアンスの強い代表的なシーンだと思うのだが、時々台詞そのものにもさらっと下ネタが含まれているものがある。その中でも個人的に秀逸だと思ったものを紹介しよう。
ルーク「漂白!!漂白!!漂白!!ハイパーノートを偽札の原料にする!!俺は人間製紙工場だ!!」
この台詞は文字にして読むとそこまで違和感はないが、アニメやドラマCDなど音声だけにして聞くと何も知らない初見勢はビックリするであろう言葉遊びのコーナーである。こういうネタは西尾維新の『物語』シリーズ等にも見られる現象だと思われるので、時間に余裕があれば確かめてみて欲しい。
4 おわりに~住吉九先生はいいぞ!『ハイパーインフレーション』だけでなく最新作『サンキューピッチ』もよろしく!~
『ハイパーインフレーション』は面白いことは間違いないし勉強にもなる素晴らしい作品なのだが、唯一欠点を上げるとすれば、若干一般人には勧めにくい作風ということである。せっかく『ハイパーインフレーション』という面白い作品を生み出せる才能を持つ人間の存在を少しでも広く世間に周知したい。そんな中良い方法はないかと思い、つい先日改めて本屋に巡ったところ、『ハイパーインフレーション』の作者である住吉九先生の最新作である『サンキューピッチ』の単行本が2巻まで出版されているのを発見して、コレを購入した。『サンキューピッチ』は野球マンガであるが、『ハイパーインフレーション』でも見られた頭脳戦・個性や癖の強い登場人物達・登場人物の成長といったエンタメ要素が損なわれることなく、しかも現代日本の高校野球を舞台にしていることもあって『ハイパーインフレーション』よりも身近で読みやすい雰囲気を作ることに成功している。いわば、『ハイパーインフレーション』の面白さをよりブラッシュ・アップした作品が『サンキューピッチ』と言えるのである。
現在の私が「オススメの漫画を教えて」と言われたら間違いなく『ハイパーインフレーション』と『サンキューピッチ』を勧めることだろう。この投稿を最後まで読んで下さった方の一人でも多くの人が、『ハイパーインフレーション』や『サンキューピッチ』の面白さに目覚めてくれれば望外の喜びである。貴方の素敵な漫画ライフの充実に『ハイパーインフレーション』や『サンキューピッチ』が加わることを細やかながら願うことにする。
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